第5話 わたしにできることは

 少し焦げた香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。白くてどろりとした暖かいシチューの匂いが、狭く窓の少ないトリスタンのアジトに充満していた。アジトにいる者で、そろって食事を摂っている。


 アネットは、自分が出来ることは何かと考えた。皆のように逞しく戦えない。それならばと、後方支援に回ることに決めた。最近は専ら家事をして過ごしている。

 この組織は大所帯である割に、家事を進んでしようという者はいなかった。

 掃除や炊事は、一応当番制ではあった。だが、見るからに機能していない。数日ほど誰も帰らない事もあるとはいえ、あちこち汚れていたり、臭っていたり、それは大変なものだった。アネットは数日をかけてアジト中をきれいに掃除して回っている。

 さらに、特に食事に関しても、全員が無頓着だった。アネットが調理を受け持つようになってからは、みんな肌の色艶がみるみる良くなっている。


「アネット殿の料理は実に美味でござる。拙者、母を思い出してしまいましたぞ。ああ、母上はお元気であろうか」


 エズメが遠い目をして窓の奥を見つめた。彼は故郷に母親を置いて来ている。部屋の奥では、アンとエトナが、シチューの具を巡って小競り合いをしている。


「エミリ……シン……」


 シチューを掬ったスプーンを見つめたまま、オウエンはピクリとも動かなくなった。その目には悲哀の色が深く漂う。彼の視線の先は、シチューの向こうにあるようだ。

 アネットは、オウエンの様子見がいつもと違う事に気が付き、声をかけるべきか迷っていた。すると、誰かがトントンと彼女の背中を指で軽く叩いた。


「あいつ、家族を亡くしているんだ。仕事で国を離れている間に、魔王に国ごと滅ぼされちまったらしい」


 アドルフがアネットにそっと耳打ちする。アネットは、はっとしてアドルフを見た。ここへ来た時、エイブラムはここに居る者は皆何かしらアーツの被害を受けていると言っていた事を思い出す。


「……なんて事を……ひどいわ」

「ああ、許すわけにはいかない」


 アドルフはオウエンを気遣うようにそっと彼を見やる。


「あの……アドルフも、そうなの? 何かあったから、ここに? 」

「いや、俺には家族も故郷もないからさ」


 アドルフの返事は、内容の割にあっさりとしたものだった。けれど、それがなんでもないことのようには思えないアネットは、驚きと衝撃に一瞬思考が止まった。


「……え? 」

「俺、親の顔も知らないんだ」


 当たり前だ、と言うようにアドルフは答える。これにはアネットの方がすっかり恐縮してしまった。


「そうだったの。こんなこと聞いてごめんなさい」

「いや、構わないさ。それに、ここじゃあみんな似たようなもんさ」


 アドルフは気にするなと笑う。白い歯が見えるその様は、何とも爽やかだった。


「苦労しているのね」

「そりゃあ、大変だったぜ。あちこち流れた末に行き着いた都会の隅っこで、なんとか生き長らえてきた。盗みの業は、その賜物ってわけ」


 アドルフは、パチンとウインクする。


「何で魔王を倒そうと思ったの? 」

「ああ、まあ……いろいろ、な」


 アドルフは曖昧に言葉を切って、話すのを止めた。アネットから目を逸らし、口を噤んでしまった。彼女がこれ以上は聞けないと思ったその時、アジトの入り口がバタンと大きな音を立てて開いた。そこにいた全員が、一斉に入り口に注目する。

 トリスタンの兵士がひとり、崩れるようにして入って来た。息も絶え絶えといった風で、あちこち怪我をして流血している。


「た、大変だ! 魔王の軍が、ここへ向かっている」

「何だと! 」


 アンの皿から肉を頬張ったエトナが、がばりと立ち上がった。アンはエトナを睨みつけて、魔力を込め始めている。


「ここに? アジトがバレちまったのか!? 」


 アドルフも立ち上がり、自室で食事していたエイブラムが物音を聞きつけてやってきた。アジトに緊張が走る。

 アンはエトナに小さな雷を落とした後、開いたままの入り口の外をキッと睨んだ。


「すいません……」


 兵士は床に倒れ込み、弱々しく答えた。

 兵士は他の数人と共に魔王の動向を探っていた。一仕事終えてアジトへ帰る際、魔王の軍に襲われたらしい。

 斥候をしていた兵士達は勇敢に立ち向かったが、相手は大軍だった。その上相手は仲間を呼び、どんどん増えていく。ひとり、またひとりと味方が倒れ、全く歯が立たない。やむなく退却するが、逃げ切れなかった。


「仕方あるまい。ひとまず逃げるぞ! 裏の川を渡るのじゃ! 」


 エイブラムが指揮を執り始めると同時に、皆は逃げる準備に取り掛かった。鍋や食器を隅にやり、武器や防具を身に付ける。アネットは、護身用にと支給されたばかりのロッドをキュッと握りしめた。

 鎧を着けたオウエンが壁の一部を蹴り飛ばすと、中からボートが出てきた。簡素な木製のそれを、男達が部屋から運び出す。オロオロするアネットの肩に、エズメがポンと手を置いた。


「ここより下流にマルコワという街がござる。ひとまずそこへ参りますぞ。我らの協力者を訪ね申す。川の流れは少々激しいが、行けぬことはござらん。ご心配召されるな」


 エズメはそう言うと大小の刀を腰に差した。緊張した面もちで歩き始め、アネットにも付いて来るようにと促す。

 轟々と川が流れる音が、アネットには嫌に耳に付いた。

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