第21話 取り戻した、新しいもの

 ルテルは震えていた。やがてジェンドの肩から飛び立つと、緋色の靄を零れさせながら上昇する。靄に絡め取られたスピアースの身体が浮き上がった。

『……あなたの意志、承りました』

「また会おう」

『お気を付けて』

 踵を返し、ルテルは脱出した。

 バンデスが掌に顔を現す。呆れているようだった。

『まさかとは思うが、お前、あの黒ごと封印を取り込むつもりか』

「もともとあいつは俺自身だ。あいつの力を使うことに何の不都合もないだろ」

『黒の蓄えた力と人間たちの紋章術、そして儂の力をすべて使うというわけか。やれやれ。間違いなくお前はぞ。そうならないように配慮したのに』

「封印を溶かすのが俺の仕事。そして町を元に戻すのがあんたの仕事だ」

『そうだったな。それにしても――』

 バンデスはルテルが消えていった方を見た。

『お気を付けて、か。あの娘、ジェンドが帰ってくると信じて疑っておらぬ。結果がどうなるかよく理解しているだろうに。我が娘も変わったな』

「ああ。よかった」

『ふふ。では、もうひとりの無鉄砲な子との約束を果たすとしよう』

 黒ジェンドに向き直る。

 黒ジェンドは自らの胸元を押さえて、身もだえていた。破壊したい、戦いたい――強烈な衝動の矛先が見つからず、苦しんでいるのだとわかった。

「目が見えないんだな。待ってろ」

 ジェンドはゆっくりと歩を進めた。細かく痙攣する漆黒の身体を優しく抱きしめる。直後、黒ジェンドが液体と変わりジェンドを包み込む。視界が漆黒に染まり、輪郭だけの町も見えなくなる。五感が急速に喪われていく。肉体が崩れていく。

 思考と精神だけとなって、初めて黒ジェンドの感情の姿に触れた。周囲すべてを濁流に囲まれた孤島、その上で叫びを上げている子どもだ。どこからともなく現れたラヴァが、濁流に呑まれて次々と消えていく。ラヴァは子ども黒ジェンドにとって敵だった。濁流は彼の武器であり戦う手段であった。ところが、濁流は彼の行く手を遮り、進むべき道を閉ざしてしまっていた。子どもは、ただただ濁流を振りかざす。

 ジェンドは子どもの隣に降り立った。癇癪を起こしている彼を宥め、濁流をよく見るよう促す。すると飛沫は収まり、穏やかな河となり、湖となる。ラヴァは湖の上に佇んだまま動かない。

 いつの間にか、孤島にはジェンド一人だけが立っていた。

 ラヴァが見つめる中、ジェンドは歩き出す。凪いだ湖に足が浸かり、胸が浸かり、頭の先まで浸かって、なおも先へと歩き出す。湖の底で立ち止まり、見上げた。水面で揺れる灯りが滲んでいく。思考と精神が溶けていく。

 ジェンドは実感した。これが、魂になるということだと。流動する存在として、紋章術ラヴァンの根源となることだと。ラヴァは、実は人ととても近い存在だったのだと。

 魂を行使する者が紋章術師ラヴァンスだとしたら、俺は今、何と名乗ればよいのだろう。

 ――そこで、ジェンドの意識は途切れた。



 湖の上空からバンデスが見下ろしている。

『大地に結晶が生まれるように、我々に押し固められた魂は美しい鉱石へと変わる』

 エナトス神の手には黒柱石があった。湖から白く煌めく水蒸気が湧き上がり、黒柱石にまとわりつく。心臓のように一度脈動し、黒柱石は形を崩して、膨張していく。バンデスがそっと手放すと、空の彼方に飛翔していった。

 今このとき、現実の世界では一条の光がネペイア・アトミスを貫き、直下の大地に新たな町を生み出していることだろう。封印されたエナトスのすべてが、復活したのだ。

『見事だ。ジェンド。お前の魂は封印を溶かしたのだ』

 バンデスは湖があった場所を見た。水は干上がり、ごつごつした岩肌が露出していた。ただ一カ所だけ、ほんの小さな水溜まりが残っていた。バンデスは水溜まりのほとりに降り立った。

『お前との約束は、エナトスのすべてを元に戻す、ということだった』

 バンデスは左手をかざした。白く輝いていた神の身体は、半透明に薄れていた。

『そこには当然、お前自身も含まれているのだぞ。まったく。我が子の無茶を聞いたせいで余計な力を使うことになってしまったわ』

 力ない笑い声。それは相手を愛おしく思っているようにも、自らの行いを恥じているようにも見えた。ネペイアの言う通りになってしまったな、とバンデスはつぶやいた。

『お前の魂を結晶化しよう。儂の代わりに新生エナトスを見守ってくれ。これよりお前はラヴァとして魂を導く者――ラヴァ・ラだ』



 ――誰かが自分を呼ぶ声がする。頬を叩かれる感触がする。

「おい。ジェンド。しっかりしろ。おい、起きるんだ」

 薄目を開ける。自分を覗き込む日に焼けた顔が、陽光に照らされてはっきりと見えた。

「……アーダ」

「おお! 気がついたか。よかった。すごい冷たくなっていたから一時はどうなることかと思ったぜ」

「アーダ」

 ジェンドは左手を伸ばし、彼の頬に触れた。そして瞠目した。

「どうした、ジェンド」

「生きて、いるんだな」

「ああ。この通りぴんぴんとしている。あのときは間違いなく死んだと思ったがな」

「他の皆は。エナトスの町は」

「落ち着け。大丈夫、無事だ。皆も、町も、全部な。神の奇跡だよ。ま、話だけでは信じられないだろうから、お前自身がその目で確かめてこい。きっとびっくりするぞ」

 アーダがにかっと笑う。それはジェンドが子どもの頃から慣れ親しんだ、鉱山の男の笑みであった。

 立ち上がる。動揺をアーダに見せないようにしながら、ジェンドは辺りを見回した。そこは町の共同墓地であった。ジェンドは、幼馴染みの墓の傍らで意識を失っていたという。アーダたちが目を覚ましてから、およそ半日が経過していた。

 墓の前にはジェンドが供えた野草の花が、瑞々しいままそこにあった。

 高台にある墓地の縁に立った。眼下に広がる光景を目にした途端、胸の奥から溢れるものがった。家々がある。轍の刻まれた土道がある。蛇行した川がある。鉱山の入口がある。それらすべてに人々の姿がある。

 かつてジェンドの知る世界の全てであったエナトスの町が、目の前に、間違いなく、蘇っていた。

 ジェンドはこの光景が好きだった。今はもっと好きで、たまらなく好きで、愛おしい。

 地面の感触も、陽光の心地よさも、風も、水も、行き交う男も女も、子どもも老人も、皆愛おしい。

「よかった。本当に、よかった……!」

 それに比べれば、など、物の数ではない。

 アーダに肩を叩かれる。「後ろを見てみな」と言われ、振り返った。

 墓地に隣接する山を遙かに凌駕する高さに、巨大な空中大地と四つの塔があった。

「ネペイア……アトミス」

「何だ。お前知ってるのか。最初は町の近くにあんなものができてて、皆驚いたもんだ。もしかしたら俺たちは知らないうちに神の世界に来たのかもしれないってな。ま、害はないようだから心配すんな。お前を見つける少し前、あそこに住んでる連中が会いに来たんだ。名前を何と言ったか。確か、グリオガとかディナとか。どっちが名前なんだと思ったぜ」

 アーダは笑った。ジェンドは目を細めた。

 そうか。無事に人に戻ることができたんだな。

「よかった」

 しばらく二人は並んで浮遊大陸を見つめていた。

「さて。それじゃあそろそろ戻るか。お前が無事だったことを他の連中にも報せないと」

「……ごめん。もうしばらくここにいていいか。まだ、きちんと報告できてないんだ」

 墓石を振り返る。アーダは察してくれた。「病み上がりなんだから無理はするなよ」と言い、アーダは去って行った。

 ジェンドは墓の前にひざまずいた。頭の中でたくさんの言葉が飛び交った。その中で一言、自然に口を突いて出た。

「ただいま」

 目元を指先で拭う。滑らかな肌の感触だった。

 翼の音が聞こえてきた。二騎の翼竜が墓地の側に降り立つ。一騎は着地前からしきりに鳴いていた。ピオテースだった。

「ジェンド」

 ピオテースから飛び降りた赤髪の女性が、ジェンドの元へ走ってくる。そのまま抱きついた。ジェンドは微笑んだ。

「キクノ。無事でよかった。それと、ありがとう」

「私の言葉を取らないで」

 腕に力を込め、キクノは言った。

 もう一騎の翼竜に乗っていたのはエザフォスだった。

「探したぞ」

 筆頭騎士は疲れた顔をほころばせた。ジェンドは彼にも礼を言った。

「ネペイア・アトミスの皆は、無事だったのか」

「正直、被害は大きい。だが怪我の功名はあった。上級から下級まで、湧士たちの意識は大きく変わったよ。騎士も湧士も民も一緒になって街の復興に努めてる。それから、マタァの取り扱いに新しい決まりができた。これからは生み出されたマタァに応じて、一定量を街と塔の維持に使われることになった。グリオガ・ディナの発案だ。彼は『贖罪と報恩』と言っていたよ」

 ジェンドは四つの塔を見上げた。ネペイアの四神が抱いていたのは怒りと失望だけではなかったのだ。

「スピアースは。彼は無事だったのか」

「大丈夫。今はラブロの塔にいて、直接神様から治療を受けているよ。羨ましいことさ。お前が彼を助け出したのだろう。キクノが泣いていたぞ」

 エザフォスが悪戯っぽく言う。ジェンドの胸に顔を埋めたまま、キクノは何も応えなかった。

「それで、ジェンドはこれからどうするんだ。やはり故郷に戻るのか。それとも街に上がるか。今後はエナトスとネペイア・アトミスの間で定期便が出るらしいから、会おうと思えばいつでも会えるぞ。一度スピアースに会いに行ったらどうだ」

「俺は……そうだな。俺は、どうしようか」

 曖昧な態度にエザフォスは首を傾げた。

 キクノがようやくジェンドから離れた。彼女の目は真っ赤になっていたが、表情はどこか険しかった。

「ルテルはどうしたの。それに、バンデス様は」

 ジェンドは左腕を上げた。火傷痕は完全に消えてなくなっていた。

「エナトス復活は達成した。だから本来あるべき場所に還ったんだろう」

「そう。じゃあ、あなた自身はどうなの」

 キクノの掌がジェンドの胸に触れる。

。あなたの身体、石みたいに硬くて、冷たいの。ねえ、一体どうしちゃったのよ。本当に、私の目の前にいるのは……ジェンド、あなたなのよね?」

「ああ。そうだよ」

 ジェンドは確信を持ってうなずいた。そして続けた。

「誰かに触っても温かさや柔らかさを感じない。歩くたびに微かだけど軋んだ音が聞こえる。どうやら涙も出なくなった。それでも、俺はここにいるんだ。ラヴァ・ラとして」

「それって、まさか」

「バンデスから新しい使命を託されたんだ」

 愕然として立ち尽くすキクノとエザフォスに、笑いかける。二人の肩を軽く叩き、歩き出す。キクノが慌てた。

「どこに行くの」

「どこにも行かないさ。エナトスで俺がいるべき場所に帰るだけだよ。心配しなくても、俺の居場所はここさ。きっと未来永劫、この町だ」

「ジェンド!」

「時々会いに来てくれよ。スピアースが元気になったら、彼とも話をしてみたい。エスミア区で暮らしてたときみたいに、また冗談を言い合おう」

「ジェンド、待って」

 引き留める声。ジェンドは手を振って応えた。アーダが去った道とは逆方向に歩き出す。何もない岩壁がひとりでに裂け、小さな洞窟が口を開ける。絶句するキクノとエザフォスを残し、ジェンドは洞窟の中に入った。入口はひとりでに塞がった。

 漆黒に包まれた空間に、白い光が生まれる。黒髪の小さな使い魔がジェンドの肩に止まった。

『お疲れ様でした。スティマス』

「大変なのはこれからだろ。じゃあ行こうか」

『はい。お供します』

 二人は暗闇の中に消えていった。

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