9.涼宮ハルヒに会いたかった男の子

 気づいたら、俺は振り返っていて、景色が、流れ始める。右脚、左脚、前へ、前へ、進む、その歩幅は、大きくなる、視界を通り過ぎる風景がどんどん速くなる。


 ――――ああ、ああ、ああ‼


 俺は駆け出していた。生温い風を、全身に受けて、もつれる足を、前に駆って。

 クソ、情けねぇ、ダセェ、これでもクールぶってるつもりなんだけどな、ニヒルにシニカルにアイロニカルに、「やれやれ」とか言い出しそうな空気醸し出してんだけどなぁ!


 違うよ、違うんだよ、あいつには俺がいなくちゃ駄目だとか、お前の相手をしてやれるのは俺くらいだとか、お前を救ってやるだとか、そんなどこぞの主人公みたいなことを言うつもりはこれっぽっちもないんだよ。


 俺は、お前のことが、好きなんだ。


 理由? 説明なんてできるわけないだろ。あの日、あの春の朝、出会ってしまった痛々しいお前に、俺は、惹かれてしまった。それに、どんな理由が要る? どんな理屈が要る⁉

 ……顔だってなぁ、顔だってなぁ! 正直好みなんだよ! 悪いか! B専とでも物好きとでも何とでも言いやがれ! 先輩のおかげで、可愛くなったよ、お前! それでちょっと調子乗っちゃってるところも、これが結構微笑ましかったりするんだよ!


 ――なあ、田中真由子。

 お前を必要としているのは、お前の傍にいたいのは、他の誰でもない、俺なんだよ。


 例えばさ、例えば俺が、退屈だった三十年とかに見限りをつけて、どっかのビルの屋上から飛ぼうとしていた未来人だったとしたらどうする? 夢も希望もない現代人の、疲弊した心を読み取れる超能力者だったらどうする? 「憧れ」という概念を知らないために、それを地球に学びにきた宇宙人だったらどうする?

 うるせぇ、どうもしねぇよ。俺は俺だ。お前はお前だ。どうしようもなく平凡で、凡庸で、月並みで、陳腐で、チープな、どこにでもいる、ありふれた人間でしかねぇよ。

 ――だからなんだよ。だからなんなんだよ。それでも、俺にも、お前にも、〝青春〟を謳歌する権利はある! 見渡してみろ、周りのクラスメイトを。平凡とか非凡とか、天才とか凡才とか関係なしに、友達と、恋人と、部活の仲間と、楽しい毎日を送ってるじゃねぇか! なあ、それでいいんだよ! それこそがいいんだろ! いい加減くだらないプライドは捨てろよ! 素直になれよ! 忘れちゃいけない憧れだけ大事に抱えて、踏み出さなきゃいけない一歩を、さらもう一歩を、二歩を、三歩を! 思い切って踏み出してみろよ!


 なあ、田中真由子!

 お前の憂鬱を、吹き飛ばそう!

 俺の憂鬱を、吹き飛ばしてくれ!

 お前の超越性は俺に担保させろ!

 俺がお前を必要とするただそれだけで、お前は俺にとって、この全宇宙の中で完全無欠で最強なんだから!

 なあ、田中真由子、お前が涼宮ハルヒになりたい女の子なら、俺は、俺は、俺は――‼


 俺は涼宮ハルヒに、どうしようもないほど惨めで憐れな男の子なんだよ‼



 長い階段を駆け上がって、橋の上、数十メートル先で小さく見える背中――捉えた。

 夕焼けに染まる橋の上。橋下を流れる川は橙色の乱反射。奇遇なことにこちら側の歩道に俺たち以外の人影は見当たらない。いいじゃないか、完璧なシチュエーションだ。

 さあ、叫べ! その名前を、名は体を表すような彼女の名前を‼


「――――田中真由子ぉッ‼」


 びくりと肩を震わせ、立ち止まる。逡巡したような間を置いてから、あいつは振り返る。

 距離にして二十メートルはない。早足で歩み寄りながら、有らん限りの声で叫ぶ。

「夢は信じるところから始めなくちゃいけない! そうじゃなきゃ叶うものも叶わない! 宝くじは買わなきゃ当たらねぇ! 誰かが一億円の当たりクジくれないかなんて思っても、絶対にそんなことはない‼」

 誰の台詞だか、お前なら分かるよな? 『涼宮ハルヒの消失』冒頭、SOS団クリスマスパーティーを提案するハルヒの台詞だ。ああ、ハルヒは本気でそう信じている。願っている。真っ当に抱える〝常識〟とは別に、それを信じている。だから彼女の元には集う。宇宙人が、未来人が、超能力者が、――〝青春〟が。


 俺は続ける。向かいの歩道を歩く通行人が、こちらを見ているような気がする。ええい、そんなこと気にしていられるか。声を張り上げろ、教わった発声方法を駆使しろ!

「物語が欲しいんだろ! 心躍る、夢みたいな、きらきらした、嘘みたいな、有り得ないくらい楽しい、そんな非日常が欲しいんだろ!」

 この距離でも分かるくらい、田中真由子は大きく目を見開いた。

「だったら変われ! 他の誰でもない、ましてや世界なんかでもない、お前が変われ!」

 田中真由子はにわかに眉間に皺を寄せ、俺を睨みつける。いつもの不機嫌な表情。心に突き刺さる言葉をずばり言われてしまった時の顔。

「ここで変わらなきゃ、お前の高校生活卒業まで変わんねぇぞ!」

 間にある距離はもう、十メートルもない。近づく、近づく、近づいて、言う。

「なあ、もういい加減、お前は先に進むべきだ! その空想を、夢を、捨てろだなんて俺は言わない! 目の前の現実と折り合いをつけろだなんて、そんなこと絶対に言わない! 折り合いなんて俺にもつけらんねぇよ! 今だってずっと夢見てるよ! だって高校生活始まったばかりじゃねぇか! これから胸躍る日々が始まるかもしれねぇじゃねぇか! ただ、でも、それでも、変えていかなきゃならないことが絶対にある! ああ、まずはその拗れたプライドをどうにかしろ! そしたら世界は絶対、もっと楽しいものになる!」

「――――うるさい! うるさいうるさいうるさい‼」


 跳ね返ってきたその言葉に、思わず俺の足は止まる。瞬間、呼吸を忘れる。

「そうやって、そうやってそうやってそうやって! 綺麗事ばっかり言って、正論みたいなことばっかり言って! じゃあセキヤはどうなの! どうだったの⁉ 輝かしい毎日があった⁉ 無かったんでしょ⁉ 平凡だったんでしょ⁉ 説得力無いから! そんなに言うなら証明してみせてよ! どうしたらいいのか、私に教えてよ‼」

 教えてきたつもりだった。「俺がキョンになる」だなんて赤面ものの台詞まで言って、傍にいたつもりだった。まだ足りないのか、まだ気づかないのか! 悠歩先輩を、智佳先輩を、演劇部を、岡野を、クラスメイトたちを見てきて、まだ分からないのか!


「――――俺にだって分かんねぇよおおおおおおおお!」

 でも、分からないのは俺も一緒なんだよ。


「俺にだって分かんねぇよ。悠歩先輩と俺、どこで差がついたのか、岡野と俺、どこで差がついたのか、楽しそうにしてるクラスメイトと俺、一体何が違うのか、何が正しくて何が間違っていて何が痛々しくて何が青春で何が普通で何が特別で何が平凡で何が非凡で、何が本物で何が偽物なのか! これっぽっちも分かんねぇよ! むしろ俺に教えてくれよ!」

「――ッ意味分かんない! セキヤはいっつもそう! 自分だって大したことないくせに! ほんとはなんにも知らないくせに! 偉そうに、達観したフリして――っ馬鹿ぁ‼」

 田中真由子がブン投げる弾丸は、これが意外とブッ刺さる。何だよお前、いつもは何も言わないくせに、俺のことそんな風に思ってたのかよ――ああ、いいよ、それでいいよ、全部ぶち撒けろ、剥き出して、曝け出せ、そこから始まるんだよ、また、もう一度、一緒に‼

「だったら一緒に勉強しよう! 証明していこう! 俺が一緒にいてやる! 俺が共犯者になってやる! 夜の校庭に落書きだってしてやる! 放送室をジャックしたっていい! 痛々しいと蔑まれたっていい! 泥だって嘲笑だって一緒に浴びてやる! だから変わろう! お前の未来のために! お前の革命のために! お前の――青春のために!」


「……なんで、どうして――」

 言い返す気力もなくなったみたいに脱力して、ぶつけられた言葉に追いつかないみたいな顔をして、田中真由子は声を震わせる。そうして、多分今まで、芝居の練習でだって聞いたことがなかったくらいの声量で、あいつは叫んだ。

「どうしてアンタにっ! そんなこと言われなきゃいけないの‼」


 その言葉に、返す答えは? 憐憫? 同情? 軽蔑? 慈悲? ――違う。

 ああ、そうだ、それは、それはきっと――


『ああ、魔法。それは間違いなく魔法さ。どうしようもなく嘘っぽくて、気恥ずかしくて、でもきっとどんな言葉より素直で真摯な、究極最強必殺の魔法。たった一言、それだけで、世界全部塗り変わっちゃうような、とっておきの魔法』


 魔法――――


「お前のことが好きだからだ‼」


 ああ、言うさ、言うよ、俺は、今度こそ、素直に、端的に、単刀直入にな。

 田中真由子は目を見開いて、肩を大きく引き上げた。

「俺は、お前が、誰かに後ろ指を指されることなく、白い眼を向けられることなく、お前が本当に信じているものを、追い求めてほしいと思う! その、まるでアニメや漫画やライトノベルみたいなベッタベタの高校生活を、現実にしてほしいと思う! 嘘みたいな妄想を、夢想を、空想を、本物にしてほしいと思う! それが俺の願いだ、それが俺の夢だ! ああ、それでいい! それがきっと――俺の青春だ‼」

 夕陽が橋に降る。世界を眩しく照らす。主観の問題? 知らん、そんなことより聞け!

「思い出話をしてやる。お前の言う通り、俺は平凡な人間だった! もちろん今だってそうだが、とにかく小学校中学校と本当にありふれたとすら形容できない普通の学校生活を送ってきた! それなりの友達、それなりの喜び、それなりの楽しみ。でもそんなんじゃ、俺の渇きは満たされなかった。心のど真ん中にある、漠然とした巨大な空洞は埋まらなかった! 得体の知れない焦燥感、閉塞感、孤独感に押し潰されそうな毎日を送っていた!

 ――ある時までは、だ。それは中学二年生。まさに〝中二〟だ。俺は『涼宮ハルヒ』に出会った! 革命だった! 高校生活はこんなにもキラキラしているのかって、衝撃を受けた! 小説もアニメも何度も見返した! 憧れたさ! あんな青春があったならって、強く強く思ったさ! それからいろんな物語を、青春模様を、戦いの世界を、貪るように摂取した! そのあまりにも輝いた非日常に、抱く願望はどんどん膨れていった! 『いつか俺もこんな風に』何度だって思ったさ! でも、俺は平凡だった! 骨の髄まで平凡だった! 自分から行動を起こすことなんかできやしなかった! 一緒にそんな馬鹿みたいな気恥ずかしい夢を叶えようとしてくれる友人なんて――共犯者なんていなかった! 一人じゃ何もできなかった! 自分の世界すら、大いに盛り上げることなんて叶いやしなかった! だけど…………お前は違った! とんでもなく痛々しくて、でも俺みたいな人間が何より望んでしまう〝それ〟を、やってのけちまった! 惹かれないわけがないだろ! 痛々しい? 関係あるか! 平凡を嫌う人間が、平凡から抜け出したくて示そうとする不器用な〝自分らしさ〟すら持てなかった俺に、お前は魅せてくれたんだ! それが、それが俺にとって、どれだけの衝撃だったか分かるか! 至近距離、たった五十センチで突きつけられたその言葉に、打ち震えないわけないだろうが‼」


 聞けよ、田中真由子。俺の全身全霊を、気取らない、気取れない、剥き出しの想いを。


「お前は、この世界にとって特別じゃない。何の才能も世界に認められちゃいないし、ましてやクラスメイトにさえ、尊敬の眼差しも羨望の眼差しも、畏怖も憧憬も抱かれちゃいない! だけど、だけどだ! それがどうした! 世界の誰にとって、何にとって特別じゃなくとも、お前は、お前は、俺にとって特別だ! たったひとり、俺が初めて唯一出会った、涼宮ハルヒになりたい女の子だ!」


 世界は退屈で、憂鬱で、味気なくて、くだらなくて、理不尽で、夢も希望もなくて、

 それでも、それでも――――だろ?


「なあ、俺たちは、退屈な世界の憂鬱を吹き飛ばす超革命的高校生集団なんだろ⁉ ぶっ飛ばそうぜ、憂鬱も、溜息も、退屈も、つまんねぇ日常も、涙も、悔しさも惨めさも寂しさも虚しさも、不安も不満も葛藤も焦燥も! 全部、全部全部全部全部! 俺たちで、俺とお前で、ぶっ飛ばそうぜ! 笑っちまうくらいベタな物語に、飛び込んでやろうぜ!」

 至近距離、五十センチ。目の前の小娘に向けて、ぶっ放す。

「俺は、お前となら、変われる気がしたんだ。なあ、今やっと、俺たち一緒に、何かを掴み得るかもしれない場所にいるんだよ! ムカつくところ、許せないところ、不満とか苛立ちとか相変わらずいろいろめちゃくちゃあるけど! それでも、それでもさ――!」

 最後だ、決め台詞、悠歩先輩みたいに、クールに決まるだろうか――言え!


「……お前の世界を、大いに盛り上げるために、力、貸させろよ。そのどうしようもなく痛々しい野望に、加担させてくれよ。そしたらきっと、俺だって楽しいんだから」


 涼しい風が吹き抜けた。


「……もう、何なのアンタ、ほん……と、訳、分かん……ない……から……」

 少女は、ふるふると、肩を震わせる。両の握り拳にぎゅっと力が込められるのが分かる。

 何かを堪えるような表情。ぐっと眉間に力を込め、もう全然可愛くない顔で歯を食いしばる。そして田中真由子は――、ぼろぼろと泣き出した。


 ……締まらないなあ。ラノベのヒロインなら泣き顔も、様になるはずなんだけどなぁ。

 シチュエーションは完璧なのに、しかしその嗚咽はどうにもみすぼらしい。

 どうやら俺たちはやっぱり、ハルヒにもキョンにも程遠い、平凡な少年少女らしかった。


 歩み寄る。堅く握りしめられた両手。彼女の右手を取って、改めてその顔を見る。目を逸らしながら、肩で息をする田中真由子。近づけばやっぱりどこまでも小さくて、華奢で、あまりにも脆い。万能少女ハルヒ様になんて、到底届きそうにもない。そんな、どうしようもない、惨めで憐れなこいつを、俺は。


「……とりあえず、さっきのベンチ、戻ろうぜ」

 頷きもせず突っ立って泣く彼女を引き連れて、歩き出す。


 例えばここで、「その気になれば空だって飛べる」だとかなんとか言って、ふたり手を繋いで川に飛び込んだりすればドラマチックだったりするのかもしれないけれど、びしょ濡れになる制服はどうすんだとか、怪我したら親が心配するだとか、携帯電話がぶっ壊れちゃうぞとか、こんな時ばかり現実的に考えてしまう俺はやっぱり、吹っ切れない〝ただの人間〟なんだろうなぁと、そんな風に思ったらなんだか笑えた。

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