第27話 恋する勇者の進軍

 猿は、黒衣の監察官を葬った時に活躍したモグラの怪物を活用した斥候に加えて、コウモリの怪物に遠征軍の追跡を行わせていた。無論、危険も苦労も多い仕事になる為、大量の食糧と金を報酬に釣ったのだ。猿は勇者とて男である、という点を重視し、勇者が惚れている妖精女を商人の娘ヴィクトリアとして遠征軍に付随する陸送隊に送り込んだのである。情夫であるリモスには妖精仲間を訪ねていく、とだけ告げさせて。怠惰かつカモを食い物にする生き方を選んできた妖精女がなぜこの危険な任務を引き受けたかはわからない。グロッソ洞窟を守る困難な任務、という事で抜擢されたことを名誉に感じたのかもしれないし、自分に好意を持っている事疑いのない勇者黒髪の行く末に関心があったのかもしれない。


「ああ、やっと見つけた。君がこの遠征軍に参加していると、予感していました。お父上はどちらですか、ご挨拶したい」


 遠征軍が河向こうの王国にたどり着いた頃、妖精女は自然に勇者黒髪の前に姿を現した。この遠征軍に付いているという事で、彼の士気を高め、士気高く遠征を継続させ、困難に出会ってもお男の意地を発揮させる事が目的だ。事業を為す男達の間では、野望に向かって突き進んでいるときは女に見向きもしない精神を持つ剛の者もいるのだが、初心でロマンチックな黒髪は違った。恋する人に出会えた幸運を喜び、より一層仕事に精励したのである。そんな勇者最初の関門が、河向こうの王国の庶王女との婚礼であったことは、恋する勇者には皮肉であったかもしれない。が、この件はとんがり政権打倒を決めた時期に決まっていた事で、履行すれば済むというだけの件でもあった。


「そう!結婚するのさ、勝つ為の布石として。僕は信義や名誉といった、愛に比べればまるで頼りない伝によって、妻を娶る。軽蔑しますか、ヴィクトリア」


 王の庶子とは言え王女の位にあった女が、勇者とは言え身分高くない都市出身者と婚姻関係を持つのだから、彼女にとっては格下身分の相手との縁談であったようで、勇者黒髪に対しては実に冷淡な態度を取っていたらしい。それでも、黒髪が改めて率いてきた軍容がなかなかに立派である事に、この黒髪の花婿を王女は多少見直したのだという。このように、人類と怪物の葛藤にはまるで興味を持たない女であった。勇者と王家の結びつきを強化するための政略結婚を飲み下す気にもなったのは、庶子にしては格段に豪勢な結婚式の挙行が許されたからかもしれない。


「体と意識はあの場所にあっても、真心だけは、貴女の近くに置いたのです……確かにあの花嫁もなかなか賢く美しい娘ですが、貴女程ではあるまい」


 一方、当の花婿はこの王国との婚姻関係を必要としていた。勇者とはいえ、世俗の権力と密接な関係を持った以上、自由な結婚はその称号に何の利益ももたらさないのである。この王国の都で物資と志願兵の補給を受け、遠征軍は早々に出発した。国境まで、勇者は妻となった庶王女を付き添い、新婚旅行を行う。怪物が出没するこの時代、女性が一人で都市や城の外を旅するのは危険極まりない事であったし、庶出である王女は旅行の機会にも恵まれていなかったから、庶王女は大いに喜んだこともあって、この短い旅は二人の関係を極めて良好なものとしてくれた。それはすなわち、王家と勇者との結びつきが強固になった事を示す。勇者黒髪とて、いくら若くとも、この時期に恋する商人の娘に会うことを企むほど無謀ではなかった。恋愛と結婚が別物の時代でも、人々から敬意を受け続けるには節度は守られて然るべきであったからだ。兵たちは司令官である勇者黒髪を常に見ている。軍を率いている以上、彼らに軽蔑されてはならなかった。


「同じ軍隊の端と端にいるのに、ろくに会うこともできない。まあしょうがないとしても、貴女は何をしておいでですか。棚卸と帳簿の作成?素晴らしい、貴女は良き奥方になれるでしょう」


 その意味でも勇者黒髪は大軍を率いる司令官としては合格であったようだ。兵士以外の陸送隊は商売道具とともに補給物資を常に運んでいるし、王国の縁に連なった事で他国に対して信頼を得る事ができた。人間同士の争いだって皆無でないこの時代、勇者が大軍を率いて王国の証明を備えている、という状況は何にもまして説得力を持ったのだ。そして、道中が無事であることは、兵士にとって何にも勝る安心であった。


「王国自慢の色彩豊かな田園風景ともこれでお別れです。これよりは、荒涼たる山岳地帯と気性の荒い田舎の連中が、したたかに我々と相対するはず。しかし、妨害には負けないでしょう、ヴィクトリア、僕と貴女を妨害することがどんな怪物にもできないように」


 河向こうの王国と、遠い山を越えた先の帝国の国境で、遠征軍は庶王女一行と別れ、山岳地帯に入っていく。この先もまだ人間が優勢の世界だが、帝国という位だから諸民族が緩やかに結合している国だ。それだけに先進的な国とは言えず、跳梁跋扈する怪物も多様、人心も殺気立っており、道中の安全も危険になる。河向こうの王国の外交力で帝室を説得し、無事に通過する事が第一の目標となる。


「貴女も見た通り、帝国の人心は荒廃している。しかし、彼らの心に勇気の灯火をもたらすことは、私の義務なのです。私がそれをせずして、誰が人々の安寧を保証するのか」


 国境付近の町に入るとそこに権力争いに敗れ逃げ回っている帝室の一員がおり、この人物は勇者の進軍を見て、これは自分を捕らえるものかと疑って町を封鎖してしまった。この遠征最初のトラブル発生である。ここは帝国の現政権と反目している町であり、王国の外交も効果が無いが、避けて通れない道すがらにある。と言って、無理やり城門を突破する事など「勇者」が率いる以上、あってはならないことだ。ここで黒髪は勇者らしからぬ手段だが、リモスから得た金を用いた買収作戦を試みた。これが上首尾に行く。が、この取引が噂になると、配下の兵たちは幾分か黒髪を疑惑の目で見たという。それでも勇者曰く、


「時に勇者が人の心を金で買ったとて、なんの不都合もない」


と相手にしなかった。安全を金で買ったという事実は、幸いにも勇者への反発より、この町への軽蔑となって現れた。兵の町民に対する態度もギスギスしたものにならざるを得なかった。なんとか無事に補給を終えて出発するとその道中、帝国政府から厳重な抗議が来た。すなわち、帝国の潜在的な敵に対して金を融通するとは何事か、というわけだ。それだけでなく、国境付近の町で払ったのと同じだけの賄賂を要求してきたのだ。


「賄賂、まいない、机の下、何と言い繕おうと、エゴむき出しの犯罪であることには違いない。多数の人々にとって、金は勤労によって積み立てねばなりません」


 いざという時の補給路を一つでも多く残しておきたい勇者は穏健に、自分たちの遠征は魔王の都を目指す大義を第一に持っているのだ、と伝えても、帝室の意を伝える官僚は一歩も譲歩しなかった。この使者を追い返す事もできるが、その結果、次の国境までの長い道のり、敵が増えてしまうだろう。それも「勇者」には最も不都合な人間の敵だ。どうしようか黒髪が悩んでいると、国境付近の町から帝室に反目している例の人物が勇者を訪ねてきた。曰く、自分が帝国の主人になれば、勇者の遠征を全力で支援する事ができるから、自身の復権に力を貸してほしい、という。これは幸運だった。なぜなら、勇者黒髪は発想の転換ができる人間であったため、この不埒な人物を捕らえて帝国に引き渡す事で、帝国の現政権の好意を獲得する方を選んだのである。果たして、この作戦は首尾よく成功し、帝国政府は打って変わって勇者を支持する旨を伝えてきた。


「使える者はある程度は信頼するしかない、私一人の力では、魔王の都を滅ぼすことはできないのだから。しかし、ヤツをなんて不愉快な人間だ、とは思わないようにしましょう

。貴女がクソッタレと吐き捨てた彼のことですよ……その美しい唇が過激な言葉を放つのは見ものでした」


 以後も、勇者の令名に良い顔をしない地元の支配者によってわざと怪物の巣くう道を案内されたり、遠征軍に志願した領民の身代金を要求されたり、不祥事が頻発する人間世界のあらましだが、それでも勇者黒髪はその世界には守護する価値がある、と確信していたようだ。この一点においても、黒髪は誠に勇者として相応しい人格の持ち主であった。そして、道中に巣くう怪物の討伐依頼は快く受けつつも、世俗の権力闘争に触れる恐れのある案件は全て却下して進軍したため、一部の集落や城塞から歓迎されない事もあったが、世論の大勢は、魔王と戦う勇者の絶対支持で固まったのだ。勇者の進軍による情勢の変化によって最も打撃を受けたのは既存の特権階級だが、彼らの意地も、領民の突き上げの前には無力で、結局は勇者の前に軍門を開く事になるのだ。


「帝国の貴族たちを蔑ろにしすぎだと、貴女はおっしゃる。蔑ろにはしていません。ちゃんと相手にもしています。ただ、彼らの手足口は裏切るためについているようなもの。その評価を領民たちの手に委ねるのも、よいではありませんか」


 出発から二か月が過ぎる。遠い山を越えた先の帝国の領域を抜けると、都市や町も少ない蛮族が支配する平原を進む事になる。真の不祥事はここで発生した。勇者は事前に蛮族の長と話をつけて、その上で進路を通過していたのだが、別の蛮族が通行を妨害してきたのである。そればかりか、騎馬による不即不離の接触を試みられ、物資や人が奪われてしまう。進軍不能となった。


「ヴィクトリア、ついに戦端が開かれる。蛮族相手には、戦って勝利することが、最良の交渉です。それは我々にとっての会議や委員会のようなものなのです」


 ここに至って、勇者は初めて武力行使によって道を切り開くと決意する。初戦の相手は人間になってしまったのだ。平原に展開した遠征軍は、常に近くで動向を監視している蛮族の集団に向かっていった。志願兵の集団が正面から敵を攻め、左右に展開した傭兵隊が敵を挟み撃ちにする作戦であった。戦術としてはともかく、勇者は会戦を指揮した経験がなく、またこの遠征軍も烏合の衆であったから、大混戦となってしまう。幸いにも蛮族は逃げ散り勇者黒髪が勝者となったが、志願兵の集団に無視できない数の死者が出てしまう。兵らは憤り、復讐を勇者に求めてきた。蛮族に落とし前をつけさせるか、損害を飲み込んで進軍を続けるか、勇者は選択には迷わなかったが、果断な決定が良い結果に結びつかない事もある。主に道中参加した志願兵の多くが、遠征隊の未来に失望して、帰郷を開始してしまった。勇者はこれにはガッカリしたが、落ち込んだ姿を見せるわけにはいかない。この平原を抜ければ、豊かな交易都市が待っているのだ。幸い、蛮族は二度と近づいては来なかった。


「失望はしています。しかし、私が歩みを止めたらどうなるか、貴女ならわかるでしょう。勇気を失っていない兵らは私の背を見て、一歩を踏み出すのです」


 平原を超えた先にある交易都市が見えてきた。この中継都市には近辺の富が集約しており、物資の補給も容易に行える事が予想されていた。だが、もはやエローエ市周辺とは異なる文明であるとも言え、この遠征軍の目標を聞いても、都市は先にある危険を忠告し遠征軍の通過に明確な反対の意を伝えてきた。その真の理由として、この交易都市は最前線の王国との軍需物資等の取引でぼろ儲けしている為、遠征軍の戦果の結果、魔王が倒されでもすれば、既得権益を失う事になるので反対なのだ。そして引き返すのならば補給は認める、と勇者に通告してきた。これまで通過してきた諸国の使者による説得も、無駄に終わる。経済力に勝るこの都市に、あえて逆らおうとする者もいないのだった。暑さが耐え難い時期が近付いており、このまま城壁外に兵を置いておくわけにもいかなかった。兵たちはこの不埒な都市を突破する事を声高く叫ぶようになる。交易都市に対しては、リモスの金による買収も効果が無く、一部の兵の暴発が発端となって開戦となった。黒髪も、もはやこれまでと、陣頭に立って指揮を執る。


「貴女は対話を継続すべし、と助言してくれた。真心のものからだと感謝します。ですが、対魔王の同志達が、受けた侮辱を雪ぎたがっている。彼らの情熱に、今は身を委ねます。かつて、貴女が私に教えてくれたように」


 この交易都市が強気であった理由の一つに、城壁に大砲を備えていた事がある。この強力な兵器は、直撃した場合屈強な怪物すらが粉々になる代物であった。こんな手合いに正面から立ち向かうほど、勇者は無謀ではなかった。彼にとって生涯初めての攻城戦であったが、幸運にも助けられ、素晴らしい戦果を上げる事になるのだ。勇者は主力の傭兵部隊を二つに分け、第一部隊に大砲の設置されていない城門を攻めた。防衛側がそちらに気を取られているうちに、第二部隊が正面突破を試みるフリを演じて見せたのだ。当然、大砲によって追い散らされてしまうが、第二部隊の撤退とともに、第一部隊も撤退をさせ全面退却をした、と見せかけた。これに乗じて、防衛側が追撃に掛かってきた時、第一部隊を先頭に一気に城門を攻撃させた。兵器に頼んで戦いに慣れていなかった交易都市の防衛陣は、軽率な行為のツケを支払う羽目になった。僅かな戦闘によって城門は突破されてしまい、市内に兵の侵入を許してしまった。


 こうして交易都市は勇者の遠征軍の前に陥落したのだが、勇者が略奪暴行の禁止を命じたにも関わらず、数々の侮辱に対する復讐に燃える兵たちの怒りを制止する事ができず、略奪暴行殺人の嵐が吹き荒れる結果となり、数多の血が流された。そして最も皮肉なことに、なんと魔王の都モストリアから怪物の使者がやって来て曰く、勇者による交易都市の攻略を祝福してきたのだ。


「親愛なる勇者黒髪殿へ怪物世界の王より。此度、人間の中で高貴富強を誇る貴兄の武勇の前に炎上陥落した交易都市は我輩にとっても目障りな存在であったが、それに対する貴兄の勇戦がもたらした我が国への友情と利益に厚く敬意を表する。」


 これはこの遠征軍へ致命的な一撃となった。魔王討伐のはずが、人間と戦い、都市を落とし、討伐対象の魔王から祝辞が与えられるとは。さらにエローエ市からついてきた有力者たちが、本国より遠く離れてはいてもこの豊かな都市の領有を勇者に強く迫ったのである。この期に及んで否、とは命じ難かっただろうが、断固拒否するべきであった。が、黒髪は曖昧な返答を返してしまう。その結果、エローエ市民は得物の美味しい肉を奪い合うように、都市支配の利権を貪る算段に夢中となった。他国からの志願兵たちはこの有様を止められぬ勇者にがっかりして、遠征軍から抜け出てしまった。そればかりか、離脱組で魔王討伐隊を結成し、最前線の王国にいるという「英雄」を頼って先に出発してしまったのである。破壊と暴行の跡が残る都市をそのままにしておくことは許されない勇者は、足止めを余儀なくされているというのに、離脱組はさっさと、進軍をしていった。


 この失敗が堪えたのか、勇者は宿に籠って自室から出てこなくなってしまった。商人の娘ヴィクトリアもとい妖精女は自身の出番が来たことを悟った。彼女は、膳の用意をかって出て、勇者に面会した。現実に打ちのめされた男を癒し慰めるのは、彼女にとっては赤子をあやすようなものであった。なんとも容易く勇者黒髪が陥落したように見えても、彼は未だ若く、軍隊を率いるのも初めてなのだから、その重圧たるや凄まじいものがあっただろう。女の豊かな胸にすがり付きながら、時に撤退の単語を口にする勇者を、妖精女は叱咤した。エローエ市民の軍がグロッソ洞窟へ向かわせぬためにも。


「交易都市の攻撃は紛れもない失態であったとして、彼らにも非があったことを知らぬ者はいません。遠征は行程の半ば以上を超えて、敗北したわけでもないのに勇者の軍団が撤退をすれば、人間世界に与える打撃は計り知れないものになるでしょう。それに、貴方の本国における地位も瓦解すること必定です。貴方が勇者の地位を保持し続けるには、前進するしかないのです。」


 彼女が告げた事は黒髪とて承知している。その上で、なにもかも投げ出したいと思っていたのだが、この会見は黒髪に勇者の心を思い出させる役には立った。男は醜態を詫びた上で、遠征の再開を約束し、さらに日々の相談を女に乞うた。妖精女はそれを受け入れた。


 魔王の祝福、分離部隊の進軍等から士気の低下著しい遠征軍だが、勇者黒髪は進軍の必要を告げ、残存した遠征軍の集合命令を出した。だが半分にも満たない兵しか命令に服さない結果となる。エローエの富裕市民たちは都市の維持管理の必要を訴え、兵たちは魔王を敵とするのか人間を敵とするのかの明確化の必要を求めていたのだ。ここに至って、勇者黒髪は交易都市の事後処理についてはエローエ富裕市民たちに一任し、その上で魔王討伐の必要性を強調した。そしてこのような不幸な事故を二度と繰り返さない事を約束した。


「この都市の先にある河と谷を超えれば最前線の王国の領地となる。人間を惑わし遮るものは無いのだ。」


 遠い異国で奮闘する勇者に同情したこともあるのだろう、とりあえず兵士たちは納得する事にしたのだ。志願兵はほぼ離脱、残るはエローエの傭兵及び川向こうの王国の兵のみの編成となった。


「それでも諸君ら、最精鋭は残った。」


と強気な勇者だが、問題も多い。魔王の領域に近いこの先を進むのに、商人の陸送隊が難色を示したため、既存の兵で輸送隊を編成して物資を運搬する必要が生じた。この事態にエローエの傭兵たちが不満で、交易都市の人間を雇用して輸送隊を編成する事を従軍の条件としてきた。勇者黒髪も従わざるを得ず、身銭を切って、この遠征軍に恨みの感情を持つ人々によって輸送隊を結成するしかなかった。

 個人的な友情と同情で勇者を見捨てない兵たちですら、


「そこまでしてこの遠征は達成されねばならないのか。」


と不安を口にしだしていた。勇者黒髪としては、早いうちに怪物との戦いを勝利で彩り、兵たちの士気を高めてやる必要があった。だが、その幸運がやってこない。無事に渡河を終えて、谷というより半洞窟といった方が良い危険な岩山地帯を越え、ようやく最前線の王国に到達した。遠征軍に参加する兵士たちも麓より見える王国の無常観漂う陰影を目に、一様に胸を熱くした。この国をかかる惨状にまで追い込んでいるのは、他ならぬ魔王なのであるから。


 魔王の直轄領と接する最前線の王国は戦乱、というより防衛戦争に明け暮れて、勇者の目からでも実に悲惨な状態にあった。常に怪物の略奪襲撃に晒されており、道路はボロボロ、城壁も既に用を成しておらず、いざ事あるときは国の中央にある城や点在する砦に逃げ込むしかない。産業も悲惨、城の東側には僅かな商店も並ぶが、怪物による略奪の危険から他国の交易商人が足を向けるのも嫌がる国だから、出来得る限り自給自足しなければならない。それでも一通りの物資生産は堅固なギルドを保障する事で維持できているが、有能な人材や若者の流出は止まらず、主産業は農業、それも農民は軍人やギルドに隷属する極めて弱体な存在で、大規模農園でこき使われ、容赦のない身分制度が敷かれていた。この地域も、元々は独立都市であったというが、魔王の出現と共に命と最低限の生活を守る為、奇妙な王国に姿を変えざるを得なかったのだ。人口は五千人を割る程度、人々は日の出とともに大農場へ出て、怪物の襲撃があればすぐに非難し、嵐が過ぎ去るのを待つ。運よく襲撃が無ければ、日没とともに粗末な住宅に帰るのだ。しかし、魔王の居城がある山からは竜巻のような突風が降りてくることもあり、その風の通り道は完全なる荒れ地となり果てていた。しかし、その土地に生まれた者には愛郷心がある。また、国を捨てた者でも、生まれ故郷を忘れることはできない。魔王と戦うこの小国を救うべく、人類社会の小さな援助助力は長年維持されていたのだ。最前線の王国が、この悲惨な運命に呻吟するようになり、既に二百年近くたつ。


「果たして、二百年もの間、巧みに防衛できていたのか、ただ単に生かされていただけなのか。」


 初めて足を踏み入れるこの国について、勇者黒髪は理解が不足してはいたが、その異様さは読み取っていた。最前線の王国の指導者である王は勇者を歓迎してくれた。勇者よりも若い王であった。


「この国では王も戦場に出ます。そして、私が何代目の王なのか、もう判る者はおりません。」

「道中我々と共に来たのですが、先発した隊があったはず。彼らの行き先は?」

「既に魔王の領域の中心部を目指し、進軍されました。」

「誰も止めなかったのですか。僅かな兵力しかいなかったはず。」

「それでもこの国の兵よりはあらゆる状態で優れていました。彼らも惨めな私たちを見て、共同で戦う事を諦めたのでしょう。」

「この国には英雄、と呼ばれる人物がいると、伝聞で伺っていますが。」

「怪物の襲撃に立ち向かい死んだ者は、誰もが英雄として墓に埋葬されるのです。」


 勇者黒髪は出来る限りの情報と物資を仕入れ、現地の案内人も雇い、魔王の都モストリアを目指して出発する準備を整えた。最前線の王国からは、すでに放棄された住宅跡地を宛がわれた。そこに陣地を置いて町を見渡すと、小高い丘に立てられた城を取り囲みへばりつく様にみすぼらしい住宅が立ち並ぶ。周囲には異臭が立ち込め、良く見れば礼拝所と墓の数が異様に多い風景があった。


「この国に希望を与える行為は、勇者の名に叶うだろうか。」


と黒髪は傍らのヴィクトリアに尋ねる。遠征軍の混乱に紛れ男装して部隊に入り込んだ妖精女は、それこそが真の勇者に至る道だ、と勇者黒髪を励まし続ける。度重なる失敗と厳しい現実の前に、ヴィクトリアが傍らに居ないと不安でたまらない勇者の為、彼女は出来うる限りの協力と奉仕を行っていた。


 ここまでの困難にも関わらず離脱せずに従って来てくれた兵士たちとともに休息を終えた黒髪は、先発隊を追う形で進軍を開始した。それでも予定外、というより不祥事ばかり起こるもので、交易都市の民で編成した輸送隊が、山登り中に示し合わせて逃げ出してしまった。脱走者の追跡もままならず、物資を運搬できるように各兵へ分配している最中に、例の竜巻にも似た突風が吹き荒れてしまい、一同、最前線の王国まで戻されてしまった。幸い死者は出なかったが、編成や物資がバラバラになったため、進軍再開までさらに時間を取られることとなる。


 すでにエローエを出発して四か月が経過していたが、勇者黒髪の遠征隊未だ魔王軍との対決をしていない。

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