誰が古藤教授を殺したのか?
トクロンティヌス
誰が古藤教授を殺したのか?
第1話 笹嶋生命科学研究振興財団
地獄の沙汰も金次第――というのであれば、何をするのにもいちいち金のかかる科学研究の世界はある意味で地獄なのかもしれない。それはそういう事件だった。
一、 笹嶋生命科学研究振興財団 研究助成金 二次審査会
国立古都大学大学院理学研究科生物科学専攻の准教授である天城修平(あまぎ しゅうへい)は、その日、あるグラント(公募型競争的研究資金)の二次審査会に向かっていた。民間企業が母体となっている一般財団や公益財団の中には、母体である企業からの寄付金を運用して、その運用益を国内の大学に所属する研究者に研究費という形で配布するものが少なくない。日本という国自体が大学への研究費の拠出を渋っているなかで、こういう民間研究資金は基礎研究だけでなく、医薬品や工業製品への応用研究の発展を支える重要な一つの柱になっている。
二時間十八分の新幹線を降りて、山手線に乗り換えしばらくしてから最寄駅で降り、少し歩くと目的の財団本部が入るビルにたどり着く。このビルには、自分が向かっている公益財団法人 笹嶋生命科学研究振興財団以外にも、それぞれの階に同じような研究費助成を行っている財団が入居していて、通称「財団ビル」と呼ばれている。
エレベーターに乗り十階を押すと、突然「すいません、私も乗ります」と若い女性の声で呼び止められる。
天城は、ドア早く閉まれと心の中で念じる。声の主が誰だか分かったからだ。
しばらくして身長一五〇センチくらいの黒縁眼鏡をかけた若い女性が、息を切らして同じエレベーターに入ってくる。天城はやっぱりか、とため息をつく。
「あ、天城先生も今からだったのですね。ちょうどよかったです」
眼鏡の女は後ろで結んだ髪を揺らし、嬉しそうに天城に話しかけてくる。白いブラウスの胸元が窮屈そうに自己主張していて、十代後半のような童顔とのギャップを演出している――本人にはおそらくそのつもりはないのだろうが。
藤森三雪(ふじもり みゆき)は、天城がまだポスドクという教員ではない任期付きの研究者として、東京の国立東都大学で働いていた頃の同じ研究室の学生で、大学院在籍中にサイエンス誌などの著名な海外論文雑誌に次々と論文を発表し、博士号取得後アメリカに五年間留学した後で、有名私立大学である白山義塾大学の教授として日本に戻ってきた才媛である。
――そして、天城のかつての恋人でもあった。
天城自身も国立大学、それも所謂旧帝国大学と呼ばれる難関大学の准教授という職を得ているのだから、彼女に対して引け目を感じる必要はないはずなのだが、相手は五十代でも教授になれないような競争の激しい白山義塾大学で、まだ三十代前半だというのに教授をはっているかと思うと、かつてのように接することができないでいた。向こうはそんなことを気にしていないのは、振る舞いを見ていればすぐにわかる。
「き、今日も暑いですね」
さすがに何も話さないわけにもいかず、時事のことでも話そうかと声に出すと初っ端から噛んでしまう。藤森はというと、それに答えるわけでも、吹き出すわけでもなく、「あ、もう着きますよ」と天城の言葉そのものを聞いてもいなかったのだった。
「持田先生も、長谷川先生もお早いですね。お疲れ様です」
二次審査の会場にはすでに二人の審査員が先に着いていて、それぞれに藤森があいさつをしていく。天城もそれに続く。
「今日は谷崎先生はご欠席ですので、あとは古藤委員長だけですが――古藤先生も遅れると財団に連絡があったそうです。先に二次審査を始めておきましょうか」
白髪頭で少し神経質そうな顔をしている持田がそう告げる。遅れてくることになっている今回の研究助成金の審査委員長である古藤清彦先生は、東都大学大学院理学系研究科の教授で、天城や藤森の恩師でもある。
厳格な性格で縁故や温情で手心を加えるなど考えられない人であったため、昔の教え子である自分や藤森に審査員として声がかかったのは、何かの間違いではないのかと天城は去年の十月に話をもらった時に思ったものだった。
「古藤先生が時間に遅れるって珍しいですね」
自分の隣に座っていた藤森が小さな声で話しかけてくる。「ああ、そうだな」と、つい昔の癖でため口で返した後に、気が付いて慌てて藤森の方を見ると、にやにやとした顔でこちらを見ている。こういう意地の悪いやつだったと後悔しながら、話題を変えようと他の二人の審査委員に声をかける。
「そ、それでは各自推挙する申請案を提出しましょうか」
この笹嶋生命科学研究振興財団の研究助成金の審査方法は他の民間財団のそれと比べるとやや特殊で、①まず財団の事務が書類の不備などがないかをチェックした後で、②天城や藤森のような審査員にランダムで申請書を送付する。送られる申請書は、審査員同士でオーバーラップすることがないようになっていて、基本的にはそれぞれの審査員は別々の申請書を審査していることになる。
またこの段階では、研究計画の書かれているそれぞれの申請書は、申請者の名前が伏せられていて、各審査員はその内容だけを純粋に評価して二次審査に進む研究プランを選出していく。
今日の二次審査会の前に、③各委員が選出した申請書を今度は財団の理事会が一度目を通し、それぞれの申請者が属している研究機関が研究助成金を支給しても大丈夫かどうかを判断することになっている。
このステップは、かつて助成金を支給した機関で会計処理に不正があってテレビのニュースで大々的に取り上げられたことに起因するらしい。この段階を経て――いくつかの申請書が財団の理事会によって弾かれた後で――今度は④申請者の名前がオープンになった状態で申請書が審査員に送られてくる。
天城のような審査員はここで初めてどこの誰の申請書だったかを見ることができ、「この研究者にはこの研究計画は遂行できないのではないか」と思った案をいくつか排除することになっている。ちなみに天城はこの段階ですでに推挙する申請書は一つだったため、そのまま今日の二次審査会に持ってきている。
今日の二次審査会は、⑤各委員が選んだ申請書同士を提出し、その中で五千万円の助成金を支給する最優秀賞一件と、五百万円の助成金を支給する優秀賞を二件、それに三十九歳以下の申請者に三百万円を与える若手奨励賞一件に該当する研究プランを審査員の合議で決めていく。
「私はこの申請書を」と、各々がそれぞれ一部ずつをテーブルの中央に押し出す。天城、藤森、持田、長谷川の四人それぞれが今回は一つのプランだけを選出したようだった。
「それでは私が一つ一つの研究題名をホワイトボードに書きましょう」
長谷川がその四部の申請書を持ち、部屋の北側の壁に掛けてあるホワイトボードに向かう。そして、一つ目の申請書の題名を青色のペンで書く。
『鹿児島県固有希少疾患患者から採取したiPS細胞を用いた疾患メカニズム解明』
続いて、その次の申請書の題名を書こうとした長谷川が声を上げる。
「なっ……えっ!?」
長谷川のあまりの驚きようにその他の三人が「どうしたんですか」と尋ねると、長谷川は慌ててすべての申請書を近くのテーブルに並べ、「こんなことがあるわけない!」と険しい顔になる。天城や藤森、持田もすぐに近くに寄る。
「見てください……この別々の申請者から出された申請書、全部同じタイトルで、要旨も同じなんです!!」
そんな馬鹿な、と持田が慌てて申請書を確認する。一部、一部と手に取ると次第に顔色が悪くなっていく。
「こんなこと起こるわけがない! タイトルがよく似ることはあっても、二百八十文字の要旨まですべて一緒だなんて……」
持田が呻く。その手元の申請書を「ちょっといいですか」と藤森が取り、確認する。
「……申請者は、愛知県、東京都が二つ、北海道とバラバラですね。大学のもあるし、独立法人の研究所のものもあります。申請者は五十代から三十代までバラバラ。男女ともにいます。 ……ぱっと見た感じ、申請者同士に繋がりなんてなさそうに見えますね」
こんなことがありえるのだろうか、とその場の全員が唸る。そして全員が「少なくとも自分の経験ではありえない」と同じ意見を述べていく。
民間財団の助成金としてはありえないほど高額なその助成金を獲得しようと毎年五百通を超える申請書が届く、この笹嶋生命科学研究振興財団研究助成事業で、まったく同じタイトル、同じ要旨のものが四通も存在しているなんて……と天城が頭を抱えていると、藤森が何かに気付いたように声を上げる。
「ちょっと待ってください。おかしいですよ、これ。この四通って、財団の理事会は私たちの前に一度全部を見ているはずですよね。それが全部同じタイトルだったとしたら財団理事会が気付くはずではないですか!?」
確かにと天城が応えると、藤森は「財団に確認しましょう」と扉に向かう。
その瞬間、扉は藤森が開けるよりも早く開き、財団の職員が血相を変えて駆け込んでくる。
「先生が! 古藤先生が亡くなりました――交通事故です!」
その知らせに藤森が口を両手で押さえる。
他の三人が呆然としていると、財団の職員は続けて、「と、とりあえず今日はお帰り下さい。二次審査会については状況が分かり次第ご連絡いたします」と続けた。
後日、やり直しとなった二次審査会の日程と古藤先生が生前に推挙していた申請書のPDFファイルを添付したメールが天城のパソコンに届く。
――そこには『鹿児島県固有希少疾患患者から採取したiPS細胞を用いた疾患メカニズム解明』と書かれていた。
(続く)
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