片思い

五輪宣人

第1話「放っておいてくれ」

 清教高校の生徒会室は、特別棟一階の片隅にあった。教室を半分にしたくらいの広さとかなり小さく、備品室や掃除用具入れと勘違いされることも多々ある。そんな手狭な部屋に、役員三人分の机や書類棚を並べてしまえば、満足に椅子も引けないほど窮屈だ。

 窓を背にした座席に座り、パソコンのキーボードをカタカタ叩いているのが、この部屋の主、吹上真子会長だ。彼女の向かいには、二人の一年生がいる。気弱そうな男子生徒は文庫本を読んでいて、気位が高そうな女子生徒は足を組んで天井を見上げていた。

 ちなみに、気弱そうな男子生徒が、僕である。

 気位が高そうな女子生徒は、本当にその通りで、名前を中本美晴といった。小学生の頃からの幼馴染だ。何の因果かずっと同じ学校に通っている。

 美晴の机には紙の束が積み上がっていた。経費請求書の山である。

 生徒の自主性を重んじる。

 それが清教高校のモットーだった。同じような標語を掲げる高校は多いだろうけど、清教の場合、言葉だけでなく、これを徹底している。

 その一例がこの経費請求書だった。

 各部活各委員会に割り当てられる金額は年度初めに決まっているが、一括で現金が渡されるわけではなかった。備品の購入や大会参加費用など、金が必要になったときに請求書を出し、それが認められてようやく経費が支給される。その事務処理を職員ではなく生徒会役員が行うのである。

 具体的には会計役員の中本美晴だ。僕は横目で彼女の様子を窺った。美晴は天井を見上げたまま、作業を始めようとする気配はない。突然美晴が顔をおろした。あわてて文庫本に視線を戻したけれど、運の悪いことに目が合ってしまった。

「これ、よろしく」

 紙の束が僕の机に移された。訳がわからず、美晴の顔を見つめていると、

「聞こえなかったの? 私の代わりに、この紙の束をチェックしなさい、そう言ったのよ」

 眉間に皺を寄せて、不機嫌であることをアピールしてくる。そばかすが浮いた頬に、切れ長の目をした美晴には、その表情が最もよく似合っていた。

「会計は美晴だろ」

「私は読みたい本があるから」

「僕にだって読みたい本ぐらいある」

 紙の山に埋もれてしまった、文庫本、とか。

「決めたわ。今日はこの本を読むことにする。仕事が終わったら返してあげるわ」

 手から文庫本を奪い取られた。

「横暴すぎ」

「健斗」

 美晴が声を張り上げた。ペットの犬を叱りつけるときと同じ口調だ。「経費の確認、お願いできるわね」

 僕、森島健斗、は条件反射で頷いていた。

 満足そうに鼻を鳴らし、美晴は文庫本を開いた。対する僕は、まだ読み終えていない本が他人にめくられる屈辱を味わいながら、仕方なく経費請求書と格闘することになった。

 美晴と僕の付き合いは小学生時代まで遡ることができる。美晴は小さなときから気が強く、女の子と人形遊びをするよりも、男子に混ざってサッカーボールを追い回す方を好んだ。そんな彼女と家が隣近所だったことが運の尽き。まず互いの母親が仲よくなり、自然と僕と美晴は一緒に遊ぶようになった。母親から始まった家族ぐるみの付き合いだった。

「二人は仲がいいのね」

 顔を上げると、生徒会長の吹上真子先輩のニコニコ顔があった。パソコンのキーボードを打つのを止めて、僕らの会話を聞いていたらしい。垂れ気味の大きな目が愛嬌を感じさせる。前髪は眉毛の上で一直線に切りそろえていた。天使から羽と輪っかをもぎ取れば、吹上先輩のようになるのだろう。

 吹上先輩が言うことには全て頷きたかった。だが、美晴と親しいと思われるのは心外だ。

「ただ一緒にいた時間が長いってだけです」

 美晴も黙っていない。

「私が面倒を見てやってるだけです」

 ムッとして美晴を睨み付けた。が、睨み返され顔を背ける。ここで美晴相手に反論する勇気を僕は持っていなかった。

「手が止まってるわよ」

 主人に歯向かった罰だろうか、ボールペンを持つ僕の右手の甲を美晴がつねりあげる。振り払おうと右手をグルグル回したが、美晴は離さない。ボールペンで美晴の手に落書きしようと試みるが、彼女はそれを巧みにかわす。痛みは脳天を突き刺すようなものに変わっていて、皮膚が今にもちぎれてしまいそうだった。

「なんだっていうんだ」

 涙で霞がかった視界で、美晴が僕の右手――いや、右手ではなく、ボールペンだ――を無表情で注視しているのをとらえた。

 ひょっとして。

 僕は美晴の指先を引き離そうとするのを止めて、痛みに耐えながら、左手で植山楽器店の請求書を四枚引っ張ってきた。ドラムの修理費用にギター購入代金、バチと弦が二本ずつ。

 すると、ようやく美晴が僕の右手を解放した。

 どうやら正解だったらしい。

 親指の付け根あたりに二つの爪痕が深く刻み込まれていて、底が紫色に変色していた。息を吐きかけ、さする。

 サディスティックな笑いを浮かべる美晴を睨みつけた。頭の中でどう文句を言おうか考える。口を開きかけた僕に、美晴がつねる真似をした。途端に、抵抗する気が失せた。またすごすごと彼女の意に従ってしまう自分がいた。

「今日中に済ませちゃいなさいよ」

 頬杖をつきながら、文庫本をめくる美晴に、何も言わず頷く。

 こんなカッコ悪いところ、会長に見られてなければいいんだけど。経費請求書を手繰り寄せるのを隠れみのに、横目で会長の様子を盗み見た。

 ばっちり会長と目が合った。

 スマイルをいただいた。


     ○


 経費を精査した結果を、生徒会顧問の教頭に伝えようと、職員室へ向かった。

「ちょっと、待ちなさいよ」

 廊下を歩いていると、後ろから美晴に呼び止められた。

「なんだよ」

「私もついてってあげるわ」

「小学生じゃないんだから」

「うるさいわね、さっさと行くわよ」

 美晴はズカズカと先へ行ってしまった。諦めて美晴の背中を追おうとしたが、ちょっと待て、と立ち止まった。

「美晴が一人で行けば、解決じゃないか」

「はあ?」

「元はといえば会計担当の美晴の仕事なんだし、そう考えるとむしろ僕が行くのはおかしい」

 鋭い視線にひるみながらも、早口で説明した。理にかなってはいたはずだ。だったのだが。

「話したいことがあるのよ」

 袖を掴まれ連行されるように、職員室まで引きずられるのだった。別館にある生徒会室から渡り廊下を通って本校舎にある職員室に向かう。今日は職員会議があって、試合を間近に控えた部活以外は活動していない。そのせいか今日は校舎がよそよそしいように感じる。夏ははるか後方に遠ざかり、確実に冬が迫る十月。中途半端に開いた窓から流れ込む外気が肌寒かった。

 触れてほしくない急所を美晴が刺してきたのは、渡り廊下の窓を閉めているときだった。

「あんたさあ、会長のことチラチラ盗み見てるでしょ」

「なっなんのことだ」

 あやうくつまずきかけながらも、平静を装った。立ち止まった美晴と向かい合う形になる。

「とぼけたって無駄よ。あなたが会長と一緒にいるときの様子をちょっと見れば、誰にだって分かるわ」

「勘ぐりすぎだ」

「会長のこと好きじゃないって断言できるの」

「あ、ああ、もちろん」

 両手でがっちり頭を押さえつけられた。

「私の目を見て言いなさい」

「…………」

 目が泳いでいるのが自分でも分かった。

「生徒会に入ったのも、吹上会長目当てなんでしょ」

 これも図星だった。なにも反論できない。実のところ、生徒会に入ったのは、吹上先輩が生徒会長に立候補すると分かったからだった。うちの高校では、生徒会に参加する生徒は物好きに限られていて、例年教員が優等生を半ば強引に立候補させていたらしい。もう十年以上も信任投票が続いているという話だった。つまり、吹上先輩が生徒会長になるのは明らかで、僕が書記に当選するのも確実だった。何もかもが僕の望み通りに進行していた。

 中本美晴が会計への立候補を決めるまでは。

 その美晴のしかめっ面が目の前にあった。

「吹上会長のことは諦めなさい」

 いつもの威圧的な口調で命令してくる。普通なら無意識に従ってしまうのだが、今回ばかりは別だった。

「いやだ」

 反射的な言葉だった。自分でも驚くほど強い口調になった。まるでマイクの音量を最大にしたまま、声を吹き込んでしまったときみたいだった。美晴も予想外の反応にショックを受けた顔をしたが、すぐに不機嫌そうな顔に戻った。飼い犬に手をかまれたせいか、少し前よりも眼が鋭い。

「あなたのためを思って言ってるの。あなたと会長とじゃ、釣り合っていないでしょ」

「それは、これから、努力する」

 最後の方は消え入るような声になっていた。改めて言葉にされると突き刺さるものがある。

「努力で埋められる程度の距離じゃない」

「やってみなくちゃ分からない」

「会長がサッカー部員に熱い視線を向けてたって話、聞いた?」

「どうせマユツバだろ。会長は誰に対しても優しいから、そこから誤解が生まれたんだ」

 多分に願望も入っていたが、吹上会長が優しいというのは事実だった。最初の定期試験で赤点をとった一年生が一人だけいて、会長はその女子生徒(男子でないというのは重要だ)の勉強をつきっきりで見ていた。

 そんな姿を見たからこそ、好きになった。

「じゃあ、会長に彼氏がいるかいないか、知ってるの」

 僕は言葉に詰まった。そういえば、その可能性もあると気づかされたのだ。いや、それどころか、むしろあんな美人に彼氏がいない確率は低いのではないか。恋慕の情が積もるうちに会長が神聖なものになっていた。天使に恋愛は似合わない。だから、男がいるとは想定しなかった。

「ウソでしょ?」

 美晴は呆れかえった表情になった。

「もう十月だよ? 生徒会に入ってから二か月分は一緒に過ごしてるじゃない。距離を縮めるどころか、彼氏がいるかいないかすら聞けてないなんて、どんな腑抜けよ」

「ちょっとは頑張ったんだぞ。重い荷物を職員室から持ってくるときには代わりに運んだし、電車で会ったときは開いてる席を譲ったし、髪形を変えたら似合ってますねって褒めたし」

 美晴はこれみよがしにため息をついた。

「要らない心配だったみたい。あなたみたいなチキンには、告白なんてムリだし、傷つくこともできやしないわ。せいぜい会長が高校にいる間は彼氏ができないことを願っているのね」

 美晴は、処置なしとでもいうように、手をヒラヒラと振った。


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