その1 早すぎる開花/女の争い勃発

<大阪 午前七時 青井結>


 少し前に時計が鳴ったのはうっすらと覚えている。でも俺はまだベッドの中で浅く心地よい眠りを楽しんでいた。

 できればこの至福のときがあと少し続いてほしい。しかし、覚醒を促す者がやってくる音を、耳がしっかりと捉えている。


 とたとたと、軽い足音が廊下を鳴らしている。あぁ、来た。

 扉をたたき開ける音に続いて、俺を呼ぶ声がする。


「パパー、おきてー!」


 予想通りの息子の声。声量を落とすということをまったく知らない三歳児の声が降ってくる。朝から元気だ。


「おっきおっきおっき~!」


 ベッドの周りを跳び回る淳。眠気と闘う俺が何も答えないでいると、しまいにはシーツも毛布もめくってきた。


「淳……、あと五分、寝かせてくれないかな?」


 起きなければならないのは判る。けど昨夜も遅かったんだ……。


「ゆうえんちいく! パパおきて!」


 元気な声に苛立ちが混じってきた。あぁ、判ったよ。約束だもんな。

 しかし頭で判っていても体がなかなか起き上がろうという体勢にならない。


「もう、おきないとダメでしょ!」


 照子の口調そっくりだ、と笑うには、強烈なおまけがついてきた。

 えい! という掛け声とともに腹にいい一撃を食らった。子供の力にしては、なんだ、この痛みは?


「……ぐぁ……。じ、じゅん……。いたいよ……」


 やっとのことで苦言をもらしたが、かわいい息子はふんぞり返ってため息をついた。


「おきなさいっていってるのに、パパがわるいこだからだよ」


 そ、それも照子と同じ……。それにしても、子供にこんな荒っぽい起こし方をしているのか? 照子?

 のっそりと身を起こした俺に、淳が笑う。


「はいはい、おきて」


 背中をべしべしと叩かれ、気づいた。不安定だが闘気がこもっている! い、いつの間に極めし者に!


「うぁ、いた、いたた! 判った、判ったよ淳」


 眠気など吹き飛んだ。これ以上叩かれないうちにと、逃げるようにベッドを降りて台所へと向かった。


「おはよう、結」


 照子がいつものように笑顔で挨拶してくる。

 朝食のほかに、弁当箱に昼食の準備がされている。淳がつまみ食いをしようと手を伸ばしては照子に阻まれるという無限ループが始まっていた。


「照子。いつも淳を起こすのに叩いてるのか?」

「え? そんなことしないよ?」

「ならいいけど。おまえの口調そっくりで、叩いてくるからびっくりだ」


 背中を指すと、照子はパジャマをめくって「わぁ、手形ついてる」と驚いている。


「淳、パパ叩いたらだめでしょ」

「はーい」


 かわいい返事だ。思わず笑みが漏れそうになる。


「それにしても、いつの間に淳に闘気の扱い教えたんだ?」

「先月、ちょっと呼吸法教えてみたけど? なに? 闘気使えるようになってるの?」

「……めちゃくちゃ筋がいい」


 ちょっと教えただけで覚えたのか。……淳が小学生になるころには、俺抜かれていたりして、と思って、しゃれにならなさそうなので、それ以上考えないことにした。

 とにかくその力を使って人を叩いたりしないようにもう一度よく言い含めて、食事を始めた。

 さあ、これから大変な一日の始まりだ……。




<ロサンゼルス 午後三時 リカルド・ゴットフリート>


 白衣からスーツに着替え、地下から戻るとクレアはリビングで雑誌を読みながらくつろいでいた。

 私が仕事の合間を縫って秘薬の研究をする間は、本来ならレッシュがこの場を見張っているはずである。だが今日、彼は休暇をとっていたので、クレアに頼んだのだ。


「時間を取らせてしまってすみません、クレア」


 声をかけるとクレアは私に顔を向けて微笑んだ。


「いえ。いつでも申し付けてください」


 ありがたい言葉だ。なのでつい彼女の好意をいいように利用している。


 さて、社に戻らねばならない。クレアを伴って別宅を出る。

 車を運転しながら、また、社長室の椅子に落ち着いてからも考える。さて、今日出来上がったばかりのクスリを誰に試そうか、と。


「社長、お客様です」


 クレアが来客を告げる。珍しく不愉快そうな表情をしている。誰が来たのかと問えば、よく知る情報屋のコードネームを告げられる。


「お通ししてください」


 クレアがドアを開けて客人を招き入れる。

 赤のスーツにパンプス、わざと目立たせているかのようなくっきりとしたルージュ、右手の薬指にはガーネットの指輪。「赤き情報屋」の異名にふさわしいいでたちだ。


「こんにちは、“コールド・ゲイル”。ご機嫌いかが?」


 情報屋“C”が問いかけてくる。彼女は相手を裏社会の異名で呼びたがる。なければ勝手にニックネームをつけてしまうらしい。私に異名がなければいったいどのように呼ばれているのだろうか。


「おかげさまでつつがなく過ごしておりますよ、レディ“C”。あなたからいただいた情報のおかげです」


 レディと呼んでいるが、彼女は三十代後半だ。以前からの付き合いのままに呼び続けているが、さて、このままでいいのかと疑問に思う時もある。

 “C”はにこりと笑う。


「それはよかったわ。それで、報酬のお話だけれども」

 彼女がすっと顔を寄せてくる。

「今夜、お付き合い願えないかしら?」


「報酬は、あなたのご指定どおり、口座に振り込ませましたが。……なにか手違いでも?」

「いいえ。お金はいただいたわ。情報を仕入れるのに思ったよりも手間取ったから、追加報酬を要求しているのよ」


 “C”は私の頬を軽くなでてウィンクをよこしてくる。いつものことだ。

 今夜は時間がある。あまり乗り気ではないがこれからのことを考えれば彼女に応えてもいい。だが、私が言葉を返す前に、そばに控える優秀な秘書が話に割って入ってきた。


「申し訳ございません。社長は今夜は予定がありますので、あなたのご要望にお応えすることができません」


 助け舟か。私は成り行きを見守ることにした。


「あなたには聞いていないわよ? 商談の邪魔をしないでいただけます?」


 “C”は少し機嫌を損ねたらしく、クレアに厳しい視線を注いでいる。


「社長のスケジュールの管理は私に任されています。私を通していただけますか?」


 クレアも負けじと“C”を睨み返している。


「それは、会社にいる間のお話でしょ? プライベートタイムまで管理できるようなお立場ではないのでは?」

「先程、仕事の報酬として、とおっしゃったではありませんか。それなら、いくら社を離れても仕事の範疇です」

「あら、あなたのそのお顔、お仕事でスケジュールの管理というものじゃないわよ? ふふ、ゴットフリート氏の女秘書が社長にお熱というウワサ、本当なのねぇ。じかに見て確信持てちゃったわ。これはいいネタね」


 確かに、“C”の言うように今のクレアの表情は秘書ではなく女としてのものだ。


「……そうよ。悪い?」


 クレアが開き直った。彼女はさらに辛らつな言葉を“C”に投げつける。


「わたしのリカルドに対する思いは確かなものよ。あなたみたいに男なら誰でもいいってふしだらな女に近づいてほしくないわ」

「言ってくれるわね。何が確かなもの、よ。あなただって仕事のためなんでしょう?」

「なにバカなことをおっしゃってるの? 尻軽なうえに頭も軽いのかしら。それでよく情報屋が務まるわね」


 雲行きが怪しくなってきた。


「わたしを尻軽と言うなら彼も同じよ。ねぇ“コールド・ゲイル”? 仕事のためなら愛がなくてもわたしとも寝るんだものね。彼女、何気にあなたも下げちゃってるわ。失礼な方ね」


 いや、君も何気に私を下げているのでは。

 クレアと“C”がにらみ合いをはじめた。これは、厄介なことになったな。


「それに、決めるのは彼だわ」


 “C”が話を振ってきた。これは本格的にまずい。


「そうね。……社長、はっきりとお断りになってください」

「お付き合いしてくださるわよね?」


 二人の視線が、痛い。どちらを選んでも、また、二人とも拒んだところで納得などしてもらえそうにない雰囲気だ。


 仕方がない。

 おもむろに受話器を取り、短縮ダイヤルのボタンを押す。


 ……まさかこんなばかばかしいことで呼び出すことになるとは。ゆるせ、レッシュ。


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