魔法使いのカンタービレ

魚沼

雨の日ジムノペディ

 それまで雨は苦手だった。


 新たに引っ越してきた、海の見えるこんな片田舎でもそれは変わらないだろうと信じていた。江津こうづ市。日本海に面したとある町。港町に暮らすのはこれで二度目だ。太平洋側とは全然違う。とりわけ雨の日の湿気の酷さと言えば、こと髪質的な問題からいっても僕とはかなり相性が悪かった。まだゴールデンウィーク明けだというのに、小雨の連続が鬱陶しい。


 スリップが怖くてこいでいく度胸もないので、その日も僕は手で自転車を押したままとぼとぼと帰ることにした。この町の降水確率はアテにならないと分かってはいたが、遅刻して目立ちたくないという気持ちがそうはさせてくれなかった。自分を雨粒から守ってくれていた商店街のアーケードに別れを告げて、ここからはあまざらしの中を自宅まで自転車を押して帰らなければならない。


 大きなため息をついた後、意を決してアーケードを出ようとする。しかしそれを狙ったかのように雨量を増す灰色の空。思わず情けない声をあげてしまい、なくなく踵を返して避難する。カバンからタオルを取り出して(この町では必須だとこの一か月で学んだ)この水量にも劣らず天を衝くクセ毛をゴシゴシとぬぐった。


 本当に嫌な天気だ。今からでも両親と一緒に再び暮らすだろうかと何度か思いかけたことがある。この町に残りたいなんて、我ながらわざわざ苦難の多い決断をした。近衛家は共働きで、父親は転勤族。既に海外を含めて何度も引っ越しを繰り返してきた。その引っ越し先々で様々なものを見てきたが、江津はその中でもワーストに入るほどの不快指数を誇るに違いない。


 くじけていたと思う、あの「虹」に出会わなければ。高校進学の折に、わざわざ両親にわがままを言うだけの強い願望がこの町にあったことに、彼らもとても驚いたことだろう。


 そういえばあの人に出会ったのもこういう雨の匂いたつ日で、僕はこんなふうに伸び放題の髪の毛を押さえつつ、恥ずかしそうにしていた。僕があの虹に出会ったのはまだ4月のころの出来事で、今思い返しても羞恥と熱情で体が熱くなる。


 それでも、先月より雨は苦手でなくなった。




***




 僕、近衛廉太郎は、良くも悪くも実年齢より大人びていて、いわゆる同年代の子たちで流行るようなものに対しても一切の関心がない。そうした彼らのことをどこか冷めた目で見ていた。常に仲がいいのは自分より上級生か、自分を先輩と慕ってくれる下級生に多く、同学年の友人は多いとは言えない。おまけに家庭の事情もあって固定メンツというか、イツメンというか、そういうものを持たずにここまで来た。それでもこの江津市の滞在期間は長い方で、中学3年生から現在まで父から告げられる転勤宣告におびえつつも暮らしていた。


 先ほども言ったが良くも悪くも実年齢より大人だった。感情的になることはあまりない。とりたてて己の中に信念があるわけでもなく、何事もほどほどに済ませてしまうことが多かった。そのために負けず嫌いになることもなく、不正を怒ることもなく、誰かと対立することもなく、また他の誰にとっても自分が特別になれることもない。来るものは拒まないが、去るものも追わず、一定のラインまで仲良くなるが、どこかでやはり線引きして、それ以上友人を近づけることも無い。孤独は悪いものではないとさえ思っていたし、正直なところをいえばずかずかと歩み寄る人間より、一定の距離感を保ってくれる存在の方が僕にとってありがたかった。


 中学生から始めた趣味のピアノも、そうした同年代とのかかわりという煩わしさから逃れるための手段だった。ピアノを練習している間は誰も自分に近づかない。思いっきり鍵盤を鋭く睨みつけ、大げさな手つきでラフマニノフをかき鳴らす姿はなかなか迫力があるようで、一部を除いてこれが人払いのような役割を持っていた。


 良くないとは思っている。こんな風に冷めた自己評価をしているが、何とも思っていないわけではない。とはいえ、「まあ、人生いろいろ、だよね」なんてどこかのドキュメント番組で使われそうな言葉を心の中でぼやいて、結局今の今までこの冷静さが改善されたことはなかった。与えられたものに対して多少の感想は持っても、自分から求めることもない。僕にはひどく欲というものが足りなかったのだ。


 そんな僕が――バカみたいな話だが――ある日突然カフェの店員に一目惚れをした。




***




 商店街からは少し離れた海沿いの国道にポツンと建ったテラス付きのカフェ。看板には「カンタービレ」とある、ログハウス風の落ち着いた色調のお店だった。商店街を抜けると、学校から駅まで雨宿りできる屋根がない。唯一の休憩所がここの軒下だった。高校の入学式を終えてしばらくしたころの出来事だった。その日も僕は20パーセントの降水確率に裏切られて雨に降られ、水浸しの頭で帰路についていた。これは堪らんと逃げるように下を向いたまま自転車を走らせた。雨粒で前を見るのも一苦労だ。前方の視界を確認してしばらくの安全を確保した後、顔を下ろして汚い水面を切るタイヤ痕を憎らし気に睨む。


 もうすぐだ。夢中で軒下に来ると、僕はそのままドアのベルを勢いよく鳴らす勢いで、駆け込むように入店してしまった。


「あ……えっと、その……」


 恥ずかしい。大きく揺れるドアベルの音で我に返ると、それまで自転車をこいでた熱が一気に冷え、それから再び沸騰し始めた。まるで飼い主を見つけて駆け寄るイヌのようだ。店内にも何人かお客さんがいて、そのすべての視線が僕の反体制的な髪の毛と、高校生にしてはやや大柄なこの目立つ立ち姿に集められていた。彼女にフラれたのかななどとひそひそからかう声も聞こえる。生憎僕にそんな浮かれた話はない。でも、とても恥ずかしい。


 うつむいたまま、何をどう説明すればいいか悩んでいると、黒いエプロンの女性店員が歩み寄ってくるのが視界の端に見えた。何か受けごたえしなきゃと、頭をフルスピードで動かし、意を決して顔を上げるたところに入ってきたのは真っ白な布だった。


「大丈夫? 君、すごく濡れているけど…」

「あ、はい…」


 頭にかぶせられる真っ白なタオル。布越しに伝わる柔らかい手の感触。頭から肩にかけてタオルで水分を拭き取られていく。しばらくしてからそのことに気が付いて、顔の表面温度はさらに熱くなった。僕は今、この女性にタオルでごしごしと濡れた体をぬぐわれている。


 まずい、変な客だと思われた。今の真っ赤な顔を誰にも見られたくない。そう願うのもむなしく、白いタオルと柔らかな両手が取り上げられていった。そこで僕は初めて店員の顔をしっかりと見た。


 太陽のように大きくて丸い、茶色の目が二つ。こちらを照らしていた。みられているだけで体が熱くなり、もはや雨で濡れたことなど忘れるかのような熱量が僕に降り注いでいた。急な出来事の連続ですっかり思考回路が働かなくなっていた僕は、しばらく微動だにすることもできずカフェの出入り口で立ちすくつくすことしかできなかった。何も出力することができないくせに、この体はただ二つの陽の目からそそがれる光と熱、優しい声、体を包み込むくすぐったい羽毛のような感触を何度も反復することしかできなかった。


「落ち着いた?」

「は、はい」

「災難だったわね。この町は一年中雨が多いから、タオルか、折り畳み傘は必須よ。今度から気を付けてね」

「はい、すみません……」


 お店の裏に連れていかれた僕は、お店の裏の休憩スペースに座らされていた。周囲を見返す。これがまたとても落ち着く雰囲気のカフェだ。全体的に茶色で、シックで、大正時代のモダン・クラシックを思わせるイメージを醸し出している。タイムスリップをした気分だ。窓際の客席で子連れの母親たちが談笑していて、子どもたちはそれをつまらなさそうに見ている。さらに目を他にやると、このカフェにはいささか狭いんじゃないかというくらいのグランドピアノが一台。


 周囲を眺めている間に余裕を取り戻したのか、だんだんと意識が戻って来た。簡単な仕切りで分けられた関係者スペース、そのデスクにタオルを被ったまま僕はぽつんと座っていた。


 目の前にティーカップに入った紅茶が置かれる。ここはカフェじゃなかったのかと興味津々にティーカップを眺めていると、心を読まれたかのように彼女は付け加えた。


「ああ、ホラ。コーヒー苦手な子もいるからね。紅茶も出せるのよウチは」

「なるほど……」

「コーヒーが良かった?」

「ああ、いえ、お構いなく」


 両手でティーカップを包むと温かい。こんな状態でなかったらいたく充足感に包まれていただろうに。さきほどの失態が頭に残っていて、どうしても素直に顔をほころばせることができない。


「あ、あの……お仕事は大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。バイトの子がやってくれてるわ」

「そうですか……」

「いいのよ、そんなに畏まらなくて。よく雨宿りに来る人も多いの。君みたいにずぶ濡れで来る人も時々いるものよ」


 あ、これは余計だったわね、ごめんごめんと、あまり悪びれているように見えない謝罪の後、彼女は窓に目を見やりつつぼやいた。


「そのうち止むと思うわ。しばらくここで休憩してていいから。タオルがもっと必要だったら言ってね」

「あ、はい」


 店員は再びお店に戻っていく。言われるがままに返答してしまったものの、さっきから店員の顔を直視できずにいる。太陽のような人だ。とても輝いているので、直接目で見るのはなんだか眩しい。なるほど、お店の雰囲気といい、それなりに繁盛していそうなカフェだ。この町の観光ガイドブックが出版されるなら、オススメのお店コーナーの端にちゃっかり載っているような、そんな立ち位置のお店なのだろう。もっとも江津にそんな観光名所は存在しないが――強いて言うなら、海。


 パイプ椅子に座ったまま背筋を伸ばして、僕はそっと窓の外を見てみた。土砂降りが続いているものの、波はそれほど荒れていない。全体的に灰色がかった空が続いているが、沖合の方まで見ると、雲の切れ間から光が覗いているのが見える。確かヤコブの梯子だとか、レンブラント光線なんて言われる自然現象だ。どうやら彼女の言う通り、じきに天気は回復するらしい。


 それにしても、とスタッフルームで再びため息を吐く。今はお店に迷惑をかけたのではないかという不安と、あの優しい手の感触で自分の感情が混濁しているような、不思議な気分でいる。やましい奴だと思われただろうか。周囲の人間にどんな風に見られているのか、僕はとても気にしてしまう。とにかく気分を紛らわそうと、外の景色を眺めてみたり、ティーカップを手に取ってみたりせわしなく動いているうちに、再び女性店員が戻って来た。


 大きな目をしている。太陽のような明るさがある。上品に黒くて長い髪の毛で両脇に分けられた髪の毛の奥の額から頬に至るまで綺麗な肌をしている。そして、今になって気づいたが女性にしてはかなり背が高い。とてもスラッとした体格をしている。自分も背が高い方なのでそれまで特別違和感を感じなかったが、180センチは超えている。


 女性は「お客さん、みんな帰っていったから」と付け加えると、自分もティーカップを手にしてバックヤードに座る。


「どうしたの? キョロキョロしちゃって。そういえば君、背が高いんだね。運動部とか?」

「いえ、部活は……いいお店ですね」

「お、君にもわかるかね。落ち着くでしょう? カフェってのはこうでなくちゃね」

「僕もそう思います」

「よかったら、今度はお友達と一緒においで」

「……はい」


 お友達と一緒においで、か。彼女はきっと良かれと思ってそういったのだろう。残念なことに、悔しいことに、僕にとってはかなりズンと来る、重たい言葉だ。


「雨の日ってテンション下がるわよね」

「そうですね……僕はこんな髪の毛だし」

「ふふふ、そうよね……ああ、ごめんね。からかってるわけじゃないのよ!」

「いえ、わかっていますよ」

「……」

「……」


 スタッフルームに響く雨音、続かない会話、沈黙の続くこと10秒。きまりの悪さにおもわずため息一回。逃げるように視線を窓に向ける。


「雨は嫌い?」

「まあ、晴れの日の方が好きですね」

「こんな目に合うしね。無理もないか」

「……」


 困ったような表情をして、彼女は僕の顔を覗き込んでいた。目を合わせないように下を向いていると、何かを思いついたかのように突然椅子から立ち上がった。


「よし、ちょっとついてきて」

「え?」

「ついてきてって言ったの。いいもの見せてあげるわ」


 いいものって何だろう。わずかな期待を抱きつつパイプ椅子から立ち上がると、僕は彼女のあとをついていくことにした。バックヤードを出て再び店内のカフェスペースへ。お店にしては少しばかり窮屈そうにしているグランドピアノの前までやってくる。


 大きく上質で、滑らかなライン。楽器の王、ピアノ。僕も何年も見て来た姿だ。昔の人はピアノの脚にエロスを感じてしまい、靴下を履かせたなんて逸話もあるそうだ。改めてピアノを見返してみる。ボディの側面に金色に輝く「ベーゼンドルファー」の綴り。思わず目を見開く――どうしてこんなところに。


「……さあて」


 慣れた手つきで彼女がベーゼンドルファーの蓋をあける。気品のあるダークグリーンのカーペットをめくると、下品な光沢のない、素朴ささえ感じる真っ白な鍵盤が視界に移りこむ。たおやかな指で和音や音階をいくらか奏でたかと思うと、彼女は「よしっ」と小さく調律を確認してTシャツの袖をまくりながら椅子に座った。高級グランドピアノと、ジーンズにエプロン姿はいささか滑稽にも思えたが、彼女がピアノの前でしばらく何かを考え、深呼吸をしたところで急に笑いが止んでしまった。


 彼女の目つきが変わったような気がした。そして、細長い指が舐めるように最初の鍵盤に触れると、音は空間の隅々まで行き届いた。カフェの広さに対して、フルコンの音量は大きすぎるだろうに、彼女は水黽のように静かに、大波をたてることもなく自由に鍵盤を泳いだ。


 簡素なコードに、四分音符のメロディが三拍子を贅沢に使いながら延々と続く。彼女が弾いているのはジムノペディの第一番だとすぐに分かった。いかにも日本人の好きなクラシック音楽の代名詞である。どこかで聞いたことのある、そういう音楽だ。僕もピアノを習い始めてすぐの頃、練習していた記憶がある。こういう音楽はとても静かで、主張が少なくて、いわゆるそういった需要のある場所でしばしば用いられる音楽の類だ。メインにはなり得ない、そういう曲だと認識していた。


 聞き飽きたような、そんな曲だと感じていたのに。僕はいつまでもその音が響いていくのを耳で逃さないようにしていた。水の波紋を目で追い続ける。好奇心にあふれた子どものような顔をして、水面を自由に泳ぐその指に魅入られた。一フレーズ、一音が愛おしくなる。カフェを包む雨音と凛と響くピアノの音色に取り合わせの妙を感じてしまう。風流とはこういうものを言うのだろうか。


 時間の感覚が分からなくなる。叩いている鍵盤の数など僕が得意とするラフマニノフの半分以下だろう。それでも、それ以上に僕は繰り返される音の波紋に酔っていると自覚できた。なんだか癖になりそうだ。終わってほしくない。いつまでもこのコラボレーションを聞いていたいと願っていた。


 しばらく音楽が止んだことに気付かなかった。何度か声をかけられて急に意識が現実に戻ってくる。視界一杯に移ったのぞき込む彼女の顔に思わず情けない声を上げてしまう。


「うわぁ!?」

「うわっ!?」

「……?」

「大丈夫? もしかして熱出て来た?」


 違うんです。そうじゃないんだけど。


「あ、あの……ええと」

「ごめんね。雨も止んできそうだし、そろそろ家に帰ってゆっくり休んだ方が……」

「……!!」


 震える手で膝をつねりながら言うだけのことを言ってみる。


「ジムノペディ……最高でした!」

「……そう、ありがとう! 弾いてみたかいがあったわ」


 もう少し気の利いたこと言えたらどれだけ言いか。続きの言葉を探している間に今度は彼女の方から


「雨の日も、まあ悪くないでしょ?」


 と一言尋ねられ、僕は無性に首を縦に振るしかなかった。


「雨上がりまで聞いていってよ。レパートリには自信あるからさ」


 そうして彼女は笑顔でピースした。太陽の様な目が再び降り注ぎ、思わず目を合わせられないながらも、掠れたような声で情けなく「ありがとうございます」と僕はつぶやいた。




***




 雨が上がり、ようやくカフェを出て自宅への帰路につくことができた。雲からようやく顔をのぞかせた夕陽は、すでに海の方に沈みかけていて西日がきつく照り付ける。眩しくはあったが、体は温かくなる。


 不思議な気分だった。あの出来事は実は夢の世界で、自分の世界をまるで塗り替えられたような感じがして、雨上がりの景色が全く別の世界のように僕には感じてしまった。頭の中によみがえるジムノペディのフレーズが僕の世界を絶えず鮮やかに色づけしてやめない。その瞬間にとらわれたまま、僕はぼうっとそのまま自転車を押して歩くことにした。


 そして家に帰ってから、ようやくあの女性店員の名前を聞きそびれたことを僕は後悔しはじめ、またそれからカフェに置いてあったフルコンサイズのベーゼンドルファーの意味についても疑問を抱かずにはいられなかった。

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