2.変わるということ

「ところで彼女のどんなところが好きなんだ?」

「えっ⁉」

 田中真由子の縮毛矯正を待つ間。悠歩先輩の提案で、男子二人組は時間潰しの散歩に繰り出した。先輩たちの家の近くということで、周辺を案内してもらう。しばらく歩いた頃、部活の話や趣味の話なんか雑多に交わし合った流れで、先輩は唐突に、さらっと俺に言った。

 思わぬストレート球、言葉に詰まる。

「なに、好きなんじゃないの?」

「……そうです、けど」

 先輩たちには話していないはずだけれど、案外簡単に気づかれてしまうものなのか?

「……その、なんというか――全力なところ、ですかね。見ていてすごく危なっかしいけれど、そこが魅力的というか、自分にはない部分だから憧れてしまうというか……」

 真っ当に理由を述べてしまうとかなり恥ずかしい。丸裸にされた気分だ。

「なるほどねぇ。うんうん、分かるよ。それが田中っちの魅力だよな。そうだと思うよ」

「…………分かります?」

「分かるさ。ハルヒに憧れちゃう女の子だろ? あちゃ~って感じだけどさ、なんか目が離せないよな」

 ああ……。もう、その通り。その通りです。お恥ずかしながら。

 どうして好きになったのか、まで尋ねられたので、入学当初のホームルームでの話や、SSS団結成のくだりなんかを思わず話してしまう。何故だか悠歩先輩に対しては、全く抵抗感なく話すことができる。人から言葉を引き出せる、そんな人柄なのだと思う。

「なかなか楽しいことやってんじゃん、セキヤン」

「そう、ですかね……。振り回されてばかりですけど」

「お、そんな話をしているうちに、何の因果か我が母校。……なんて、自分の町歩いてりゃそりゃ通るよって話だな」

 悠歩先輩は立ち止まる。気がつけば左手側には学校。フェンス越しに見える校舎。

「……中学、ですか?」

「そうそう、中学校。愛憎入り混じる懐かしき学び舎。わっはっは」

 中学校。悠歩先輩の母校。――愛憎入り混じる?

「休日だったら校内散策するのもよかったんだろうけど、あいにく絶賛授業中だな」

 敷地東側の通りを北に進み、左手側の小道に曲がって、学校の北側を歩いていく。

「しかしなんというか、未だに信じられません。先輩方と休日出掛けたりだなんて……」

「な~。俺もこんな風に仲良くなるとは思ってなかったよ」

「今日はほんと、ありがとうございます。俺からもお礼を言わせていただきたいくらいです。あいつをあんな風に引っ張ってくれる人、きっとそうそう現れるはずなくて、誇張なしに奇跡なんじゃないかと思ってます」

「おう、何ぃどうしたぁ。それ言うのまだ早いだろうに」

 自分でも思っていた通りのことを言い返される。一日はまだ始まったばかりだ。

「智佳も気に入ってるんだよ、田中っちのこと。俺もあの子のこと好きだしな。あ、もちろんセキヤンもだぜ? 君たちなかなかお似合いだと思うよ、世辞抜きに」

 敷地を囲む金網に手を滑らせながら、その手触りをどこか懐かしむように、先輩は歩く。

「智佳はさ、底無しのお人好しなんだよな。誰にだって優しくて、人を恨んだりとか、憎んだりとか、絶対にしない。でもそういうこと本人に言うと『私だって人くらい選ぶよ』って言う。そういう素直さも、あいつの良いところだな。そんな風にあいつが選んだ相手なんだから、やっぱりちゃんと選ばれた相手なんだよ、田中っちもセキヤンも」

「……本当にお好きなんですね、智佳先輩のこと」

「そうだなあ、言葉にしようとすれば、多分セキヤンが引くくらい好きだよ、智佳のこと」

 悠歩先輩はこういうことを、何の恥じらいもなく堂々と、自信ありげに言ってのける。潔くて、爽やかで、そこがこの人の魅力なんだと思う。

「……うらやましいですね、そういうの」

「よし、じゃあ今から惚気話するな」

「……聞かせてもらいます」


「俺さ、中三の時いじめられてたんだ」


 思いがけない一言に、閉口する。さあっ、と、風が吹き抜けた。



 歩く速度を落とし、ゆっくりと景色を眺めながら、歩いていく。フェンス、校舎、青空。

 突き抜けるような青空には、飛行機雲がひとつ、遠く、どこまでも伸びている。

 ぽつり、ぽつり、とても穏やかに、けれどどこか寂しげに、悠歩先輩は語った。

 ふとしたことから孤立し、ひとりぼっちになった中学三年生。塞ぎ込み、世界の全てを睨みつけながら生きていた季節。誰も自分のことなんて理解してくれやしない、クラスメイトは皆愚かで、敵で、死んでしまえばいい。そんな風に思いながら、イヤホンで耳を塞ぎ、文庫本に目を落とし、誰とも目を合わせず、口を開かず、耳を傾けず、過ごした毎日。

 そんな時に出会った一人の少女。それまでにも同じクラスになったことはあって、会話したことも何度かあったけれど、その時初めて意識して、関わるようになった少女。その少女は、周囲の悪意ある陰口や噂話なんかを気にせず、対等に、真っ当に、接してくれた。


「あれ、中学一緒だったって話、してたっけ」

「いえ、聞いたことなかったです」

 歩みを進めると、敷地の隅に設けられたプールの前に辿り着く。

 乱反射するきらきら。波紋ひとつない水面が映し出す、反転した青い空と飛行機雲。


 彼女の存在はまるで女神のようで、暗闇に射した一筋の光ようでもあった。

 差し伸べられた手。屈託のない笑顔。気づいたら、好きになっていた。

 日を追うごとに少しずつ、その距離は縮まっていった。

 ある時、少女は言った。


『あなたが変わるべきだ』


 冷静になって振り返れば、自分自身にも悪いところはたくさんあった。他人に対して上から目線だったり、納得いかない意見を自分勝手に退けたり、気に入らない誰かの悪口を言ったり。傲慢で、卑しい人間だったと気づいた。それから少しずつ、彼女の力を借りながら、そんな自身の態度を改める努力を続けた。そうして中学を卒業した。全てを清算しきることはできなかったけれど、そうやって変われたからこそ、高校で多くの友達ができた。演劇部に入って掛け替えのない経験をすることができた。彼女の特別になることができた――。


「……つまり俺にとっての智佳はさ、そういう存在なんだよな。だから恋人になれた時はマジで嬉しかったし、もう死んでもいいや、いやいやむっちゃ生きていたい、死なないで本当によかったって、そう思えたんだよ」

 悠歩先輩は笑う。いつもみたいにからっと笑う。でもその笑顔には、切実な重みが見えた気がする。思いがけず聞かせてもらったその過去。自分自身と向き合った過去。

 先輩から感じるどっしりとした安定感。揺らがないしっかりとした一本の芯。それらにはきっと、経験してきた暗く、苦しい過去や、自分を変えようと思った日々の努力が間違いなく結実しているのだと思う。


 ――自分には無いものを、この人は、どれだけ持っているのだろう。

 たった数年、生きた年数が違うだけ。それだけだけれど、それだけじゃない。

 例えば、例えばいずれ自分が、今のこの人と同じ年齢になった時、こんな風に語れる過去を、経験を、持っていられるだろうか。こんな風に誰かに、自信を持って話したりすることが、できるだろうか。

 途端に、自分がものすごくちっぽけな存在に思えた。世界にとっての、ほんの塵ひとつみたいに思えた。心の中、揺蕩う波紋が、大きく波打つ。青い空が、なんだか遠い。

 悠歩先輩は立ち尽くし、プール越しにかつて過ごした学び舎を眺める。じっと、過去や現在や未来を見据える、そんな横顔をして、先輩は何を思っているのだろう。


「……じゃ、ぼちぼち戻りますかぁ」

 ぐぁあ、と、大きな欠伸をひとつして、悠歩先輩は気怠げに笑った。



「………………」

 美容室に戻るとそこには、しきりに髪を気にしている落ち着きのない小娘がいた。

 前髪を触ったりしながら、その手触りに驚き、感心している。

「ほー! いいじゃんいいじゃん。しゅっとして雰囲気変わったわ~」

 悠歩先輩が興味深くその変化を観察しながら言う。田中真由子は照れくさそうに視線を逸らす。彼女の隣に立つ智佳先輩はどこか誇らしげだ。

「ふふん! ね? いいでしょいいでしょ? 可愛くなったよねまゆちゃん!」

「おうセキヤン、お前もなんか言ってやれって」

 お前の言葉が一番大切だろ、とかなんとか言ってニヤニヤなさるのですが、それはつまりどういった……?

 悠歩先輩に背中を押され、一歩歩み出て田中真由子と向かい合う。

「えっと…………」

 田中真由子は横に垂れた髪をなんとなくくるくるさせながら、ちらりと一瞬こちらを見て、やはりすぐに視線を逸らす。カチューシャは着けていない。そわそわしながら口をへの字に歪ませている。

 これが……これが田中真由子、なのか……?

「悪くないと思う、よ」

 ……情けない話だが、気の利いた一言なんて言えそうにない。

 田中真由子はへの字口のまま、言語化し難い絶妙な表情を見せる。

 ちら、と先輩お二人を見やったらどちらも同じような、微笑ましげな表情をしていた。

 運動会で愛しい我が子を見守る両親みたいな、そんな顔。

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