緑は草の色。
@justyab
第1話
明日の朝目が覚めれば、戻りたいあの頃に戻っているんじゃないかと思うほど強く念じても戻れないのが現実である。心臓が硬直するほど僕の心は思い詰めるのに、そんなファンタジーは起こってはくれない。けれど、ただただ疲れ果てて、眠りに落ちて朝を迎えると不思議と今も悪くないじゃないかと思えたり、未来に期待できたりするのだ。夜の持つ力は怖い。
土曜の朝は猫が喧嘩をする声で目が覚める。どういう訳か週に一回、土曜の朝だけ我が家を訪れる猫がいるのだ。そして我が家の猫と喧嘩をする。僕とアコはその週に一回だけ訪れる猫に“シューイチ”というなんとも人間臭く、マロン色の上品な猫には似つかわしくない名前をつけ、餌を分け与えている。ちなみに我が家の猫はカシス。アコがつけた。理由は、日に当たると濃い紫にも見えないこともないカシスの目がアコの好きなホットブラックカラントと同じ色だったから。ホットブラックカラントはドリンクの名前で、ブラックカラントはカシスのことをいうらしい。そんな小洒落たドリンクの名前を僕は聞いたことがなかったし、アコがどこでそれを知ったのかも謎だ。僕たちは同じ地元で育ったし、アコが地元を離れたのは僕と一緒に暮らすのがきっかけだったし、一緒に暮らし始めてからはブラックカラントとやらを一緒に行ったカフェなどで見かけたことはない。そもそも僕らは今の若い子からすればど田舎と言われる場所に住んでいて、そんじょそこらにカフェなんてものはない。まぁでも、実際そんなことはどうでもよくて、僕はカシスという名前が気に入ってるし、カシスとシューイチというアンバランスな響きがなんとなく好きだ。
今朝はアコが縁側で風に乗って入り込んできた枯葉を猫じゃらしの代わりにして、指先でクルクルと回しながらシューイチにかまっている。シューイチは気にも留めない。「無愛想やなぁ」「ほんまに可愛くないなぁ」と、関西弁でシューイチに文句を言うアコだが、僕らの地元は関西から程遠い九州だ。中途半端な関西弁はそのうち怒られるからやめておけと何度か言うけれど、相変わらずしれっと出してくるし、僕も慣れてきてしまった。それに二人でいる時に出るのがほとんどで、第三者がいると滅多に出てこないから、アコが変テコな言葉で話すのはアコが自然体でいられているということなんだろうと思うようにしている。
きっとそうだ。野良猫に話しかける時、自分を偽る人なんていないだろうから。
「ヒビ〜、起きとるんやろ〜。今日もね、シューイチはね、カシスを威嚇したかと思えばご飯だした瞬間大人しくなって、当然のようにご飯だけ平らげて、当然のように帰ったで!賢いなぁ。すっかりこっちがシューイチの思うツボで動かされとるねぇ…。」
縁側から花壇に続く石に当たってスリッパがならすコツコツという音と一緒にアコの声が遠ざかっていく。そろそろ布団から出なくてはと、思いっきり背伸びをして、んーっと喉から畝り声を出し、一気に脱力をして目を閉じたまま数秒停止したあとで布団から起き上がる。
今朝は寒い。冷たい水で顔を洗うのは少し気がひけるが、一度両手ですくい顔に当ててしまえばこっちのもので、むしろ気持ちがいい。
タオルに顔を埋めた時に台所からメロディーが聞こえる。炊飯器が炊き上がりを知らせるメロディー。土曜の7時を知らせるメロディー。洗面所から台所へ行く途中で縁側からアコにおはようと声をかける。アコもおはようと返す。今日はなんだか機嫌が良さそうだ。
炊飯器を開け、蒸気を吸い込んだ後でご飯をほつる。寒くなり始めた朝にご飯の香りがする温かい蒸気は幸せそのものだ。
「いい匂いだった?」
人参とサツマイモ、ネギやらなんやらが入ったザルを流し場において、フゥと息をついた後で僕に訪ねてくる。「うん。」と答えると、「だろうね、幸せそうな顔してたで。」って言うもんだからなんとなく照れ臭い。いつの間にかこんな些細なことを幸せと感じるようになって、それが自然と表情に出せるようになっているのがどことなく嬉しくてそれがなんだか照れ臭い。
「ゲンさんがね、サツマイモくれたんよ。分けたるでーって。ありがとう言い終えた頃にはさっさと歩いて行ってたわ。相変わらず時間に無駄のない行動する人やね。」
ゲンさんは近くに住むは農家さんで、時々野菜やら果物やらを分けてくれる。奥さんの名前はキエコさん。アコ曰く僕とゲンさんは似た者同士で、自分とキエコさんは全然違うらしく、「キエさんはすごい」と言う。なにがすごいのかと聞いてもそれ以上は言わないが、尊敬しているらしいのはよく見て伝わる。
「だから機嫌いいの?」
「いつも通りのつもりだけど…でもそう見えるならそうかもね。」
その後野菜を洗った後で鼻歌のリズムに合わせて包丁で野菜を切るあたりをみると、やはり今日は気分が良いようだ。
アコがカシスと遊ぶ僕にご飯をよそうように言う頃には、台所へ向かうと良い匂いがしてくる。先週末の朝市で買った新しい食器の上には鮭の西京焼きに出汁巻卵、いんげんの胡麻和え、煮物が盛り付けられていて、小鉢には僕の好きな納豆もスタンバイ。テーブルの真ん中にはこれまた僕の好きなキウイフルーツ。そしてついでにヨーグルト。自分のぶんは少し多めにご飯をよそって、アコのぶんはいつも通り。テーブルに運び椅子に座り、お盆に味噌汁をのせてこぼれないようにとゆっくり運ぶアコを待つ。湯気が立つご飯、おかず、味噌汁が並び、アコと向かい合わせで手を合わせ、目を合わせ、声を合わせ、いただきます。
「サツマイモ、味噌汁に入れたんだ。」
「残りは甘露煮にしようかなって思って少ししか入れてないけどね。」
「ナイスだよ。」
「ナイスだね。」
僕は二人で囲む食卓がすごく好きだ。アコが作る優しいご飯が大好きだ。
食事は僕も作る。その日作るのが苦じゃない方が作るというざっくりとしたルールだが今のところなんだかんだそのルールで回っている。二人とも作りたくないときは唯一ここまで配達してくれるピザ屋のデリバリーを潔く頼んだり、もう出来上がってるのを買ったりする。近くの商店街にある肉屋のコロッケが甘くて美味しくて二人とも好きなのだが、最近は店主のクニさん夫婦が、僕らが行くたびにサービスしてくれるようになって前ほど簡単に行けなくなった。仲良くなれたのを素直に喜ぶべきなんだろうが、サービス目的で行ってるような感じになるのが少し嫌なのだ。気が引ける。ちなみに旦那さんの名前はクニヒコで奥さんはクニエさん。だから二人合わせてクニさん夫婦。
「今日、診療所午前だけやんな。」
「土曜だもんね。」
「土曜やもんな。」
えらく午前を強調した言い方をする。
女性というものはなぜ本音を含んだような言い方をするんだろうか。変なところで素直で変なところで素直じゃない。
「仕事から帰ってきたらそのままどこか散歩でも行こ」
こういう時は質問系にするとまた籠らせてしまう。アコは考えすぎる。自分がしたいと思ってることを僕がしたくないと思ってたらどうしようとか、僕が疲れてるんじゃないか、とか。僕はアコがそれで一人で疲れて、塞ごうとする度に大丈夫だと言うのだがもうこれは一種の癖でなかなか治らないし、別に僕もそんなに困ってはいない。
それはまぁ確かに疲れを感じることもあるけど、それは他人と他人が一緒にいようと決めた時に付いてくる定めだと思っている。
「映画でも良いよ。」
「家?映画館?。」
「なんか良さそうなの今あってるの?。」
「ひと世代昔の洋画をね、今日と明日の夜限定でするんだってさ。」
「夜なら行く前に散歩もできるね。」
「うん。」
聞くところによると1980年代の映画らしい。しかもなかなか有名なやつだ。レンタルすれば簡単に見れるけどシアターで観れるという機会はなかなか貴重だ。とはいえ、日曜日上映されるほうは最近二人で見たばっかりだったから今日のほうだけ見に行くことにした。
僕の診療所は家から車で15分程。家からの景色じゃ周りには山しかないような場所だが、トンネルを抜けると海辺の街が広がってる。山沿いにある家々と、坂を下った先にある海。坂の途中にある路地で毎週土曜日の朝と日曜日の朝から昼にかけてに行われる朝市はなかなか雰囲気があってちょっとした観光地になっている。ちなみにキエさんは、ゲンさんが自家農園で育てた野菜とハーブで“マチダ農家の週替わりスープ”を作って販売していて、クニさん夫婦はもちろんコロッケ。実際のところ、コロッケの他にもメンチカツやハムカツやアレンジコロッケもあるけれど、僕はやっぱり普通のコロッケが一番好きだ。
「そろそろ行かなきゃね。」
先に車のエンジンをかけ、鍵を閉めているアコが乗るのを待つ。
僕らがここへ来る前に町の活性化のために始めたのがこの朝市らしいのだが、なんとアイディアの考案者はゲンさんとキエさんらしい。かなりナイスだと思う。最初に比べると出店数も増えたそうだ。確かに農家や商店街の人たちだけの出店だけでなく、ここ数年で服やら雑貨を売る店も出てきた。もう、フリーマケットと呼ぶべきだろうか。
そんなことを考えながら、朝市の準備をしているところに車を停めアコを下ろす。
「ほなまたあとで!」
「またあとで。楽しんでー。」
「ほい!」
そしてアコは今年から毎週末キエさんの手伝いを始めた。朝市で働きたいというアコを、キエさんが“自分ももう歳だから”と言ってありがたいことに雇ってくれた。キエさんは今年で68歳。全然歳ではない。
アコは平日、老人ホームの管理栄養士として働いている。今年から週末は融通が利くようになったそうで、出てこいと言われるとき以外はキエさんの手伝いをしている。本当に楽しいようで、好きなことで時間が充実しているのが幸せなんだとよく言う。きっと今日も出来事を話してくれるに違いない。
診療所に向かう間、僕は今日もアコが生き生きとした表情で僕の迎えを待っていると良いなとつくづく思う。
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