第4話 不安と葛藤

 家に帰った僕は、真っ先に自分の部屋へと向かった。クローゼットを開け、収納ケースを開ける。いっぱいに詰め込まれていた本を外に出し、奥底からお目当ての本を取り出した。

 弓道を始めた頃、とにかく読み込んだ弓道教本。基本は全てこの中に詰まっていると言っても過言ではない。

 ページを捲るたびに、懐かしい文面が僕の頭をくすぐる。とある文面がページを捲る手を止めた。

 射法八節。射法において基準となる動作を、八項目に分けて説明している。

 足踏あしぶみ、胴造どうづくり、弓構ゆがまえ、打起うちおこし、引分ひきわけ、かいはなれ、残心ざんしん残身ざんしん)の八項目。

 一つでも抜かしてしまうと、弓道では致命的となる。

 中学生の頃、翔兄ちゃんから射法八節について教わったことがあった。翔兄ちゃんは、とにかく見て覚えろとしか僕に言われなかった。今思うと、ものすごく適当に教わった気がする。だけど翔兄ちゃんの見せてくれた動作は、今でも鮮明に思い出すことができた。

 凛に教える為に色々と要点をまとめていると、インターホンが鳴った。気づけば既に十九時を過ぎている。急いで玄関に向かうと、スーパーの袋を持った凛が目の前にいた。一旦家に帰ったのか、凛はジャージ姿だった。


「おっす」

「おっす。何か買ってきたの?」

「カレーの材料買ってきた。今日は私が料理作るから」

「別にいいよ」

「駄目。教えてもらうんだから、それくらいさせなさいよ」


 そう言い残すと、凛は家の中へずかずかと上がりこんでいった。そして慣れたようにキッチンの方へ足をはこぶと、僕に断りもなしに冷蔵庫の中身を凝視する。


「やっぱり。ちゃんとした食事取ってないでしょ」

「食べてるよ。かつ丼とかピザとか」

「それって出前でしょ。栄養偏っちゃうよ。全く、私がいないといつもこうなんだから」


 ため息を吐いた凛は、鼻歌を歌いながら台所で調理をしはじめた。

 凛は男勝りな性格のわりに料理だけは上手い。昔から凛のお母さんと一緒にわざわざ家にやってきては、料理をふるまってくれた。今もこうして料理を作ってくれる。そんな凛の背中は、どこか母さんの面影を感じた。

 僕の母さんは、小さい頃に病気で亡くなった。物心つく前のことだったので、具体的には覚えていないけど、父さんが母さんの話をよくしてくれたのを覚えている。

 父さんは、僕が中学生にあがるのと同時に仕事の都合で海外に行ってしまった。一人になってしまった僕の面倒を、凛のお母さんが見てくれることになった。凛のお母さんには本当に頭が上がらない。

 色々と思い出していると、凛が料理を持ってやってきた。目の前にはカレーとサラダ。どこの家庭でも出そうな定番のメニューだけど、僕にとっては久しぶりの手料理だった。


「いただきます」


 凛が両手を合わせて挨拶すると、僕のことを睨み付けてくる。それに気づいた僕も、手を合わせ挨拶した。


「い、いただきます」

「うん。召し上がれ」


 笑顔になった凛を横目に、僕はカレーを胃袋に入れる。


「美味しい」

「私が作ったから当然でしょ」


 どうだ! とばかりに、自信に満ちた表情を晒した凛もカレーを食べ始める。

 久しぶりに手料理を食べたこともあり、直ぐに器が空になった。


「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」


 片づけをした後、僕が弓道教本とまとめたノートを部屋から持ってくると、凛がゴム弓を引いていた。


「ゴム弓、買ったんだね」

「うん。入部当初に全員買わされたよ」


 会の姿勢を保ちながら凛は応える。

 ゴム弓は自分の形を確認するにはもってこいの道具。射法八節に基づいた射形の練習ができる。また、弓と違い手軽に形の練習ができる点がとてもいい。


「少しやってみせてよ」

「うん」


 凛は両手の親指を腰骨にあてる姿勢「執弓とりゆみの姿勢」をとり、射法八節の流れに沿って弓構えまで行った。ここまでは、特に何も言うことがなかった。入学して弓道を半年続けたのだから、できて当たり前なのかもしれない。

 物見を入れた凛は打起しに入る。そのまま大三だいさんをとり、引分け、会まで到達する。そこからの離れ。そして残心、弓倒ゆだおしをして足踏みを戻した。


「どう……かな?」

「もう一度やってくれる?」

「うん」


 再度、凛にゴム弓を引かせる。一度目である程度把握できたけど、二回見ることでより一層その人の癖がわかるようになる。

 なるほど。僕は凛の形を見て、注意すべきところがすぐにわかった。


「打起しの時に、馬手めて弓手ゆんでよりも少し下がってる。下がったまま大三をとっているから、引分けの時のバランスが悪いんだよね。引分けは弓手の方に意識があるのか、馬手よりも先におさまっている。これじゃ、会の時に均等に伸びることができないから形も綺麗に見えないし、中りもあまり期待できないと思う。左右均等に引く意識を持ったほうがいいよ」


 少々きつめに言ってしまったと思い、僕は恐る恐る凛の顔を見る。それでも凛は、僕のアドバイスを真剣な表情で聞いてくれていた。


「やっぱり、私だけじゃ気づかないところがいっぱいあるね」


 くそーっと悔しがる凛は、真剣に弓道について考えてくれているみたいだ。


「あと、全体的に固くなってたよ。もっと肩の力を抜いて、呼吸を意識して引くことが大事だと思う」

「うーん。何となくわかるんだけど、できるかわからない……」


 凛は急に小さくなると、不安を漏らした。


「なら、もう一回やってみてよ。今度は違ったら矯正するから」

「うん。お願い」


 凛は再度、弓構えをする。ここまでは自分でも見えているから、間違いがはっきりわかるはず。問題は物見を入れた後。打起しをするときだ。

 打起しをした凛は、そのまま大三の姿勢をとろうとした。


「ストップ」

「何?」

「そのままの姿勢で物見を戻してみな」


 凛は言われた通り、物見を戻した。


「あっ……」

「馬手が下がっているでしょ?」

「うん」

「物見を入れると、自分がどんな形で引いているか見えないよね。だから、こうして形が崩れていることに気づかないんだ」


 伝え終えた僕は、凛の馬手を弓手と平行になる位置に戻した。


「この位置が、平行。意識できそう?」

「うーん。難しい……」

「形を自分のものにするのは時間がかかるからね。できれば、誰かに見てもらってアドバイスしてもらうのが一番だよ。もし一人で練習するなら、全身が写る鏡の前で練習することがオススメかな」

「なるほどね。先輩がいつも鏡の前を占領している理由が分かった気がする。今度、私も借りようかな」


 意気込む凛は、何度も打起しの動作の確認をする。


「それに」


 僕は凛の後ろに回ると両手で両肩を押さえた。華奢な凛の身体に触れた瞬間、ぴくっと凛の肩が震えたのがわかった。


「な、な、何?」

「肩に力入りすぎ。肩が上がってるよ。これじゃ、引きにくいと思う」

「う、うん……」


 凛は小さくなり、僕から視線を逸らして俯いた。若干だけど、凛の頬が赤くなっているように見えた。


「一……」

「何?」

「……そろそろ、手……どけて欲しいなって……」


 先程より凛の頬がさらに赤くなっていた。


「あっ……その……ごめん……」


 凛の言いたいことに気づいた僕は、とっさに肩から手をどかした。

 形の指導の時には、実際に触れて直すことはよくあること。教えあうことに男女は関係ないけど、さすがに至近距離で異性の身体に触れるのだから、気を使うべきだった。

 何を話すべきかわからずに言葉を失っていると、凛が黙々とゴム弓を引きはじめた。先程教えたことを意識しているのか、自分で形の確認を行いつつ練習を再開する。


「凛はさ、男子から教えてもらったことってないの?」

「ないにきまってるでしょ。だって、男子って道場に来ないし」

「そうだよね……」


 男子弓道部の道場使用が禁止されている以上、互いに形を見せ合う機会がない。しかも部員も高瀬一人のせいで、男子の活動が一向にできない状態になっている。

 翔兄ちゃんは、僕に弓道部を託したいと言った。だけど高瀬や凛から聞いた話を聞くと、僕にはどうにもできないことが多い。やはり無理な気がする。


「そういえば、翔兄ちゃんってまだ凛の家にいるの?」

「もういないよ。今朝、実家の方に帰っちゃった」

「そっか」


 凛はゴム弓を置くと、冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注ぐ。そしてそのままぐびっと一気に飲み干した。


「翔兄ちゃん、一のこと心配してたよ」

「……うん」


 凛の言葉に僕は頷くことしかできなかった。

 俯いていた僕の双眸に麦茶の入ったコップが映る。顔を上げると、凛が笑顔で差し出してくれていた。僕はそれを受け取って、口をつける。五臓六腑に冷たい麦茶が染み渡る。


「でも、翔兄ちゃんは期待もしてたよ」

「期待?」

「一に教われば、凛はもっと上手くなるって。あいつはやればできる奴なんだって」


 得意気に話す凛の言葉は、僕には信じられなかった。翔兄ちゃんも凛も、どうして僕のことを買いかぶるのだろうか。


「僕は何もできない人間だよ。今だって僕なんかよりも翔兄ちゃんに教わるほうが、凛はもっと上手くなると――」

「そんなことない!」


 凛が突然大声で叫んだ。あまりの勢いに僕は腰が抜けそうになる。


「だって考えてみなよ。全国三連覇の立役者だよ。大学だって弓道の強豪校にスカウトされたから京都に行ったんだ。翔兄ちゃんから教わるほうがいいに決まってる」

「そうかもしれないけど……」


 言葉に詰まった凛は、声音が低くなっている。


「私は……一に教わりたい」

「どうして?」

「どうしてもこうしてもない!」

「訳がわからないよ」


 僕の言葉に反応した凛は大きく息を吐くと、苦しそうに言葉を紡いだ。


「どうして無理って決めつけちゃうの? 昔の一は無理なんて言わなかった」


 凛の叫びに応えることができずに、僕は顔を背けた。


「……帰る!」


 怒鳴りつけるように言葉を吐き捨てた凛は、荷物をまとめて玄関に走って行く。


「凛、待ってよ!」


 後を追って玄関に向かったけど、凛は既にいなかった。ドアの閉まる音が廊下に空しく響き渡る。

 凛はどうして僕に教わりたかったのだろう。僕は間違ったことは言ってないと思う。それでも、凛は明らかに怒っていた。癇に障ることを言ったのかもしれない。

 静まり返った室内に充満するカレーの香りが、先程までここに居た凛のことを思い起こさせる。

 凛の言いたかったことがわからず、僕はずっと悩み続けるしかなかった。

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