深夜の縁

人仁

第1話  深夜のコンビニは出会いの場 1

その人影を見つけた時、俺は蜂が突然目の前に現れた時のように身体をびくつかせ、仰け反った。真夏だというのに背筋がひやりと冷えるような感覚に襲われて、危うく手に持ったコンビニの袋を落としそうになる。

 深夜、日ごろの仕事でたまったストレスのせいか、眠ることが出来なくなってしまった俺は、気晴らしのために近くいあるコンビニへと出向いていた。昼間とは打って変わって人気の少なくなった駅前のコンビニだ。一年のうち数度訪れるストレスの頂点期に、俺は決まってコンビニへ行き、そこで、『クリームたっぷりシュークリーム』となんのひねりもない文字がプリントされた定番のシュークリームを買う。それを食べながら家へと戻ると、それまでどれだけベッドの上で苦労しても眠れなくとも、自然と睡魔に身をゆだねることが出来るのだ。どういったメカニズムでそうなるのかはわからないが、おそらく深夜の駅前の非日常的空気と、大好きな甘い物を食べることの相乗効果で、ストレスを睡眠が可能な一定数値まで押し下げることが出来るのだろう。

 今日もその一連を実行すべく、コンビニで物を買うまでは良かった。問題はその後、包装を破ろうとした時だった。ふと、コンビニの入り口の横に設置してあるごみ箱に目を向けると、3つ並んだごみ箱の隣に、背中の中間あたりまで黒い髪を垂らした女性が、膝を抱えてうずくまっていた。

 それを見た俺は、やばいものを見た、と反射的に思った。

 時間帯もあって、幽霊のワードが真っ先に浮かんだ。長い黒髪の女性というのがまたテンプレであり恐怖を煽る。もう一つのテンプレ素材である白い服は身に着けていなかったが、スーツ姿なのがある意味でリアルを感じさせた。まるで社会の荒波に揉まれて自殺した社会人の霊が死んだあともこうして夜道をさまよっているかのようだった。人を寄せ付けない負のオーラのようなものが漂っているのも、現代社会に対する恨みつらみを抱えて死んでいったのだとすると、妙に納得できてしまう。

 見なかったことにして帰ろうと、俺は女性から視線を外そうとする。25になっても、得体のしれない存在というのは恐怖するものだ。仮に相手が幽霊の類だったとして、もし気づかれた場合、憑りつかれて俺の身に不幸が訪れるかもしれない。いつだったかそんな番組を見たことがある。確かその時憑かれた男性は不運な事故でその生涯を終えたのだったか。そんなのまっぴらごめんだった。幸いにして俺の家は女性のいる方向とは逆にあった。女性が俺の存在に気付く前に、背を向けて立ち去ってしまうことは容易なことだった。

 しかし、子供の頃なら即回れ右だったことも、曲がりなりにも大人になったからなのか、若干の余裕が俺にはあった。それはもしかしたら、ここがコンビニの真ん前であるからなのかもしれないが、ともかく俺は怖いもの見たさで胸中にわずかに沸き上がった好奇心から、帰る前にと、気付かれないよう女性の姿をよく観察した。

 頭のてっぺんから丸まった身体、地面に接しているお尻や足。およそ生きてきた中でこれほどまでにはないと思えるほど、俺は女性に対して視線を這わせていった。そして気付いた。その女性の足はしっかりと2本生えていて、コンビニから漏れるわずかな光に照らされた姿は半透明などではなかった。細かい幽霊の定義は知らないし、そもそも定義が存在するのか知らないが、よくある幽霊の描写として足はないことが多かったはずである。また実体のない霊体であることから、身体は半透明であると表現されることが常だ。

 極めつけに、女性がほんの少し身じろぎをした際に、ヒールとコンクリートの擦れる音がはっきりと聞こえた。実体がないのなら、そんな音が聞こえるはずもない。どうやら幽霊ではなさそうだった。

 ほっと胸を撫でおろす中、今度はこんな時間に女性一人でどうしたんだろうと不審に思う。今は深夜の2時過ぎだ。人が出歩くにはあまりにも遅い時間帯である。しかも地味な普段着で手にコンビニの袋を下げた、いかにも夜食を買いに来ましたスタイルの俺とは違い、女性は仕事着と思われる紺色のスーツ姿で、体育座りをして顔を両膝にうずめているのだ。普通ではない。

 仕事帰りにどこかで飲んで、酔い潰れているのだろうか。それとも終電を逃して帰るに帰れず途方に暮れている?或いは男に振られて打ちひしがれているとかだろうか。焦燥感を漂わせている丸まった背中から、考えられる事柄を思い浮かべてみる。どれもありえそうといえばありえそうだった。ただ一つ確かに言えることは、良い理由ではないことだ。傍らには女性のものと思われる白いハンドバッグがどうぞ盗んでくださいと言わんばかりに無造作に投げ出されているのが、それを物語っている。

 幽霊でないのならこんな夜更けに女性が一人で座り込んでいるのはいろんな意味で心配だった。この辺りは比較的治安がいいが、最近はどれだけ治安のよい土地でも物騒な事件が起こる。誘拐、窃盗、強姦、殺人。いくらコンビニの真ん前とは言っても、そのどれに巻き込まれてもおかしくはない。自分の中に正義感めいたものが湧き上がり、俺は女性にほんの少し歩み寄り、ひと声掛けてみることにした。

 「あの、大丈夫ですか?」

 無難な言葉を選びおずおずと話しかけると、女性は俺の声に反応してゆっくりと顔を横に向けた。20代前半か、まだ成人していないかくらいだろうか。化粧っ気のない整った顔は幼く、美人というより可愛らしい印象を受ける。あいにく女性は眉を吊り上げてふてくされたような表情をしていたが、それでもどこか愛嬌を感じさせた。細められた目とすぼんだ口は、笑顔の形になればきっともっと可愛いだろうに、と俺は彼女の顔を観察しながら少し残念な気持ちにする。

 女性は俺の問いに答える気配をみせずこちらをただじっと見つめてきた。中腰でいる俺のつま先から頭までを一通り視線が通り、最終的に膝のあたりで留める。何かついているのかと俺も見てみるが、特に何かがついているわけではないようだった。

 「こんなところに座り込んで、気分でも悪いんですか」

 会話がしやすいように目線の高さを同じにして膝立ちになりながら尋ねる。一瞬ばっちりと目が合った。しかしすぐにそらされてしまう。どうにも不機嫌なようで、終始口はとがりっぱなし、目はジトっと細められっぱなしだった。

 「あのー………」

 「私、エンコーとかしませんよ」

 不意に女性が口を開いた。

 「エンコ―?」

 一瞬考えて、すぐに援助交際のことを言っていることに気付く。

 「いや、別にそんなつもりじゃ……」

  否定しようとすると、女性はそれを遮って口早に続ける。

 「ナンパもお断りです。仕事帰りに疲れたから休んでいるだけなので、ほうっておいてくださって結構です」

 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、女性は再び膝の中に顔をうずめてダンゴムシのように丸くなってしまった。その姿は年に似合わず、いじけた子供が親に反抗を示しているかのようで、いささか滑稽に見える。俺は苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。

 仕事に疲れて休んでいる。意外にも普通の理由で、最悪面倒な理由だったらすぐ近くにある駅前の交番にでも連れて行くことも視野に入れていた俺はほっとした。しかし、だからといって彼女一人を残して帰れるほど楽観視はしていなかった。どんな理由であれ、真夜中に女性一人でいることは危ないのだ。

 「下心とかはないんで、ほんとに。こんな時間にどうしたのかなーと思っただけで」

 「さっきも言いましたけど、仕事帰りに疲れたから休んでいるだけです」 

 丸めた身体の隙間からくぐもった声が返ってくる。

 「だったら早く帰って家で休んだ方がいいですよ。家は遠いんですか?なんなら送りますよ」

 言ってから、しまったと思う。下心がないと言っておきながら、思いっきり下心があると思われても仕方がない発言をしてしまった。「あ、いや、他意はないですよ」と取り繕う。

 「ここから近いのでお気になさらず」

 言葉遣いは丁寧だったが、案の定危険を察知したかのように身体に力が込められる。警戒心を高めてしまったようだ。しまったなあと頭を掻く。

 というか近いんだったらなおのこと家に帰って休みなさいよと思う。それともわずかな距離を歩く気力もないほど疲れ切っているのだろうか。得られた情報は少なく、安心して帰れるほどの説得力もなかったため、俺は立ち上がろうともせず困り果てる。

 床についても一向に眠れなかったから、気晴らしにと呑気に散歩がてら夜食を買いに来ている俺だが、本当なら一刻も早く寝なおして少しでも疲れを取らなくてはならなかった。あと数時間後にはまた仕事に出かけなければならない。今は大したことがなくても、残った疲れは昼頃から徐々に身体をむしばんでくる。明日は定時後に会合もあるし、何とかそこまでの体力は温存しておく必要があった。

 道端で初めて出会った猫のようにあからさまに拒絶されているのだから、下手に関わらず放っておくのがベストなのかもしれない。しかしそれでは彼女が無事家に帰れたかが気になってしまってまた寝れなくなってしまいそうだった。俺は気になることがあるとストレスを抱えている時以上に寝られなくなる。神経質というか、心配性が過ぎるというか、自分でも気にしすぎなほど頭を悩ませる癖があるのだ。

 それに、顔が割れている以上誤解を与えたままでいるのは避けたかった。彼女の言葉に偽りがないのなら、俺と彼女の生活範囲はもろにかぶる。街中でばったり出くわすこともあるだろう。もしそうなったら、その時彼女は援交ナンパ野郎に出くわしたと思うだろうし、俺はそう思われてることを表情から察することになって、苦い思いをするだろう。これほどお互いにとって嫌な再会もそうない。

 話しかけた以上彼女のためはもちろん、俺が平穏な睡眠を獲得するためにも、お互いの保身のためにも、誤解を解いた上で彼女が家に帰るまでを見届ける必要がある。それにはまず彼女に抱かせてしまった警戒心を解かなくてはならないのだが、なにか糸口が掴めないか。俺はしびれてきた足を入れ替えながら、頭をひねる。

 ふと、手に持っていた袋が目に入った。

 「あ、そうだ。腹減ってないですか?食べます?これ」

 夜食用に買ったシュークリームをコンビニの袋から取り出して差し出してみる。餌付けみたいで気が引けたものの、疲れた時には甘い物が一番と聞くし、警戒心を解くにしても有効な手だと思っての行動だった。

 女性が盗み見るように目だけを外に出し、俺の持っているものを確認する。ぴくりと肩が揺れた。お、反応あり。これで受け取ってくれれば少しは心を開いてくれることだろうと淡い期待を持って動向を見守る。

 「……いりません!」

 しかし女性は何かを断ち切るように首を横に振った。

 「あ、そう……」

 街角のティッシュ配りじゃないんだから簡単にはもらってくれないか。それに、彼女にとって俺はまだ援交かナンパ目的の可能性がある怪しい男である。知らない相手から物をもらわないのは小学生だって知っている常識だ。

 餌付け作戦は失敗に終わった。仕方なく手を引っ込めると、ガサッと包装が鳴るのと同時に、一瞬女性の目が俺の手元に向けられた。いらないと言いつつも気にはなってはいるらしかった。食べるのはよしておこう。

 「あの、大丈夫なので帰ってください。私ももう帰りますから」

 女性は突き放すようにそう言うが、立ち上がる気配はなかった。鵜呑みにして俺が去ったとしても、ずっと座っていそうだった。

 「そんなこと言ってる間に援交目的の誰かにまじで連れていかれてしまいますよ」

 「ここコンビニなので、なにかあれば飛び込みます。向かいに交番もありますし」

 「飛び込む暇なんてくれないと思いますけどね。交番も今、人いないみたいだし」

 道路を挟んだ向かいにある交番は、電気はついているものの中に人の姿は見受けられなかった。パトロールに出ているのか裏にいるのかは知らないが、これでは連れ去られそうになったところで助けは期待できない。コンビニだってレジに立っていたのは女性だった。もしものことがあっても通報するのが関の山で、間に入って助けてはくれないだろう。

 しかし、女性は動じていなかった。結構肝が据わっている。

 「平気です。よくここにいますけど、怪しい人に声を掛けられたのは一度しかありませんから」

 「なんだ、一度とはいえあるんじゃないですか。ほら、こんなところに座り込んでるのは危険……」

 まてよ。

 「それってまさか俺ですか?」

 「……」

 女性は答えなかった。否定しない時点で間違いなく俺だ。

 「だから援交目的でもナンパ目的でもなければ、やましい気持ちもないですって。寝つきが悪くて、コンビニに夜食を買いに来ただけの一般市民です」

 「その割には絡みますね」

 「そりゃ深夜に女性が一人で項垂れてたら心配もするでしょう。何か疲れている以外に別の理由があるようにも見えますし。力になれるかはわかりませんが、話くらい聞きますよ」

 女性が顔を傾けてこちらを向く。相変わらずぶすくれてはいたが、最初より目が見開かれているように思えた。

 「……おせっかいですね」

 「否定はしませんが、自己満足でもありますよ。このまま家に帰ってもあなたのことが気になってまた寝られなくなりそうなので」

 女性の視線が動揺したようにさまよう。

 「それ、口説いてるんですか」

 「え?ああいや、深い意味ではなくそのままの意味で」

 「……」

 「どうです。話してみません?」

 女性は考え込むように口を閉ざした。所詮は初対面の人間だから、話してもいいと思ってくれる確率は低かった。ましてや異性で、援交容疑をかけられている奴の申し出である。それでもまずはこちらから敵ではないことを認識させながら歩み寄ることが解決の糸口になる。俺はそう思っていた。

 だめもとで次の言葉を待つ。

 「他人の愚痴なんてつまらないですよ」

 中腰に疲れ屈伸をしていると、女性が唇を尖らせて呟いた。その言葉は彼女が俺に少しだけ歩み寄ってきたことを示していた。また否定されると少なからず思っていた俺は予想外の反応に驚くも、話してくれそうな雰囲気に嬉しくなって笑顔で答える。

 「面白い話を期待してるわけじゃないんでつまらなくても関係ないですよ。あなたの気が少しでも晴れて、家に帰る気力が湧いてくれさえすればいいです」

 「時間、いいんですか」

 「さっきも言いましたけど、ちょうど寝られなかったんです。俺にとっても気晴らしになってちょうどいいですよ」

 明日、いや、今日も仕事があるから悠長なことも言っていられないが、心残りをなくすためなら致し方ない。まあ深刻にならずとも、愚痴が始まれば平気で三、四時間しゃべり続ける俺の上司じゃないんだから、一時間もあれば吐き出しつくすだろう。

 女性は再度考えるように口を閉ざして、数秒後に言った。

 「わかりました。……それであなたが納得するなら」

 あくまで仕方なくといった口調だった。ようやく顔が完全に起き上がり、身体に込められた力が緩んだのがみてわかる。「ありがとう」となぜか俺が礼を言っていた。

 「あ、隣いいですか?」

 話を聞いている間ずっと中腰のままは辛いと思い女性の左隣を指さす。女性は「どうぞ」と短く了承してくれた。

 真横はさすがに図々しいと、30cmほど距離を取って腰を下ろす。昼間のうちに熱せられたせいか、コンクリートと設置している尻が少しだけ熱い。日中だったらとてもじゃないが座れない暑さだっただろう。よく平気な顔をして座っていられるなと感心して女性を見ると、お尻に小さなクッションのようなものを敷いていた。スーツを汚さないためなのか、熱を直に当てないために用意したものなのかはわからないが、ずいぶんと準備がいい。よくここで座っていると言っていたのもあながち間違いではなさそうだった。

 ああ、そういえばと手に持ったままだったシュークリームのことを思い出し再度女性に差し出してみる。

 「食べます?ちょっとぬるくなってるかもしれませんが」

 クーラーの効いた店内から蒸し暑い外に出されたことで、シュークリームの包装も汗をかいていた。それでもそこまで時間は経ってないから食べられないほどではないはずだ。

 「変な薬とか入ってないですよね」

 女性が疑る目でシュークリームを見た。

 「ついさっき買ったばかりですって。なんならレシート見ます?」

 提示する気満々で言うと、女性は膝を抱えていた手をおずおずと伸ばして、シュークリームを受け取ってくれた。

 「……頂きます」

 「どうぞどうぞ」

 安堵する俺をしり目に、女性は袋の外側を入念にチェックしだした。穴が開いていないか包装を軽く押しつぶしながら耳元に近づけて空気の漏れを確かめている。まだ完全に信用はされているわけではないことはわかっていながらも、その行動に少なからずショックを受ける。

 女性は一通り確認し終え安全だとわかると、包装を破りシュークリームを口に運び始めた。一口食べるたびに皮の隅からでろっとクリームがあふれ出し、包装の中に漏れ出していく。クリームたっぷりの名に恥じない商品だった。

 よほどお腹が空いていたのかそのまま無言で半分ほど食べ進めて、ようやく包装の内部にクリームの海が広がっていることに気づくと、うわっ、と言って女性は顔をしかめた。その顔もクリームの脅威にさらされていた。

 「左頬にクリームついてますよ」

 「ええっ」

 コンビニの袋からおしぼりを取り差し出すと、女性は急いでそれを受け取り、頬を拭った。

 「取れました?」

 確認させるように左頬を向けてくる。俺が頷くと、安心したようにシュークリームを再びかじり始めた。クリームがほとんどはみ出しているせいで、はた目には皮を食べているようにしか見えなかった。彼女の表情も心なしか先ほどより物足りなさを感じているように見える。

 最後のひとかけらを食べ終えおしぼりで口元を拭うと、女性は袋の中に残ったクリームを憎々しげに見ながらゴミをひとまとめにして、手を伸ばしてすぐ横のゴミ箱に放った。人前でなければ残ったクリームも平らげていたのだろうなと、俺は思った。

 餌付けもとい、シュークリームの効果はなかなかのものであったらしく、女性の表情からはとげとげしさが薄れ、落ち着きが見られた。女性はふうと一息つき、満足そうにお腹を撫でる。

 「ごちそうさまでした」

 「いえいえ。それで、どうしたんですか?」

 さっそく聞くと、女性は膝に顎をのせて身体をロッキングチェアのように前後ろに揺らし始めた。「そうですね」と、語り始める。

 「今日、上司に叱られたんです。あ、今日も、ですね。しょっちゅう叱られてるので。ただ、今日のはなんか納得がいかないというか、あそこまで怒る必要はないんじゃないかって、もやもやしてたんです」

 聞いてみれば何のことはない上司に対しての不満だった。重度の訳ありや、自分ではどうしようもないような理由ではなかったようで少しほっとする。付き合っている彼氏がどうのと言われても、俺にはどうすることも出来ないからな。

 「なんで怒られたんですか?」

 「私の仕事、デスクワークが主なんですけど、全然終わらなくて休憩時間も返上してやってたんです。そうしたら上司が私のところにやってきて、勝手なことはするなって怒ったんです。何に対して怒っているのかわからなかったから、なにがですかって聞いたら、休憩時間に仕事するな!俺が怒られるだろ!って怒鳴られて……」

 「なるほど」

 「ひどくないですか?別に休憩時間に仕事するくらいいいじゃないですか。会社のためにやってることですし、誰にも迷惑かけてないんですから。ていうか大体、新人に仕事を振りすぎなんですよ。普通にやって終わるわけないじゃないですかあんな量!」

 目がキッと鋭くなり、言葉を発するたびに声が大きくなっていく。人通りがほぼなく、車通りも少なくなった駅前に、彼女の声は何よりも大きく響き渡る。相当鬱憤が溜まっていることがわかった。住宅街のど真ん中ではないし、近所迷惑になるほどの声量でもないため、とりあえずそのまま話を聞くことにする。

 「そもそも上司だって、たまに休憩時間に自分のデスクでパソコン弄ってるんですよ。私に勝手なことするなって言っておいて、自分はしてるって矛盾していると思いません?その場は一応謝りましたけど全然納得できないです。しかも、去り際になんて言ったと思います?」

 「なんだろう」

 「『これだから新卒はいらないって人事にくぎを刺したのに』って。なにそれ!私のこと?そんなこと本人を前にして言います?意味わかんない!」

 「それはひどいね」

 「でしょう!?」

 ヒートアップしていく彼女に同調しながら、俺は苦笑いを浮かべた。いくらなんでも上司にあるまじき物言いだった。人事との意思疎通ができていないことなど、新人には関係がない。そもそもたとえそうだったとしてもそれを本人の前で言うべきではない。それに関しては怒るのも仕方がないし、納得がいかないのもわかった。

 「私だって本当は別の部署がよかったんですよ?でも人事の人に勝手に決められて今の部署に配属されたんです。望んできたわけでもないのにそんなこと言われるなんて心外にもほどがあります。っていうか、そんなに言うんだったら上司から異動するように言ってくれればいいのに。私喜んでどこへでも行くっての。あの人の下でなければどこでもいい。朝十五分前にいないと怒るし、挨拶の声が小さいと怒るし、挨拶しても無視することもあるし、わからないこと聞いても自分で考えろとか言って教えてくれないし、面倒ごと押し付けてくるし、加齢臭臭いし……」

 ぐちぐちぐちぐちと彼女は愚痴る。普段から上司との折り合いは良くないようだ。蛇口から流れ出る水のようにあふれ出してくる言葉は、目に見えたのならきっとどす黒い色をしているのだろうなと思った。

 「よくネットとかテレビとかで理不尽な上司がーってやってますけど、本当だったんですね。学生時代も理不尽なことはなくはなかったけど、こんなにも腑に落ちないのは初めてです」

 「社会なんて理不尽さばっかりだよ。腑に落ちることの方が少ない」

 「ほんとにそう。まだ三カ月しか働いてないのに、ストレスで胃に穴が開きそうです」

 女性は胃の当たりをさすりながら、ふう、と荒々しく息を吐いた。そう言ってるうちは大丈夫だと俺は思いながら、そういえばどのくらいの負荷がかかれば胃に穴が開くのだろうと目だけを頭上に向けて少し考えた。

 女性は「もう思い切って辞めちゃおうかな」と社会人なりたての子が言いがちな言葉をぽつりとつぶやいて、大きく項垂れた。

 「……そういうわけで、釈然としないまま仕事が終わって、ここで悶々としていたんです」

 「ちなみに、いつからいたんですか?」

 女性が腕時計を確認する。

 「一時間くらい前になりますね」

 「相当考え込んでいたんですね……」

  コンビニの店内からは死角になっている関係で店員に不審がられないのはわかるが、その間よく俺以外の通行人に声を掛けられなかったものである。入り組んだ位置にあるコンビニならまだしも、ここは駅前のメインとなる大通りに面しているコンビニだ。一時間もあれば深夜と言えどそれなりの人数が通りかかるし当然視界にも入ったはずである。今だって、死にそうな顔をしたサラリーマンが一人とぼとぼと目の前を歩いていくし、ごみ箱の横で座り込む俺たちを面倒そうに一瞥もした。誰も心配に思わなかったということだろうか。はたまたごみ箱の横で座り込む女性を不気味に思ってスルーしたのか。

 「さっき、よくここにいるって言ってましたけど」

 「怒られてその上帰りが遅くなったりすると、ここに座って考え込んでいるんです。暗い気持ちのまま電気のついていない真っ暗な家に一人で帰るのが嫌なので。ここだとコンビニの店員さんが近くにいるのとお店の近くということで、安心できるんです」

 「はあ」

 暗い家に帰るのが寂しいのは俺も経験があるのでなんとなく理解できた。しかしだからといって店の脇に居座ろうとは思ったことがなく、結果あいまいな返事になってしまう。ああでも子供の頃家に一人きりの時、台風や雷が怖くて近くの店に避難しようとしたことがあったっけ。それと似た感じなのかもしれない。

 「えっと、とりあえず、あなたがここにこうしてる理由はわかりました。確かに、その上司の頭ごなしな態度とあなたを厄介者にするような発言は、良くないと思います」

 「ですよね!」

  女性が勢いよく顔を向けてくる。女性が背後に背負う怒りのオーラが増したような気がした。あまり共感しすぎると、明日からの上司との関係が危ぶまれそうだった。

 「でも、上司の休憩時間に仕事をするなっていうのは間違ってはないですよ」

 「え、何でですか!?」

 即座に女性は口をへの字に曲げ不快感をあらわにした。

 「だって休憩中に仕事をしたら、サービス残業と同じになっちゃうじゃないですか」

 「サービス残業?それって給料が払われない残業のことですよね。私が仕事してたのは休憩時間ですよ。なんの関係があるっていうんですか」

 「休憩中だって給料が発生しないんだから、その時間に働いたらサビ残も同然でしょう」

 当然のことのように俺は言う。

 「えっ!?休憩時間って給料でないんですか?」

 女性が驚いたように目を丸くする。

 「そりゃ会社の決めている働かなくていい時間帯に給料はでないですよ」

 言うと女性は、知りませんでした、と女性が口をぽかんと開けた。普通入社時なり研修なりで説明がありそうなものだが。女性が忘れているのか、説明がなかったのか。彼女から聞いた上司の言動から想像するに、後者でもありえそうなのが怖かった。

 「じゃあ、私は知らずにサービス残業をしていたってことですか?」

 「そうなりますね。勝手にってのもちょっとまずかったかと。そんな姿を役員に見つかりでもしたら、上司は役員からサビ残させてるのかと疑われ責められてしまいますからね。そりゃあ注意もしますよ」

 「でも上司だって休憩中によく仕事してるんですよ?それはいいんですか?」

 聞かれるだろうと思った質問だった。似たようなことを何度か問われたことがあるせいか、耳が痛い。そうだよなあ、そうなっちゃうよなあ、と頭を掻きながら、まるで自分を擁護するかのように言う。

 「ほんとは決められた通りの時間に休憩を取るべきなんですけどね。言い訳になるかもしれないですけど、上の人間になると重要な仕事が突然舞い込んできたリ、会議だとか打ち合わせだとかで、休憩を取りたくても取れない時が出てくるんです。そういう時はいたしかたなく休憩時間中でも仕事をすることは出てきちゃいますよね」

 「だから仕方がないって言うんですか?」

 「いやいや。たとえそうであったとしても休憩を取らなくちゃいけないのは同じですよ。ただ決まった時間に休憩が取れなくても、ちゃんと時間をずらして休憩を取れば問題はないんですよ。その上司も、空いた時間に取れていなかった分の休憩は取っているはずです。もちろん末端の社員がそれを勝手にやるのはだめですけどね。それを許したら無法地帯になっちゃいますから」

 女性の会社の実態がわからないから、俺の勤める会社を参考にして語る。内容自体は基本的なことだから、よほどのブラック企業でなければあてはまるはずだった。

 「……確かに言われてみれば、就業時間中に少しの間いなくなることがあったかも」

 女性が思い出すように顎に手をやる。俺は靴の上を昇ってくるアリをどかしながら言う。

 「であればその上司は一応規則を守っています。咎められるようなことはしていませんよね」

 「う……で、でも私だって仕事が多くて困っていたわけですし」

 「それを上司に訴えましたか?」

 「それは……してませんけど」

 「だったらまずは勝手な行動せず相談しなくちゃ。困っていますって。そうすれば量を減らしてくれてたかもしれないじゃないですか」

 「……まあそうですけど」

 女性はばつの悪い表情を浮かべ、目を逸らす。気を悪くさせただろうか。意識して優しい口調を心掛けていたが、少し説教じみた言い方になってしまったかもしれない。

 一旦口を噤み、しばらく正面を向いて女性の次の言葉を待つことにする。俺が答えたのは上司の擁護ばかりで、彼女からすればたとえそれが正しいことでも気に入らないはずだった。怒るかもしれない。

 待っている間、すぐ真後ろに飾られている雑誌の表紙をガラス越しに眺める、

 パチンコ必勝法と題された雑誌のギラギラした表紙に目がちかちかしだした頃、女性がぼそりと言った。

 「つまり、私がいけなかったんですか」

 顔を戻すと、女性はうつむきがちで真剣な目つきをしていた。

 「私が勝手に休憩時間に仕事をして、私が無知だったから勝手に腹を立てていた。そして、揚げ足を取って勝手に恨んでいた。全部、私の独りよがりだった」

 「間違ってはないですが、そこまで自分を責めるような言い方しなくても」

 「ううむ……」

 悔いるような、納得がいかないような、難しい顔で唸る。どうやら自分に比があったことを少しは理解してくれたらしい。であれば、あとは思いつめないようにケアをしてあげる必要がある。

 「俺から言わせれば、焦ってしまって手段を間違えただけ。休憩の仕組みを知らなかっただけ。上司の発言と行動の違いに疑問を持っただけですよ。深く考え込むほどじゃあない」

 あくまで今回のことは不可抗力であることを強調する。女性が顔を上げて、不安げな顔で俺をみた。

 「さそがにちょっと軽すぎません?」

 「自分のせいだっていちいち重く受け止めていたら、キリがないでしょう。さっきも言いましたが社会は理不尽だらけなんです。一つ一つまともに向き合ってたらあっという間に鬱になりますよ。いろいろ重なって今日はうまくいかなかっただけ。次からは気を付けよう、で終わり。それくらい切り替えを早くした方が今後の自分のためになりますよ」

 「そうですけど……」

 「納得いかない?」

 「んん……それでいいのかなって」

 「まあ、すぐ切り替えることは難しいと思うので、第三者の意見として、そういう考えで済ませてもいいんじゃないの、ってくらいで聞いてもらえればいいですよ」

 悪いことは深く考えれば考えるだけドツボにはまる。考えなくていいところまで巡らせてしまう。そうなれば負の連鎖がいつまでも続いて、嫌なことが立て続けに起こるようになる。無責任に思われても、早めに鎖を断ち切ることが、社会の荒波をおぼれずに渡っていく秘訣である。これは曲がりなりにも7年間社会人をやってきた俺の持論だ。

 しかし、この考えが誰にでも当てはまるわけではない。人それぞれ社会の渡り歩き方は違う。難しく考えない方法が合う人もいれば、合わない人もいる。この女性が今後どちらに向くかはわからないが、一応社会人の先輩として選択肢を増やしてあげることは必要なんだと思う。

 「本当に、深く考えなくていいようなことなんですか?」

 頭を抱えながら、女性は聞いてきた。

 「少なくとも俺は、深く考えたところで何か身になるとは思えませんね。自分自身への悪態しか出てこないでしょう。そんなの時間の無駄です。一発目の失態は、それが『失敗』だということを覚えたってことで、反省はほどほどに抑えればいいんですよ。まあ、あなたが今までに何度も同じことで注意を受けてるなら、話は別ですが」

 「いえ、初めてです」

 「じゃあ、気楽でもいいんじゃないですか」

 俺の言葉を聞いて、女性はうーんと唸って空を仰いだ。への時に曲がった口が葛藤している彼女の心を表している。かえって混乱させてしまっているようにも思えて、片眉を吊り上げて俺も空を仰いだ。雲一つない夜空にちりばめられた星に紛れて発行する飛行機の光を目で追いながら、次なる説得の言葉を探す。

 やがて女性は、うんと小さく頷いて言った。

 「まだ踏ん切りはつきませんが、頑張って切り替えられるようにしてみます」

 頑張るって。何もそんな力入れるようなことじゃないんだけどな。思わず笑ってしまう。

 「真面目なんですね」

 「いえいえ、そんな」

 女性が手を大きく振り、目を見開いて否定する。幾分柔らかくなった表情を見て、ほっと胸を撫でおろす。

 「それにしても、もし上司が怒るだけでなくその場でちゃんと説明もしていれば、あなたがこんなところで悶々とする必要もなかったんですよね。ここにいて仕事のことを悩んでいた時間は、不当なサービス残業として上司に抗議したほうがいいかもしれません」

 気分を変えるために俺が冗談交じりでそう言うと、女性は、「あ、そうかもしれませんね」と小さく笑顔を覗かせた。予想通り仏頂面でいるより何倍も可愛い。その顔を見られただけでも、話を聞いてよかったと思えた。

 女性は溜まった負の感情を吐き出すように深呼吸をすると、すっきりした顔でぺこりと頭を下げた。

 「ありがとうございます。胸のつかえがとれた気がします。あと、エンコーだと疑ってすみませんでした」

 晴れて援交容疑からも解放された。

 「いえ、力になれたのなら嬉しいです。調子に乗って語りすぎちゃったのでウザかったかもしれませんが」

 「全然!何もわかってなかったんだなって、身に染みました。怒られたときからずっと、上司が私を目の敵にしているとばかり考えていましたから」

 「それは仕方がないですよ。上司の言い方があまりにも高圧的ですし、常軌を逸した発言もしていたんですから」

 俺が女性の立場だったとしてもそんな言われ方をすれば悪い方に考えていた。下手をすればその場で口論になっていた可能性もある。彼女は怒りを本人にぶつけないだけ利口だった。

 「あ、ちなみにでかい口叩いておきながら、俺は入社したての頃、休憩のことを知っていながら仕事が間に合わなくて休憩中に無断で作業を続けていたことがあるんですけどね」

 「え、そうなんですか?」

 「ええ。だからあなたの気持ちはすごいわかります」

 その時のことを話して聞かせると、女性は「わかります!わかります!」としきりに頷いて笑ってくれた。あまりにも嬉しそうにするものだから、自分の中で汚点とすら言えるような出来事も、不思議と笑い話のように話すことができた。

 ひとしきり話し終えた後、女性は唐突に質問してきた。

 「あなたも会社の上司的な立ち位置だったりするんですか?」

 「まあ。とは言っても位は一番下ですけどね」

 「すごい!あまり年も違わないように思えますけど、おいくつなんですか?」

 「25です」

 女性が嬉しそうに手を合わせる。

 「わー!私22です。結構歳近いですね。あ、でしたら敬語なんて使わないでください。私のほうが年下なんですから」

 「そう?じゃあ……そうしようかな」

 若く見えるとはいえ初対面で実年齢もわからなかったから敬語で喋っていたが。無事年下だとわかったことだし、女性の言葉に甘えて恥ずかしさを感じながらも敬語を取り払うことにする。

 「それはそれとして、気持ちも晴れたようだしそろそろ家に帰らないと。今日も仕事でしょ?」

 俺はゆっくりと立ち上がりながら言う。軽い立ちくらみで視界が少しの間暗転する。収まってから背伸びをすると、背骨がミシミシと音を立てた。まだ齢を感じる年齢でもないのに、身体の不調が気になる今日この頃だ。

 女性はもっと長い時間座っていたようだから、ちゃんと立てるだろうかと心配になって隣を見ると、女性はまだ膝を抱えて座ったままだった。

 「どうしたの?」

 立てないのなら手を貸すつもりでしゃがみ込むと、女性は期待と不安の入り混じった顔でもじもじとしながら言った。

 「あのー……。もう少し、お話しできませんか?」

 俺は反射的にコンビニの時計を首を伸ばして見る。時刻は2時30分になったところだった。この上さらに話したがるなんて、相当夜に強い子なのだろうか。正直な話仕事のこともあるし目的は達成できたみたいなので早く家に帰って寝たかった。

 「すみません。これも自分勝手ですよね」

 女性は恥ずかしそうに髪をとかしながらそう続けた。しつこく言い寄られるより控えめな態度で来られる方が罪悪感や良心、同情を刺激され断りづらくなるもので、帰るか付き合うかで揺れていた俺の中の天秤も、その一言で付き合うの方へと大きく傾いた。せっかくの女性からのお誘いを無下にするのも無粋だと思ってしまう。この人、まさかわかってやってるのではないだろうな。もしそうだとしたらなかなかの魔性の女っぷりだった。駅前で高価な絵やつぼでも売りながら今のセリフを呟けば、バカな男の2人や3人容易にひっかけることが出来ることだろう。

 そして、ここにもつられるバカな男が一人。

 「じゃあ、少しだけなら」

 「ホントですか!?」

 女性は、薄暗い中でもまぶしく見えるほどの笑顔を見せた。ビー玉のようなきらきらとした瞳が俺を捉えて離さない。つい数分前まで汚物を見るかのような目でふくれっ面をしていた人物とはまるで別人だった。

 やっちまったな、と思いながらも喜んでいるようだしいいかと諦めている辺り、俺はお人好しの部類に入ると思う。こうやって仕事も安請け合いしているから変にストレスを抱えてしまうのだけれど、自分にできることなら手伝いたいし力になりたい性分なのだ。

 まあ、彼女にだって仕事があるのなら、ほどほどで解放されるだろう。俺は着実に短くなっていく睡眠時間から目を背け、改めて女性の隣に腰を下ろした。

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