奇談その三十八 児童虐待

 亮輔は一児の父である。息子の拓史が小学校に入学する前に今住んでいるアパートに引っ越した。妻の麻由美は自分の両親との二世帯住宅での暮らしを望んだが、亮輔はそれを拒否して、アパート暮らしを選んだのだ。

「またご近所のトラブルに首を突っ込んで、面倒臭い事にならないでよね」

 出勤の時、麻由美に念を押された。亮輔達は一階に住んでいるが、両隣はもちろんの事、上階の人達の揉め事にも口を出して返って問題をこじらせたり、逆恨みされたりしているのだ。それも、昼間は不在の亮輔ではなく、麻由美が嫌がらせの標的にされていて、彼女は辟易しているのだ。

「放っておけないよ。見て見ぬ振りはするなっていうのが、我が久坂家の家訓なんだからさ」

 全く悪びれる事なく、亮輔は笑顔で反論した。

「はいはい」

 麻由美は何を言っても無駄だと思ったのか、それ以上は何も言わずに送り出した。


「お母さん、ごめんなさい! もうしないから許して!」

 亮輔がアパートに戻った時、幼い子供が泣き叫ぶ声が聞こえた。

(児童虐待か?)

 アパートの全室の家族構成を記憶している亮輔はいくつかの候補を頭の中に思い浮かべた。

(二階の越野さんか?)

 待機児童を抱え、夫の転勤が重なって、精神的にかなり参っていると噂で聞いていた。彼は自分の部屋に戻らずに外階段を駆け上がり、越野の部屋へと走った。ところが、

「お母さん、ごめんなさい! ごめんなさい!」

 その声は越野の部屋からではなかった。

「ここ?」

 亮輔が立ち止まったのは先日引っ越した上村がいた部屋の前だった。

(この部屋は空き部屋だ。誰もいるはずがない)

 亮輔は聞き違いだろうと思い、越野の部屋へ行こうとした。

「お母さん、お願いだからぶたないで!」

 声は間違いなく上村がいた部屋から聞こえてきた。

「誰かいるんですか?」

 亮輔はドアをノックした。返事はない。

「お母さん、ぶたないで!」

 また聞こえたので亮輔はドアを勢いよく開き、中へ飛び込んだ。

「え?」

 そこにいたのは、幼い頃の自分だった。そして、部屋の奥には、血まみれの女性が倒れていた。

(そうだ。俺は小さい頃、母親の暴力に堪えかねて……)

 その日を境に、亮輔は行方不明になった。

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