第11話「交錯する思い」怨霊調伏篇

 黴臭いにおいが鼻をつく。

 灰色の壁にぼうと浮かび上がった影へと、黄金の光が振るわれた。

 影の主が六つの足で壁を這い回り、振るわれた光の軌跡から逃れる。

 レンは舌打ちを漏らし、如意棒の汚れを払うように振るった。手応えはない。外した、という感覚にレンは苛立ちを募らせながら周囲を見渡す。コンクリートの地肌をむき出しにした天井と床に挟まれたこの場所は、もう使われていない廃ビルである。

 レンは標的の姿を探そうとするが、見当たらない。右手の如意棒を握り締めると、鈴の音が鳴り響いた。数珠が反応しているということは廃ビルから逃げ出したわけではないのだろう。昼間でも薄暗い廃ビルでは標的を探し出すのにも一苦労だった。レンはポケットからメモ用紙を取り出し、そこに赤く書かれている特記事項を読み上げる。

「一撃で倒せ。でなければ増える、か。……厄介だな」

 先日、この廃ビルを拠点とする不良グループが夜半、警察に突然押しかけてきた。彼ら曰く、「化け物を見た」とのことらしい。

 彼らのうち一人が金属バットを持っていたので、それで叩いたらしいが叩いた途端に二つに増えたという。さらに叩くと四つに増え、八つと、十六とその数は倍増していったらしい。

 直接的に何かをやられたわけではないが気味が悪いと近くにあった交番に行った。彼らのことは既にその交番の巡査は知っていた。

 最近、廃ビルにたむろして騒がしい連中がいるという近隣住民からの通報があったからだ。巡査はできうる限り、そういった厄介ごとに巻き込まれたくなかったので傍観を決め込んでいたのだが、向こうからやってきたのでは話が別だ。

 それに聞く限りではもしかしたら怪しいクスリでもやっているのかもしれない。巡査はさすがに放っておけず、廃ビルへと出向いた。夜の廃ビルはそうでなくとも気味が悪いというのに、不良たちに聞かされた話で巡査は既に肝が冷えていたというが、その数分後にさらに身が竦み上がる事態に陥った。巡査曰く、「六つの手足の化け物が出た」という。それを警棒で振り払うと、不良の話どおり二つに増えた。さらに振り払うと四つ、八つと増えるので、巡査は叫び出して逃げてきたという。

 これが春日から伝え聞いたことの顛末だった。レンはメモの下のほうに視線を落とす。「妖怪、かげおどし」と書かれており、もう一度、「一撃で倒せ」と書いてある。二度書くということは一撃で倒さなければまずいのだろう。レンは廊下を抜け、広間へと踏み込んだ。廊下ではほとんど如意棒の力を発揮できないと考えたのだ。広間を見渡すと、端のほうに吸殻が捨ててあった。不良たちによるものだろう。彼らはつまりここでかげおどしを見たということだ。

 レンがこうして向かったのは、しかし彼らの証言があったからではない。春日の事務所は人間専門ではなく妖怪専門なのだ。当然、依頼主も妖怪である。依頼主の妖怪をレンは見ていないが、春日が言うには、「品のいい妖怪」らしい。その妖怪にとってこの廃ビルは別荘のようなものだったそうだが、少し留守にしている間に害虫が湧いたという。その害虫というのがかげおどしだというのだ。かげおどしは誰にも使われていない古い建物に憑く妖怪だが、彼ら妖怪は同族と思われたくないらしい。害虫というくらいなのだから、相当なのだろうとレンは思ったがその理由は単純に、「知らぬ間に増えて気持ちが悪い」とのことだった。

「つまり、かげおどしってのは妖怪世界のゴキブリみたいなもんか」

 レンが広間を歩きながら如意棒を小脇に構える。一撃で倒すといってもどうすればいいのか分からない。具体的な策は教えられていないからだ。レンは如意棒を掴んでいる手に力を込めた。如意棒の表面に刻まれた文字が熱した鉄のように熱く滾る。鈴の音が徐々に弱くなっていく。

「ここにはいないのか?」

 言って、踵を返そうとしたその時、背後にかさかさと動く気配を感じた。振り返ると同時に如意棒に伸びろと思惟を飛ばす。突き出された如意棒の柄が槍の鋭さを伴って壁へと突き刺さった。壁の一部が崩落し、ぱらぱらと砂塵が舞い散る。果たして、そこには黒い影があった。レンはその影へと視線を据える。

 六つの足を持っており、体表は太く親指のような形をしている。もっとも印象的なのは背中に目玉を背負っていることだった。一つ目の下に人と同じような唇がある。どうやらこれがかげおどしらしいと認識したレンは如意棒を捻り込もうとした。その時、唇が不意に開き、声が迸った。女の絶叫のような耳を劈く金切り声だった。思わず如意棒に込めていた力が霧散しかける。

 かげおどしはそれを見逃さなかった。縫い付けられていた身体を這い出させようとする。レンはそれに気づいて如意棒を握り直そうとした瞬間、ぎょろりとした眼が二つに増えた。単細胞生物が核から分離するように、一瞬にしてかげおどしの姿が二つになる。しまった、という呻きが漏れる前に、もう一方のかげおどしが床に向けて這っていく。レンは伸ばしていた如意棒に指示を出した。

「縮め!」

 その言葉に反応し、如意棒の長さがレンの背丈と同程度まで一瞬で収縮する。如意棒の一撃を受けたとはいえ、かげおどしの身体には黄金の文字が刻まれているわけではない。浅かったか、と判断すると同時にレンは壁へと駆け出していた。

 如意棒を両手で掴み、頭上へと振り翳す。かげおどしは壁とその直下の床にいる。それを狙って、レンは真一文字に如意棒を打ち下ろした。壁から血飛沫のように砂煙が迸り、ガラガラと音を立てて壁が崩れ落ちる。今度こそ、という手応えがあった。レンは振るい落とした姿勢のまま硬直する。砂煙が晴れるのを待っていると、足元に妙な感触を覚えた。

 ぶよぶよとした柔らかい感触に足を退けると、レンは思わず「わっ!」と叫んだ。かげおどしが六本の足を掻いてそこにいたからだ。レンが飛び退くと、一匹ではなかった。かげおどしはレンが崩した壁の破片の下に二匹と、さらに足元に三匹、周囲に三匹と計八匹いた。レンは如意棒を構え直し、周囲に目を配った。何故八匹に増えたのか。

 それは仕留め損なった二匹がそれぞれ一撃ずつ、倍に増えたからに違いない。レンは先ほどのぶよぶよとした嫌な感触を足の裏に感じつつ、どうやって八匹ものかげおどしを一気に片付けるか考えを巡らせた。やはり一撃で仕留めなければならなかったのだ。一匹目を叩いた時の攻撃が浅かったがために、八匹まで増やしてしまった。レンはポケットから再びメモを取り出す。増えた時の対処法が端のほうに書いてある。二つ方法があり、上に書いてあるのが、「全個体を一箇所に集めて一撃で倒す」であり、もう一つを読もうとしてレンはため息をついた。ポケットにメモを入れ、如意棒を両手でしっかりと握る。かげおどしの八つの眼がレンを見つめる。レンは鋭い双眸を返し、如意棒を回転させて風を巻き起こした。

 床に蓄積した埃が舞い上がってレンの姿を一瞬隠す。かげおどしの眼が砂埃の一点を見つめている。その時、足音が響き渡った。かげおどしが不思議そうに見つめていると、砂埃が晴れた。そこにレンはいなかった。レンはというと、メモの二つ目に書かれた方法を実践していた。かげおどしが増えた場合、「対処しきれないと判断したなら素直に逃げろ」だった。レンは廃ビルの階段を駆け降りながら、我ながら情けないと肩を落とした。


「情けない、とは思ってる」

 レンは春日に言われる前に、その言葉を発していた。事の顛末を話すと、春日は一つため息をついてから、執務机の書類の整理を始めた。レンは応接用のソファに腰掛けながら、がっくりと気落ちした様子で俯いていた。対面のソファに座ったミャオが五指を開いて水色のネイルを塗りながら、「あたしはよくやったと思うけどなー」と割って入った。

「いや、依頼は失敗したんだ。面目上は、よくないだろ。春日」

 その言葉に春日は書類に落としていた視線を上げ、初めてレンに気づいたように、「ああ」と声を発した。

「すいません、報告から先のほうは聞いてませんでした。で、何でしたっけ?」

「……いい」

 何度も自分が情けないと再確認するのはレンとて気分が悪かった。春日は書類を執務机に置いてから、窓の外に視線を向けた。

「そろそろ、涼しくなってくる頃ですね」

「ん。ああ」

 レンが頬杖をついて応じると、ミャオが「もう四ヶ月だね。レン君が入ってくれてから」と言った。レンは話半分で聞き流しながら、「ああ」と応じ、気抜けしたような視線を窓の外にやる。

 レンが春日の事務所で働き始めてから、もう四ヶ月が過ぎた。最初の一ヶ月はまともに給与が入ったが、次の一ヶ月からそれが不安定になった。

 なんでも、「妖怪専門とはいえ、妖怪だけからの報酬ではまかなえない」というのが実態らしかった。そのようなことなどもちろん知らなかったレンは、八月の猛暑に節電する結果になった。学校で退学届けが正式に受理され、親類からの学費がストップしてから一週間後の出来事だった。

 光熱費や電気代を節約し、食費を切り詰め、なんとかその年の夏をしのいだが今度は冬が待っている。日に日に涼しくなるのを実感しながらも、冬が来れば生きていける自信がなかった。この事務所に泊まり込むのが最終手段だったが、この事務所とてほとんど維持費は払っていないらしい。だからこそ、人の気配というものを極限まで排することができるのだという。

「妖怪の皆さんは人間が作った冷房やら暖房やらは好みませんから、この事務所はほとんど常温です」と夏に聞かされた時には逆に冷や汗が出てきた。まさか冬もそうなのではあるまいな、と目で問いかけたがその部分は流される結果に終わった。

 静寂に耐えられなくなったのか、ミャオが明るい声で言った。

「で、でもレン君もすごいよね。如意棒をほとんど使いこなしているんだもん」

 その言葉に昼過ぎの失敗が思い起こされ、レンはより気持ちが沈むのを感じた。

「使いこなせていたら仕事失敗したりしねぇよ」

 レンの声でようやく気づいたのか、ミャオは口元に手をやって「ご、ゴメン」と控えめに言った。春日が振り返り、「しかし使いこなせてはいます」と言った。レンが顔を向けると、光の加減で眼鏡が照り返っており、表情を窺うことは困難だった。

「こんな短期間であれだけ使いこなせたのはレン君が初めてです。そこは評価しましょう」

「そこは、って引っかかる言い方じゃねぇか」

 春日が眼鏡のブリッジを上げる。一呼吸置いてから、ゆっくりと歩き出し何度か頷いた。

「レン君は仕事に真面目に取り組んでくれますから、正直に言いますけど、やっぱりこの仕事は成功して当たり前と思われている節があります」

「妖怪っていうのは、その辺も人間と似通っているな」

 レンはこの四ヶ月で依頼人を何人か目にしている。そうなってくると彼らの性格も分かってきていた。彼らは人間と同列に扱われることを忌避しているが、彼らの思考や性格はほとんど現在の人間と同質のものだった。

 あるいは春日が選別してそういった分かりやすい依頼人ばかりを見せているのかもしれなかったが、レンには少なくとも万人の理解を超えるような妖怪はいないのではないかと思われた。あるいは人間が思っているほど、妖怪も古典的ではないのかもしれない。

 春日はミャオの背後で立ち止まり、レンを見た。眼鏡越しの視線はどこか遠くを見ているように見えた。

「そうですね。昔ほど保守的な方々は減りました」

 それがどれくらい昔のことなのか。聞こうとしたがやめておいた。春日は、見た目は二十代後半だが、レンと話していると時々そうとは思えないような齟齬が生じることが何度かあった。まるで何百年も前の隔たりがある人間と話しているように感じることが、ままあった。

「ですが、彼らに全幅の信頼をおいていただけるのは、成功する確率が高いからです。今回のように、留守の間の掃除を頼まれた程度がこなせないのでは話にならないと思われるかもしれません」

 春日の言葉にミャオが立ち上がり、自分のことのようにむきになって抗議した。

「春日さん、そんな言い方ってないんじゃない? レン君だって真面目に――」

「いいんだ、ミャオ」

 ミャオの言葉を遮り、レンは春日を見据えた。春日もレンから視線を外さない。レンはソファから立ち上がって握った拳を片手で包んだ。

「俺が未熟なだけの話だ」

 その言葉にミャオが心配そうな顔を振り向けてくる。春日は居場所を与えてくれている。その恩義に報いる、とまで固く考えなくとも、それなりの働きをしたいのが真情だった。

「春日。かげおどしはどうやって倒すのが一番いいんだ?」

「どうやって倒すのがいいかと聞かれると、やはり最初に教えたとおり一撃で倒していただくのが一番でしょう。かげおどしは一度増えると一晩経つまで一匹に戻りません。今は待つしかないでしょうね」

「んだよ、しゃらくせぇな」

 レンは再びソファに座り込む。立ち上がっていたミャオも座り、春日は執務机へと戻って、「そういえば」と思い出したように言った。

「レン君に会わせたい人がいるんでした」

「会わせたい? それはかげおどしの一件よりも大事なのか?」

「こちらのほうが二十倍大事です」

「それはまた、大層なこって」

 レンが自嘲の笑みを浮かべていると、春日は真面目腐った顔で、「本当に大事なんです」と念を押した。執務机の引き出しから手帳を取り出し、日程を確認する。

「レン君。今日は大丈夫ですか?」

「俺は万年、暇だが」

「では、これから行きましょう」

 春日が手帳をポケットに仕舞い、出かける準備を整え始める。レンは目をぱちくりさせて、「今からか?」と訊いた。

「万年暇なんでしょう?」

「そりゃ、そうだけど……」

 半分冗談のつもりで言ったのだが、春日はすっかり本気にしているようだった。レンは頭を掻きながら、「こんな格好でいいのか?」と尋ねる。レンはモノトーンのTシャツを着ていた。春日はきちんと自分の身なりを整えながら、「構いませんよ」と言った。

「どうせ顔合わせだけですから。それにあの人は相手の身なりで人間を判断するような方じゃありません」

「随分と買ってんだな、そいつのこと。その割にお前はちゃんとしているじゃんか」

「これは僕の癖みたいなものですから。僕にとっては恩師のような方なので、ついついかしこまっちゃうんですよね」

 春日が出かける準備をして事務室の電気を消そうとする。ミャオに目配せすると、「あたしはここで留守番してる」とミャオはソファに寝転がった。

「では電気は消さずに行きましょう。レン君の荷物は……」

「ああ、これだけだ」

 レンは画材ケースを肩にかける。常に如意棒を持っておくためのカモフラージュとして春日が用意したものだ。レン自身には芸術の心得など全くない。それでも怪しまれないように筆と絵の具も入っていた。ミャオが「いってらっしゃーい」と尻尾と手を振ったのを見て、二人は事務室を後にした。事務所から出た直後、春日はレンに顔を向けて口を開いた。

「多分、如意棒はいらないと思いますけどね」

「なんだ、妖怪じゃないのか」

 春日が礼を尽くして会う相手といえば妖怪しか思い浮かばなかった。春日は少し思案するように中空に視線を向け、「まぁ、妖怪のような方ではありますが」と言ってから、慌ててレンへと振り返り、口元で指を一本立てた。

「あっ、これは内緒でお願いしますよ、レン君。妖怪と一緒にするなと怒鳴られますから」

 レンはそれに頷きながら、春日でも相手に気を遣うことがあるのかと思った。十月の清涼な風が裏通りを吹き抜け、湿った野暮ったい空気を押し退けていく。

 夏の祭りが終わったので、表通りからは金魚の提灯が随分と減っていたが、それでも金海市では一年を通して金魚の提灯が見られる。

 提灯の中にはまだ灯りはともっていない。レンは左手の時計に視線を落とす。四時を回ったところだった。黄昏に染まった空の中に大海を泳ぐクジラのような雲が浮かんでいる。春日は表通りで和菓子屋に寄った。

 そこで金魚を象った金海饅頭と、団子を飼う。レンはその間中、ずっと空を眺めていた。季節は移ろいを見せている。

 四ヶ月前にはこの時間帯でも青空が見られた。日が傾くのが徐々に早くなっている。季節も変わり、環境も変わった。だが、自分は変わったのだろうか。如意棒を手にし、妖怪の世界と関わるようになった。四ヶ月前の自分では考えられないことではあるが、これは成長なのだろうか。それとも停滞しているのか。朽ちていく日々を変えられたと四ヶ月前には思ったが、本当にそうなのか。前進しているようで、自分はただ居心地のいい場所で足踏みをしているだけじゃないのか。依頼が成功しないのは、自分の中で前進したくない気持ちがあるからではないのか。

「……成功を恐れているのか、俺は」

 贅沢な悩みと言えた。少なくとも四ヶ月前にはそのような悩みを持つような余裕さえなかった。精神的な余裕ができたのだろう。普通ならば喜ぶべきだと思うが、素直に喜びきれないのはどうしてなのだろう。

「買い物、終わりましたよ」

 その考えの中に沈んでいた自分を引き上げるような春日の声が背後に響く。レンは春日へと振り向いた。春日がレンの様子がおかしいことに気づいたのか、首を傾げる。しかし、すぐに笑って言った。

「失敗は誰にでもあります。毎回気に病んでいたら、どうしようもありませんよ」

 どうやら春日は先ほどの依頼の失敗をレンがまだ引きずっていると思ったらしい。間違いではなかったが、訂正する気にもなれずにレンは「そうだな」と首肯した。

 春日と一緒にバス停まで歩き、帰り際の中高生で混むバスへと二人は乗り込んだ。レンの通っていた高校と同じ制服の生徒を目にし、レンは覚えずじっと見つめていた。制服をまだ着ていた未来もあったのだろうか。未練というものとは縁を切ったつもりだったが、不意にやってくる自分でも説明できないような感情に戸惑っていた。

 戻りたいのか、と問いかけると否と返ってくる。現状でいいのか、と問うても、そちらにも否と返ってくる。未だどっちつかずの自分をレンは持て余していた。バスは金海市を巡った後に、郊外へと走り出していた。金海市の中心街から少し遠ざかった場所で、レンと春日は降りた。ベッドタウンが居並ぶ郊外と、中心街のちょうど中間地点にある高級住宅街だった。

 小高い丘の上に森林のような区画がある。いかにも出そうな雰囲気にあそこだろうか、と考えていると、春日は反対方面に歩き出した。レンは少し気になったが、春日の後ろに黙ってついていった。

 迷いなく歩きながら、ようやく、「あそこです」と場所を示した。レンが顔を上げて、示された方向を見やる。そこには坂道があった。白いアスファルトで舗装された坂道で、蛇のように僅かにくねっている。気が遠くなるような急勾配の坂道の上に木造の平屋が見えた。

「もう少しです。頑張りましょう」と春日が言い、歩き出す。レンは膝に疲労を覚えながらも、坂道を上って行った。十月の風のおかげでまだ上りやすいが、夏だと地獄だろうなという思いが脳裏を掠めた。上りきったそこにあったのは簡素な木造の平屋だった。来た道を振り返ると、かなりの急勾配であり、ゆっくり歩いてきたにもかかわらず息も少し乱れているのを感じた。

「車で来たらよかったんじゃねぇか?」とレンが言葉を発すると、春日は「いやぁ」と首を振った。

「そうもいかないんですよ。停めるところがありませんし」

「公共の道路だろ。少し停めるくらい」

「いえ、この坂道は私有地です」

 その言葉にレンは目を見張った。坂道は軽く百メートルはある。高級住宅街にあって私有地というのは俄かには信じられない話だった。「それに」と春日は付け加える。

「車嫌いなんです。医者とお手伝い以外の車の音は耳障りだから嫌だという方でして」

「面倒くさい奴だな。本当に妖怪じゃないのか?」

「人間ですよ」

 春日は平屋の扉を叩いた。レンは表札を見やる。「高畑」と書かれていた。二、三度叩くと中から扉が開けられた。現れたその影にレンは一瞬、ぎょっとした。若竹色の着物を身に纏った初老の男が、扉の隙間からこちらを覗きこんでいるのである。

 丸眼鏡の奥の瞳がレンを最初に見たかと思うと、すぅと細められ扉が閉められた。春日がもう一度扉を叩き、「春日トオルです。高畑さん。開けてください」と叫んだ。するともう一度扉が開き、今度はその視界に入るように春日が扉の隙間へと顔を見せた。扉がガラリと開き、初老の男は春日を見やると、しゃがれた声で言った。

「トオルか。そこのガキが最初に見えたから、いたずらか何かだと思っちまった」

 初老の男は吐き捨てるように言ってから、レンへと再び視線を向けた。着物と同じ若竹色の帽子を被っており、丸眼鏡をつけている。年の頃は五十ぐらいだろうか。神経質そうに細められた眼がちらちらとレンを気にしている。春日がその視線に気づいてレンを紹介した。

「四ヶ月前からうちで働いてもらっている帷レン君です。今日は高畑さんに挨拶と紹介をしたいと思いまして。これはお土産です」

 春日が和菓子を手渡すと、高畑は鼻を鳴らしてそれを受け取り、奥へと引き返した。春日が玄関へと入っていくので、レンも続いて入ろうとすると、高畑の声がかかった。

「ガキは入るな。商品の価値が下がるからな」

 その言葉に敷居を跨ぎかけていた足を止めた。春日は「でも、レン君もいずれ知ってもらうことですし」と擁護しようとするが、高畑は振り返らずに応じる。

「ガキなんかにうちの商品は触らせねぇよ。何だ? トオル。もしかして、俺のところにそいつをこれから寄越そうとしていたんじゃねぇだろうな?」

 高畑の言葉に春日は声を詰まらせた。どうやら図星だったらしい。レンは何が起こっているのか分からず、玄関先から内部を見渡した。広間になっており、本棚がそこらかしこにあった。中央にはガラスケースがある。古本屋なのだろうか、と思っていると、高畑が怒鳴りつけた。

「うちの商品をじろじろ見てんじゃねぇ、クソガキ! トオル、さっさとつまみ出せ」

 その声にレンは思わず言葉を返そうとした。口を開きかけると、間に立った春日が口元に指をやって首を振った。

「何でだよ、春日。せっかく来たのにこんな言い方されて、意味分からねぇだろうが。こっちにだって言い返す権利くらいはある」

「駄目なんですよ。ここでは高畑さんが第一です。高畑さんのお店なんですから、僕らが言えることは――」

「ブツブツ言ってねぇで、さっさとガキを外に出せってんだ。空気が汚れるだろうが」

 その言葉でレンは怒りの沸点に達した。春日の制止を押し切り、中へと入る。高畑がぎょっと目を剥いた。レンは春日の手を振り解き、高畑へと啖呵を切る。

「偉そうにしてんじゃねぇぞ、ジジィ! 何が、空気が汚れるだ。こんなところで一人のらりくらりとしている人間が言える言葉か? ああ?」

 レンの言葉に高畑は顔を熱した鉄のように赤くして、奥にある畳敷きのカウンターから身を乗り出した。

「んだと、ガキが!」

「ガキ、ガキって、それしか言えねぇのか、クソジジィ! 悔しかったらそこから出て俺とやりあう覚悟でも持つんだな! それとも、老い先短い身じゃ何もできねぇか?」

 高畑は足をカウンターにかけてレンへと飛び掛らんとしている。それを春日が間に立って、必死に押しとどめた。

「高畑さん、危ないですって。レン君も謝って」

「何で、俺が謝らなきゃならねぇんだ。大体、そんな価値のあるもん売ってんのかよ」

 レンはガラスケースに歩み寄り、それを窺った。瞬間、目を見開いた。そこにあったのは男と女が絡み合う様を簡素な筆致で描いた絵画だった。レンは別の意味で顔が熱くなるのを感じた。

「何売ってんだ、ジジィ!」

 掴みかかろうとするのを春日が全身で止める。春日を見やり、四ヶ月前に執務机で見た同じような絵を思い返す。あの時、春日は趣味だと言っていた。先ほど、高畑が言っていた言葉と、ここまで来ることが大変だったことから鑑みてレンはある結論を編み出した。

「春日! お前、自分の趣味のために俺を紹介しようとしやがったのか!」

 その言葉に春日が声を詰まらせ、レンから気まずそうに顔を背ける。レンは春日を一発殴りつけて、身を翻した。春日が殴られた頬を押さえている。レンは高畑に一瞥を寄越した。高畑も鋭い目つきでレンを睨みつけている。レンは吐き捨てるように叫んだ。

「絶対、もうここには来ないからな! 春日!」

 その言葉に返すように高畑も腹の底から声を張り上げる。

「絶対、そのガキをここに寄越すなよ! トオル!」

 二つの声に板ばさみにされた春日は顔を背けあう二人を交互に見やってから、ため息をついて眼鏡の位置を直した。

「……善処しましょう」


「あんな風に言わなくてもよかったじゃないですか」

 帰りの坂道で春日は前を歩くレンに涙ながらに訴えた。しかし、レンは聞く耳を持たないとでも言うように激しい口調で春日を責め立てる。

「何が、あんな風に、だ! お前、自分の趣味のために他人を利用するような真似しやがって! しかも、なんだ、あの偏屈ジジィは。信じられねぇ!」

 レンはむすっとして振り返らずに大きな足音を立てる。春日は肩を落として、「そういう人なんですよ」とハンカチで汗を拭った。

「あの人は店からほとんど外に出ないんです。だからか、ほぼ人間不信みたいになってしまっていまして。気を許したい相手には気安いんですが、初対面でしかも若い人間となると駄目みたいですね。レン君、見た目は中学生くらいに見えますから余計にでしょう」

「誰が、見た目中学生だって?」

 レンが振り返って鋭い目つきで春日を威嚇する。春日は両手を前にやって、「滅相もない」と言った。

「今のは一般的な話です。僕から見れば、レン君はかなり大人ですよ」

「だから、大人の買い物をさせようってのか?」

 レンはガラスケースに展示されていた絵画を思い返して吐き気がした。春日はハンカチで額の汗を拭いながら、「あれは春画ですよ」と返す。

「春画には芸術的価値があるんです。まぁ、値段的にも内容的にも子供が買えるものじゃないですけど。いつもなら和菓子持っていけば、珍しい春画を見せてくださるんですけどねぇ」

 ため息混じりのその言葉にレンは皮肉を返した。

「悪かったな。俺が行ったせいでパァになって」

「いや、高畑さんの反応も予想外でしたし。まさか、あれほどに拒絶反応を示されるとは思いもしませんでした。どうしましょうかね」

「どうするも何も、今まで通りお前が行けばいいだろ」

「いや、レン君を雇ったのは正直、これをやってもらいたいからなんですよ」

 その言葉にレンは目を見開いて振り返った。拳が固く握られたのを見て、春日は手を前に翳し、「怒らないでください」と言った。

「高畑さんの話し相手が欲しかったというのもあるんです。あの人は、あれで結構寂しがり屋ですから」

「あのジジィが? そうは見えねぇけど」

「僕がいつでも行ければいいんですが、大学の講義もありますし、事務所にミャオさん一人だけでは不安でしょう。かといってレン君に留守番を頼むというのもあの事務所の主としては忍びない。高畑さんを見にいける人材が欲しかったんです」

「俺は適任じゃねぇと思うんだが」

 レンの言葉に春日は後頭部を掻きながら、「そうも見えなかったですけどね」と返した。

「とりあえず今日は門前払いに近かったですが、これからも行って欲しいんです。もちろん、バイト代は出しますから」

「金出せばいいってもんじゃねぇ。何で俺がジジィのご機嫌伺いをしなきゃならないんだよ」

「レン君にしか頼めないんですよ」

 坂道を下り終え、高級住宅街が夜の闇へと沈んでいく。暮れるのはあっという間だった。春日は両手を合わせてレンの後ろについてくる。

 レンはしばらく何も言わなかった。春日の言っていることは明らかに厄介ごとだ。普段の仕事もできないレンに頼むようなことではない。しかし、レンは普段の仕事ができないからこそ、頼まれているのかもしれないと思い始めた。妖怪のトラブルをどうにかできないのならば、レンに事務所にいる資格はない。

 即刻クビにしてもいいくらいだ。そうせずに高畑の様子見という新たな仕事を与えることで、レンに居場所を与えようとしているとも取れた。もちろん、それはレンの考え過ぎで、春日はただ単に自分の趣味を満足させるための小間使いが欲しいだけなのかもしれない。

 どちらにせよ、低級の妖怪一匹倒せないレンにしてみれば、仕事を選ぶ権利などないのだ。それを表に出されない分、状況はまだいいと言える。仕事ができないことを盾にされれば、何もできない。バス停まで歩いたところで、ようやくレンは口を開いた。

「……分かったよ。ただ、お前が望むような働きはできないと思うけどな」

 高畑と自分とは合わないとレンは考えていた。これほどまでに初対面で拒絶し合う人間とは今までの人生では会ったことがなかった。

 レンの言葉を聞いて春日はホッとしたようだった。「お願いしますね」と春日が両手を合わせる。

「レン君ならきっと高畑さんとも仲良くなれますよ」

「買い被るな。それに仲良くして得するのは結局、お前だろうが」

 その言葉に春日は後頭部を掻きながら苦笑を漏らした。最終的な利益は結局、春日に行くのだ。気に入らないが、従うしかなかった。お役御免にされるよりかはマシだろう。

 バスが来たので二人は乗り込んだ。帰りのバスの中は人が少なかった。薄闇が住宅街を包み込み、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。バスが揺れ、明かりが点き始めた住宅街を走り去った。


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