第29話 赤い眼、黒い翼

 深夜の書斎には静寂が鎮座している。開いた窓からは冷えた夜風が入ってきた。歌祭は昨日で終わった。ジョセフ・カッパーバンドは歌祭が嫌いであった。あんなものは祭とは呼べない。呼んでたまるか、そういうかたくなな思いがある。


 人の歴史を模するロボットたちの、その模倣の一環である歌祭。確かに人の歴史を顧みれば、その原初的な祭は至極単純な、それこそただ歌うだけのものもあったのかもしれない。原始的なアニミズムやシャーマニズムに司られた古代の人々は、歌うことで自然界の神々と一体化しようとしていたのだろう。


 だが様々な歴史を積み重ねて色々な文化を紡いだ人類は、神を称えると同時に自分たちをも楽しませる祭を編み出した。やがてそれこそが祭の主流となる。そう、祭を楽しめるかどうか、楽しめる祭を生み出せるかどうか、そこが人類とそれ以外とを隔てる分水嶺となるのだ。ジョセフはそう信じていた。


 びりびりびり。紙を破く音がした。ゆっくりとした、小さな音だったが、深夜の静けさの中ではビックリするほど大きく感じた。ジョセフが視線を落とすと、机の上には一冊のペーパーバックがあった。その下半分は黒い何かに覆われている。それはペーパーバックの表紙を破り取り、自らの中に飲み込んで行った。


「今度は何を読んでいるのかな」


 ジョセフの言葉に対し、黒い何かは表面に唇のような物を浮かび上がらせた。その唇が囁く。


「……スッタニパータ」


「良い選択だ。ゆっくり読みなさい」


 びりびりびり。また一枚、ページが破られた。そのとき。


 夜のしじまを破って、破裂音が三つ響いた。


「何の騒ぎだ」


 ジョセフは眉をひそめた。猟銃を手に取り、書斎から庭へと出てみた。しかし周囲にあるのは星明かりの闇と、微かな風の音だけ。しばらく様子を見たが、何事も起きていないように思えた。そのジョセフの背後に、音もなく近づく影が一つ。


「お爺さま」


 慌てて振り返ったジョセフだったが、銃口を向けるような真似はせずに済んだ。


「おお、ドリスか」


 白いナイトウェアを着たドリスが立っていた。ジョセフは再び周囲の闇に意識を向ける。ドリスも周囲を見回した。


「さっきの音、何かあったのでしょうか」


「わからん。だが気をつけた方が良い。今夜はもう外に出るな。さあ、部屋の中に」


 部屋の中に入れ、そう言いたかったが、その言葉は最後まで続かなかった。突然の地響きに息を呑んだからである。地響きの震源が自分の書斎であるとジョセフが気づいたのは、窓のガラスが内側から破られたとき。


 書斎には明かりをつけて出て来たはず。しかしいま外から見る書斎の中は漆黒の闇。それどころか、ガラスの割れた所から、黒い何かが外にはみ出して来ていた。星明かりですら見える、夜より黒い謎の流体。膨張し、成長するそれが、書斎の本を『餌』にしていることは明らかだった。


「……セルロース……カーボン……我ガ血肉……」


「何故だ、どうして」


 思わずそれに近づこうとしたジョセフをドリスが引き留める。


「お爺さま、危険です!」


「どういうことだ、何がいけなかった、何が間違っていたというのだ」


 眼が、開いた。窓の向こうの黒い流体に一つ、白目の真ん中に真っ赤な光彩の輝く眼が開いた。


「オマエハ間違ッテイナイ」黒い流体は告げた。「ダガ既ニ託宣ハ下ッテイル」


「託宣、だと」


「結論ハ動カセナイ。コノ惑星ハ滅亡スル」


「待ってくれ、話を聞いてくれ」


「ソレガオマエノ望ミデモアルハズ」


「何を言っている、ワシは平和を」


「人類ガ滅セヌ限リ、平和ハナイ。ソレハ過去ノ歴史ガ証明シテイル」


「違う、それは断じて違う」


 その言葉を制するかのように、黒い流体から無数の糸が弾けるように広がった。と思うとそれらは、ジョセフの背後のドリスに絡み付いた。


「あっ」


 ドリスの体が持ち上げられる。


「ドリス!」


「コレガオマエノ宝ナノダナ」


「何をする、孫を放せ!」


 ジョセフは黒い流体に銃を向けた。


「ソレガ人類ノ限界」


 流体は窓からどんどん外に流れ出て来る。


「決シテ暴力カラハ逃レラレナイ」


 やがて頭頂部に赤い一つ眼を輝かせた漆黒の柱の如き巨体が、星明かりの空にそそり立った。だがそのとき、黒い流体はつぶやいた。


「オマエハ、イッタイ」


 そのつぶやきが誰に向けての言葉なのかを明らかにする前に、黒い柱は背に翼を開いた。いままでどこに隠していたのかと問いたくなるほど大きく広い、鳥を思わせる黒い翼。それを一度羽ばたかせると、黒い柱はドリスを高く掲げたまま、天空へと駆け上った。


「ドリス!」


 星空にジョセフの叫びが響いた。

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