第10話「陰りある世界」怨霊調伏篇

 自分の名を呼ばれた気がして、伏せていた顔を上げた。

 雅楽の音と低い呻り声とが地鳴りのように寄せては返す。舞台の下にいる群衆たちが地獄の亡者のように手を伸ばし、恩恵にあずかろうとしている。

 舞台の上からそれを眺めていた桐坂(きりさか)ミヤビは人知れず顔をしかめた。それでも表情を浮かべるのは一瞬だ。

 次の瞬間には、舞を踊る自身の動きの中に表情を埋没させる。黄金の扇を開き、ミヤビは風をなぞるように揺らめかせた。頭には冠を被っており、もう片手には鈴がある。服装は赤と白の巫女服で、袖が垂れ下がっていた。ミヤビは雅楽の音に合わせて鈴を打ち鳴らす。

 舞台の上でステップを踏み、音響の波に逆らわない穏やかな動きを演出する。ミヤビは長い黒髪をなびかせ、くるりと舞い踊った。

 神秘を感じさせるその立ち振る舞いに、群集が感嘆の声を漏らす。ミヤビは切れ長の目を伏せ、どこか切なげに唇を開いた。その唇から紡ぎ出される祝詞が、二百人は入るホールの中に反響する。雅楽の演奏が最高潮に達し、ミヤビは踊りに緩急をつけた。舞に合わせて高まっていく群衆の熱とは裏腹に、ミヤビの胸中は冷め切っていた。

 ――どうして、こうも必死になれる?

 分かりきっていることだった。彼らは自分たちが救われると思い込んでいるからだ。ここにいるのは救いを求める人間ばかりだ。宗教法人、桐宗(きりしゅう)。

 今や日本を代表する宗教法人の中の一つである。

 その中の、一部の入信者だけがこの空間に入ることができる。

 ミヤビは彼らに指針を示す、いわば象徴としての役割があった。

 仕込んでおいた金粉が舞い散り、まるでミヤビから後光が発せられているような演出となる。

 それを見た信者たちは押し合いへし合いの状態になり、我先にと手を伸ばす。純潔な巫女から発せられる光を身体に浴びた人間は来世での幸福を約束されると言う教えがあるからだ。彼らは既に現世での利権を貪り、今の世の中に不満などない。

 だからこそ、生まれ変わりなどという不確かなものを信じられる。中には財産を搾り出し、ここまで来ている貧困層もいるが、ミヤビにはそれこそ理解できなかった。そんな金があるのならば、一日の幸せに当てればいい。どうして、形も不確かなものにすがろうとするのか。

 胸の中に言葉はあれど、ミヤビはそれを発することはない。自分は人形なのだ。決められた時に、決められた働きだけをする人形が自分であるとミヤビは規定している。人形は言葉があっても喋りはしないし、喋れば気味悪がられるものだ。

 この宗教団体の中でミヤビの立場はそういうものだった。雅楽の音が高くなっていき、やがて呼吸のように小さくなっていく。ミヤビはそれに合わせて、舞を終わらせた。群集は既に金粉のほうに夢中になっており、ミヤビの舞を見ているのはごく僅かだった。

 ミヤビは舞台袖に目をやる。黒いスーツに身を包んだ若い男のマネージャーがミヤビを手招いている。ミヤビは頷き、無表情にその場から立ち去った。

「巫女様」と声がかかる。すがるような声だった。振り返ると、赤子を抱えた母親が涙を浮かべている。ミヤビは表情を浮かべずに、目だけで笑った。

 母親が感極まったかのように口元を手で押さえる。


 ミヤビは誰も自分の名を呼んでくれないことを改めて知った。必要とされているのは「桐坂ミヤビ」ではなく、「桐宗の巫女」なのだ。その現実にミヤビは人知れず舌打ちを漏らした。

 舞台袖で待っていたマネージャーが、ミヤビに付き従いながら手帳を開き、早口に言った。

「この後、桐宗の集会がある。君にはそれに参加してもらう。幹部連も来るそうだから、それなりの格好に着替えないといけない」

「時間は?」

 冷淡な口調で問いかけると、マネージャーは事務的に返した。

「そんなにない。最悪、巫女の服でもいいから。でも、扇や鈴はいらないな。それと冠も」

 ミヤビの手から扇と鈴を取り上げ、冠を外した。ミヤビは髪をかき上げ、楽屋へと向かう道で衣装係の人間が待っているのを見た。「着物を用意しております」という声を聞きながら、楽屋へと入る。ミヤビが巫女服を脱ぎ始めるが、マネージャーは退席しようとしない。いつものことだった。衣装係が着物の着付けに入る。マネージャーは集会の後の予定を口にした。

「集会が終わったらテレビの収録があるから。この間出た除霊番組、すごい反響がよかったんだってさ。それでもう一回撮りたいっていう話があるんだ。内容は――」

「それは集会の後にしてくれる?」

 遮って放った言葉に、マネージャーは「そうだな」と手帳から一度も視線を外さずに頷いた。

「じゃあ、集会の後にしよう。桐宗の集会はホテルであるから。車で行けば二十分ほどで着ける」

 ミヤビは腹に帯を巻きつけられながら頷いた。着付けされながら、自身の姿を見やる。着物は苦手だった。締め付けられている感じがして落ち着かない。鎖か何かのように感じられた。

「裏から車で出よう。信者の人たちが待っているかもしれないけれど、できる限り無視して」

 マネージャーの言葉に従い、ミヤビは裏口から出た。車を取り囲むように信者の人々がミヤビへと手を伸ばし口々に何かを叫ぶ。どれも巫女を褒め称えるものだが、その言葉の対象は桐宗の巫女であって、桐坂ミヤビという一個人ではない。マネージャーや警備員が人垣を掻き分ける。ミヤビは顔を伏せながら、車へと入っていった。マネージャーが後から入り、ネクタイを緩めながら息をつく。

「全く、信者って奴は限度を知らない。出してくれ」

 運転手がその言葉に従い、信者たちを押し退けるように車が発進する。緩やかな振動を感じながら、ミヤビは「マネージャー」と声をかけた。マネージャーは時計と手帳とを見比べながら、「何?」とミヤビの顔を見もせずに返す。

「集会にはお父様も来るの?」

「来るだろうね。あの人が来ないと誰も集まろうとしないから。幹部連もいるだろうから、失礼のないように、って君に言っても仕方がないか。あの人の娘だからね。その辺は僕よりも分かっているだろう」

 マネージャーの何気なく放った言葉がミヤビには重たく響き渡った。ミヤビは窓の外へと視線を向ける。雨が降っていた。窓に伝い落ちる雨粒が街灯とネオンを滲ませる。傘をさした人々が忙しく行き交っている。その流れの中に自分を幻視することはできない。ミヤビは人並みというものを感じたことがない。十五になるのと同時に七年間も巫女をやらされていれば、世間の常識が分からなくなってくる。今、世界はどう動いているのか。ミヤビにはまるで分からない。ともすれば世界から自分は取りこぼされているのではないか。世界は自分を置いてどこかへ向かっているのではないかと思えてくる。宗教法人という閉じた世界の中にいては、外の世界の息遣いを感じることもできなかった。

「分からないわよ。私には、何一つ……」

「そんなことはないだろう。僕には知らない世界が分かっているはずだ」

 果たしてそうなのだろうか。ミヤビは自問する。マネージャーはミヤビの予定を管理しているだけだ。ミヤビが何を見て、何を感じたかまでは知る由もない。しかし、それでもミヤビよりは世界が分かっているような気がする。ミヤビには世間一般というものが全く分からない。そもそも、普通の人間が知らないでいい世界を知ることが、幸福なのだろうか。ミヤビは窓に手をついた。息を吐き、窓に何かを描こうとするも自分から生まれ出るものはなく、差し出しかけた指を彷徨わせた。



 集会は高級ホテルのホールを貸しきって行われる豪勢なものだった。ミヤビが場内に入ると、「おお」と感嘆の声を漏らす人々があった。マネージャーは集会には入れない。ミヤビは一人だった。それらの人々には目もくれず、ミヤビは視線を周囲に向ける。するとある人物に目が留まった。白髪を撫で付けた威厳を漂わせる男性だった。肩幅が広く、見た者を圧迫するような鋭い眼光を持っている。ミヤビはその人物の目が自分に向けられた瞬間、身を固くした。男は片手にシャンパンのグラスを握りながら、ミヤビへと歩み寄る。ミヤビは顔を伏せて言った。

「お父様。お久しぶりです」

 親子の関係にしてはおかしな台詞だったが、ミヤビは本当に父親を見るのが久しかった。

 もう一週間も見ていない。ミヤビの父――桐坂ゴンゾウは政界にも顔が利き、そのせいかほとんどミヤビと言葉も交わさずミヤビ自身家に帰ることも稀なために会うことは少ない。ミヤビは緊張で身体が震えだすのを感じた。何か言わねば、と思うが顔を上げることさえできない。桐坂ゴンゾウは「ミヤビか」と言葉を発した。肩が僅かに震える。

「桐宗を支えてくださっている方々も今日は在席している。失礼のないようにな」

 その言葉だけで桐坂ゴンゾウはミヤビから離れていった。その背中を見やると、既に恰幅のいい政治家たちと談笑をしている。ミヤビと会ったことなど、記憶から抜け落ちているかのように。顔を翳らせる前に、ミヤビへと歩み寄ってくる人々がいた。

 財界の人間だ。ミヤビが桐坂ゴンゾウの娘だと知っているので、甘えたような声で話しかけてくる。ミヤビは仮面の笑みを顔に張り付かせた。

 彼らと話す時にはいつも使うものだ。もう慣れていた。喉から出るのは偽りの美辞麗句ばかりだった。考えてもない言葉ばかりが口から出て、ミヤビは自分の内部が黒々としてそのうち得体の知れない何かになってしまうのではないかとひそかに恐れを抱いた。きっとその姿は醜悪な獣に違いないとミヤビは思った。



 集会を終えると、駐車場でマネージャーが爪を研ぎながら待っていた。「今回は随分と早かったね」などと言う。ミヤビは「疲れるから嫌いなの」と吐き捨てた。車に乗り込み、ミヤビは欠伸をかみ殺す。マネージャーが隣に乗って、「疲れてるのか?」と声をかけた。

「いつも通りよ。それより、テレビの収録があるとか聞いたけれど?」

「ああ、深夜だしまだ時間はあるから。早めにテレビ局まで行ってちょっと休むかい?」

「そうさせてもらうわ。内容も聞かなきゃならないし」

「そうだな。出してくれ」

 車がライトを点けて、駐車場からゆっくりと出て行く。ミヤビは息をついて目頭を揉んだ。寝不足が祟ったのか、それとも父親を前にした緊張のせいか頭がふらついて思考が落ち着かない。

「お父さんはどうだった?」

 マネージャーの言葉にミヤビはうんざりしたように返した。

「いつも通りね。あの人は私なんかに興味はないのよ。多分、私がどんな仕事をしようが巫女の役目さえこなせばどうだっていいと思ってる」

「違いないだろうね」

 マネージャーは笑った。まだ雨は降り続いているらしく、鞄を傘代わりにして家路を急ぐサラリーマンが見えた。

「親子、ってのはいつだって平行線だ。僕の家もそうだった」

 マネージャーの言葉にミヤビは眉をひそめて返した。

「私とマネージャーの家は違うでしょ。本当の親子じゃないって知っているくせに、そういうのはやめてくれる?」

 マネージャーは悪びれもせず、「ゴメンゴメン」と言っただけだった。マネージャーは空気を変えようと仕事の話をし始める。ミヤビは顔を背けて窓の外を見やる。

 ミヤビと桐坂ゴンゾウに血縁関係はない。

 ミヤビは元々孤児だった。

 本当の両親のことは覚えていない。

 桐坂ゴンゾウがミヤビの何を気に入ったのか分からないが、恐らく偶像が欲しかったのだろうとミヤビは考えている。

 十五になるまでの世話はほとんどお手伝いに任せ、巫女の仕事をするようになってから顔を合わせるようになったもののまともに会話をしたことがない。

 きっと、桐宗の存続のためならばミヤビでなくともよかったのだろう。桐坂ゴンゾウはたまたまミヤビという反抗しない当たりを引いた、程度に思っているのかしれない。

 どちらにせよ、本人の意思確認もなく始められた巫女の仕事にミヤビはうんざりするよりも先に、どこまで続けられるかという不安があった。巫女なんて名乗っていられるのはいつまでだ。十年先にも名乗っていられるか。ミヤビの思考はそういう点で言えば現実主義だった。

 父親に褒められたいわけでもなく、自分の仕事の立場を優先している。普通ならば父親の愛情に飢えているものなのだろうが、ミヤビには愛情という尺度がまず理解できなかった。その代わりに仕事に生きがいを求めているのかもしれない、と思う。

 愛情なんて感じない、乾いた心を潤すためだけに仕事をしている。あるいは愛情を感じる部分が麻痺しているかもしれない。周囲のお手伝いは金の力で繋ぎ止められていることぐらいは物心つく頃には分かっていたし、今だってミヤビの周囲の世界は金で回っている。

 隣にいるマネージャーも金がなくなればミヤビなど見限るだろう。桐坂ゴンゾウに限って、それはないと思うが、可能性が全くないわけではない。金の切れ目が縁の切れ目だということをミヤビは痛いほどに感じていた。

 窓の外の彼らはどうなのだろうと思いを馳せる。雨の下で歩く彼らも同じような価値観で生きているのだろうか。それともこのような価値観はミヤビだけなのだろうか。

 幸福は人によって異なるとはいえ、ミヤビは自身の価値観が誰かの幸福に繋がるとはどうしても思えなかった。建物の下で花束を持った男性が女性へと駆け寄っていく。彼らにミヤビの価値観は当てはまらないだろう。ならば彼らを繋ぎ止めているのは何なのか。

 愛、なんていう薄っぺらいものが信じられるほど純に育ってきたわけではないミヤビは、彼らの間に流れているものをはかりかねた。

「――金海市に行ってもらいたい」

 そのせいか先ほどから話しているマネージャーの言葉が入っておらず、急に聞こえてきた声にミヤビは顔を振り向けた。

「何て?」

「聞いていなかったのか? ……まぁ、いい。次の番組の企画で金海市の幽霊屋敷に行ってもらいたいんだ。名のある資産家の邸宅らしいんだが、どうやら出るらしい。見えて、除霊もできると心強いっていう先方のオーダーなんだけど、できるかい?」

「私ができないとでも思ってるの?」

 強く返すとマネージャーは笑って、「そう言うと思ったよ」と言った。

「君はやり手だからね。うまくやってくれると思っている。打ち合わせは後で僕を交えてするから、その時に詳しい話を聞こう。とりあえず、来週、その撮影があるからそのつもりで」

「ああ、うん。分かった」

 ミヤビは再び窓の外に視線を向けた。降りしきる雨粒が窓を叩き、冷たい外気と適温になっている車内との温度差で窓が曇る。ミヤビはため息をついた。窓の一部が、曇って何も見えなくなった。

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