奇談その十七 保険の達人

 神田律子は新米ママ。愛娘の雪をベビーカーに乗せ、アーケード通りを歩いていた。

「そこのお嬢さん、お時間ありますか?」

 どこかから男の猫撫で声が聞こえた。だが、自分が「お嬢さん」ではないのは自覚している律子は、その声に反応する事なく、歩き続けた。すると、

「そこのベビーカーを押しているお嬢さん、ちょっといいですか?」

 ベビーカーと言われ、律子は立ち止まって周囲を見渡した。自分以外にベビーカーを押している人はいない。

「私?」

 そこでようやく律子は声のする方に向き直り、尋ねた。

「そうです。貴女です、お嬢さん」

 そう言って営業スマイルを全開にしたのは、ロマンスグレーの髪を七三にキッチリと分けたねずみ色のスーツを着た男だった。

「私はお嬢さんではありませんが?」

 律子は訝しそうな目で男を見る。すると男は営業スマイルのままで、

「お嬢さんにしか見えなかったもので。失礼しました、奥様でよろしいのですね?」

 誉められているのか微妙な気がした律子は半目で男を見た。男はそんな律子の反応を気にするでもなく、

「こちらへどうぞ」

 半ば強制的に彼女を一枚板のガラスでできたドアを開き、その奥へと導いた。

「何も買いませんよ」

 律子は新手の商売だと感じ、予防線を張った。ところが男は、

「何かを売りつけるのではありません。お話を聞いていただきたいのです」

 尚更怪しいと思った律子は後退あとずさりした。

「奥さん、保険に入っていないでしょう?」

 男がずばりと言い当てたので、律子はビクッとした。男は嬉しそうに頷き、

「当たっているみたいですね。独身時代はそれでもよかった。結婚してもまだまだ大丈夫。でも、子供が生まれたら、そうも言っていられない。そう思いませんか?」

 畳み掛けるように喋り続けた。律子は顔を引きつらせて、

「はあ、そうですね……」

 自分や夫の陽太に何かあった時、雪はどうなるのかと考えてしまった。

「そんな時こそ、私をお役立てください!」

 男はそう言って恭しくお辞儀をすると、ポンと煙を出して消えてしまった。

「え?」

 ハッと我に返った律子が手にしていたのは、

「保険天国。保障が服を来て歩く」

 そう書かれたパンフレットだった。

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