三題噺
雑駒 波鸞
戦争 冷蔵庫 壊れた恩返し
天を突くキノコ雲が、ついに現実化した。
博士は44インチのテレビ画面を凝視し、手に持っていたコーヒーを落とした。カップが割れて、中身は床に溜る。博士のスリッパにその茶色が染み付いていくというのに、博士は全く気にしていなかった。
「どうしたんです? 今大きな音がってあれ? コーヒーを零してるじゃないですか」
大きな音を聞きつけた助手はザーザーとスリッパを滑らして駆け寄ると、その惨状を見て目を丸くし、近場にあったティッシュで博士の足元を呑気に拭き始めた。博士はそんな助手に目を向けると、吠える。
「そんなことをしている場合かね! テレビを見たまえ!」
真上から来た声に押されて、白衣に茶色が染み込んだ。だが、助手はそんなことを気にしていられない。博士に言われるがままにテレビを見た。
テレビでは緊急放送と題されて、左にいるアナウンサーの横でとある映像が流れている。どこかで見た光景だ。どこかの国がロケット打ち上げの如くミサイルを放っている。それは前に見たことがあるような気がして助手は「あ、いつものか」と思ったが、しかし、左にいるアナウンサーの様子は違った。それこそ、まるでかの国の報道みたいに何事かを捲し立てている。もはや聞き取れないほどの叫び声を上げて、ずっと見ていると、その様は泣きへと移った。そして、「みなさん。お達者で」と緊急放送は急に終いとなった。ザザッという砂嵐に変わる。
「何事なんですかね?」
要領を得なかったらしい。まだ二十代かそこらの若い助手はそう呑気に博士を見上げた。すると、また大声の圧が飛んできた。
「馬鹿者! 核ミサイルが来るんだ! 例の国からな! わかっておるのか!」
「え? 今のがそうなんですか?」
若い助手は竦みはしつつも中々どうして、呑気なままだ。この地に圧倒的な破壊が訪れるのに、若い助手は飄々と落ち着いていた。その、まるで場違いな様子に博士は噛み付く。
「なぜ落ち着いていられるのかね!」
「え? だってインディは冷蔵庫に入ったら助かってましたよ? 核爆発の中から」
それに、と助手は言葉を続ける。
「ネットじゃ核ミサイルは来ないって……」
「元に来とるだろう! それになんだ! インディだのネットだの……」
若い助手の言い草に博士は頭に血が上った。何を言っているのか、この男は。明らかに憤慨していた。助手がインディジョーンズが好きなことは知っているし、今の若者がネット漬けなのも承知だが、間も無く核が来る。そう告げられても全く動じるどころかケロリとしている。自分が動じているのにだ。ことの重大さがわかっていない。博士は憤慨した。
「うー! この馬鹿者が! 兎に角、地下のシェルターに逃げ込むぞ! 二階から妻を連れてきてくれ」
だが、これ以上憤慨していると死を呼ぶキノコ雲がいよいよきてしまう。博士は真っ赤な頭をそのままに助手にそう告げた。助手はまた呑気に返事をすると茶色が十分に染み込んだティッシュを捨てて妻がいる二階へと向かっていく。
この博士宅には小さいが、地下に二人用の核シェルターを備えている。こうなることを予見してだ。当分の水や食料はたっぷりと備蓄され、地熱発電で照明も付き、さらにはトイレと、外に出るための外部放射線線量計まで完備されている。大金を払っておいてよかった。博士はそう思って自室のパソコンを抱えて地下に行った。
「遅い!」
先にシェルターに入って、もうそろそろ二分は経つ。まだ家にいるのであろう二人を待つため、シェルターの分厚い鉛の扉はまだ開いていた。しかし、入り口で幾ら待てども、助手の姿も、それどころか愛しき妻の姿さえ見えない。一体何をしているのか。博士はさっさと来いと言いにシェルターを出ようとしたが、しかしいつ何時ミサイルが来るかわからない。
抱えたパソコンを大事そうにギュッと握った。と、入り口にようやく人影が見えた。助手だ。博士は見つけた途端に叫んだ。
「妻はどうした!」
「博士! 大変です!」
「どうした?」
助手は血相を変えている。何か妻にあったのか。博士は慌てた様子で、直様聞きただした。すると、言い辛そうに口をモゴモゴとする。耳を澄ますと、やっとこさで「奥様が、奥様が」と呟いている。博士は再三、どうしたと大声で聞いた。と助手はさっきまでの呑気な顔を必死なものに変えて、博士に叫んだ。
「奥様がインディになられました!」
「何だって?」
言葉の意味がわからない。逼迫した状況だというのに、博士は思わず疑問の声を上げる。と、助手は恍惚の表情をして語り始めた。
「僕に初めてインディを見せてくれたあの人が、インディになりたいと言っていたあの人がとうとうインディになりました!」
「ど、どういう意味だ?」
助手のあまりにゆったりとした口調には小さな狂気が垣間見えた。それに気圧された博士は訝しみつつもまた質問をする。と、助手は親切にもそれに答えてくれる。
「僕がこの期に恩返しをしたんです。奥様はもうもれなくインディになるんです! 僕の大好きな! インディアナ、ジョーンズ、ジュニアに!」
「だ、だから、私の妻に何をしたんだ?」
助手は両手を広げて、まるで勝ち鬨を上げるようにそのまま万歳の格好をした。一体なんだ? 博士はもうわけがわからない。この若い小僧は妻に何をしたんだ? インディが好きなことは先刻承知だし、妻がブルーレイボックスをこの男に貸したことも知っている。それからというもの男はそれの話題だけになった。ことあるごとにインディを出し、とりわけ妻にはかなり熱心に話し込んでいた。博士はただのオタクと思っていただけに、この光景に面食らっていた。
助手は、今度は博士に何も返さない。博士は頭を抱えながら助手に懇願する。愛している妻をどうしたというのだ。
「頼むよ! 教えてくれ! 妻をどうしたんだ?」
助手は両手を広げたまま、ニヤッと不気味に笑ってこう言った。
「博士ぃ。奥様はインディになるんですよ。お分かりでしょう?」
え? 博士は考え込んだ。インディになるということは何なのだ。博士はインディをあまり知らない。だから、インディを偏愛している助手の言葉を、覚えている限りで思い出した。しかし、何故かあまり思い出せない。唸っていると、助手が広げた両腕、その白衣に茶色い染みを見つけた。それを目にした途端だ。博士は思い出した。まだ助手がコーヒーを吹いているときのことだ。核爆発の中、インディは何で助かった?
「まさか!」
博士が答えを口にした時、キノコ雲が天を貫いた。
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