第17話 ラブロの塔にて
――同じ頃。
エザフォスは何かが頬を撫でる感触で目を覚ました。風に揺れる金色の草の上にエザフォスはうつ伏せに倒れていた。ずいぶん長い間倒れていたのか、起き上がろうとすると節々が痛んだ。幸い、深刻な怪我はない。
上体を起こし、辺りを見回す。傍らに乗騎の翼竜が倒れていた。首筋を触るとかすかに息づかいを感じた。死んだわけではないとわかり、安堵の息を吐く。
数メトル先にはキクノが倒れていた。ピオテースもいる。駆け寄ったエザフォスは、キクノの胸の上に小さな結晶が浮かんでいることに気付いた。
「何だ、これは……おい、キクノ。大丈夫か。おい」
頬を叩く。彼女にも息はあった。血色もよい。しかしいくら呼びかけても目を覚まさない。ピオテースも身じろぎ一つしない。さらに周囲を探し、ジェンドとグリオガがいないとわかり、エザフォスは厳しい表情になった。
意識不明が一名、安否不明が二名、死傷者はないが移動手段はなく、孤立状態。
さて、どうする。
改めて辺りを観察する。広大な金色の草原地帯である。建物どころか、立木の一本も見当たらない。上空は澄み渡った青空で、点在する小さな雲が長閑な時間を感じさせる。街で起きている騒動が嘘のようだ。
エザフォスは、ここをラブロの塔の内部と当たりを付けた。騎士として翼竜を駆り、周辺地域を飛び回っているエザフォスですら見たこともない場所なのだ。
もし騎士も知らない世界のどこかに放り出されていたとしたら、完全に手詰まりである。エザフォスは可能性のある選択肢だけ考えることにした。
ここがラブロの塔であれば、草原に見えるここ一帯は穀倉地かもしれない。ネペイア・アトミスの食糧をまかなうため、塔内には何層にもわたって作物が育てられていると聞いたことがある。青空は、途方もなく巨大な紋章術が創り出したものであると考えれば、一応、納得できる。
「祭壇師殿が『塔には神が住んでいる』と言っていたのは本当なのだろうな。何せ、これだけの空間を創れるのだから」
自分に言い聞かせる。
穀倉地帯であるならば、収穫しそれを街まで届ける者――つまり民がどこかにいるはずだ。翼竜が目覚めれば上空から探索できる。「もう一度竜の様子を見てみるか」と決めたとき、草原の中に黒い影を見つけた。目を凝らすと、それはひとつではなく、金色に紛れていくつも点在しているとわかった。
荷物入れから水の入った小型の容器を取り出し、腰の剣の座りを確かめて、エザフォスは黒い影を目指して歩き出した。
風の匂いが街と違う。エザフォスが慣れ親しんだ、外の世界のものとよく似ている。不安が鎌首をもたげてくる。
黒い影が十メトル先まで近づいた。緊張を漲らせて身構えたエザフォスは、しばらくして剣の柄から手を離した。
麦の一種だろうか、穂が付いた植物の群生に埋もれるようにして、長い黒髪の女性が地面にひざまずいて平伏していたのだ。ラヴァでないとわかり、エザフォスは長く息を吐いた。
「すまない、そこの人。よいだろうか」
エザフォスが声を掛けると、女性は振り返って立ち上がった。四十代ぐらいで、がっしりした体つきをしていた。彼女はエザフォスを見ると、驚いて口に手を当てた。
「あら。あんたもしかして騎士の人かい。珍しいね。塔に入ってくるなんて」
「やはりここはラブロの塔だったのか」
「そうだよ。第四十層、って言っても街の人はピンとこないわね。だいぶ地上に近い場所だよ」
大きな収穫だ。エザフォスは勢い込んで尋ねる。
「人の集まる場所まで案内してもらえないだろうか。仲間や翼竜がいるんだが、皆意識がない。それに行方不明になった者もいる」
「それは大変だと思うけれど」
女性は言ったが、表情を曇らせた。
「もう少し待てるかい。祈りが終われば皆手が空く。仲間の手当もできると思うし、何なら私たちの竜を使ってもらっていい」
「助かる。ありがとう」
「いいって。上街の連中と違って、騎士には世話になってるからね。お互い様さ。ただ……」
「どうした」
「何だか変なんだよね。今日は。さっきから急に空気が変わってきたというか。いつも祈りを捧げるときはこんなじゃないのに。変な胸騒ぎがするよ。本当ならとっくに祈りの時間を終えているんだけど、皆、同じことを考えてるのか、その場を動こうとしないんだ」
「あなたたちの祈りを邪魔するつもりはないが、できれば急いでもらいたい。あなたの言う通り、外では大きな騒ぎになっている」
「わかった。声をかけてくるよ」
女性が踵を返す。エザフォスは頭を深く下げた。
穀物をかき分ける音が不意に止まった。エザフォスは顔を上げた。女性は立ち止まり、呆然と空を見上げていた。女性の視線を追ったエザフォスもまた、呆然と口を開く。
青空が歪んでいた。赤熱する硝子のように空の青と雲の白が混ざり合い、流動する。その一部が滴となって落下する。滴は空中で静止し、うごめき、やがて長衣をまとった美しい女性の姿となる。
「ネペイア様」
震える声で女性は言い、再びその場にひざまずいた。エザフォスは立ち尽くした。
あれが、ネペイア・アトミスの神。本当に塔におわしたのだ。
――神と相見えるには命を懸ける必要がある。
祭壇師の言葉が脳裏に蘇り、エザフォスは背筋を震わせた。片膝を突き、ひざまずく。落ち着こうと思っても、首筋に汗が噴き出てくる。聞きたいことはたくさんあった。自分たちをここに連れてきたのは貴女なのか。ジェンドの魂は元に戻るのか。ネペイア・アトミスはどうなっているのか。言葉を投げかければ取り込まれそうな気がして、エザフォスは拳を強く握り込んで自らを叱咤した。
神――ネペイアが左手を自らの胸に当てる。やおら、上体を前に倒す。
まさか、神が頭をお下げになった?
息を呑むエザフォス。そして民たち。ネペイアの髪先が水面に漂うように揺れている。
『親愛なる民の皆さん。
聞く者の頭に優しく染み込み、懊悩を洗い流すような澄み切った声は、まさに女神に相応しいものであった。その神から、丁寧な口調で謝罪とお願いを口にされては、人は戸惑うしかなかった。神であるネペイアは、本当に頭を下げているのだとこの場にいる全員が愕然と悟った。
『今、あなたたちの街は未曾有の危機にさらされています。しかし、私たちは直接、その脅威に手を下すことができません。私の声を聞き、行動できるあなたたちが頼りなのです』
ネペイアはさらに深く腰を折った。
『不甲斐ない私たちをどうか許して下さい。そして、私たちに力を貸して下さい。これよりのち、一人の若者が脅威に立ち向かうでしょう。彼のための道を作って欲しいのです。どうかお願いします。どうか』
無言の時間が来た。穀物が風で波打つ音の中で、皆、ひざまずいたまま動かない。
やがて一人、また一人と立ち上がり、やはり無言のまま歩き出す。
エザフォスの前でひざまずいていた女性も立ち上がる。そしてエザフォスの前に立った。
「何をしているんだい。行くよ。あんたの言った通り、外は大変なことになっているみたいだ」
「あ、ああ。いや、しかし。仲間を置いてはいけない」
「気持ちはわかるけど、私は待てない。居ても立ってもいられないのよ」
「なぜ、そこまで」
思わずエザフォスは尋ねた。確かに神の言葉は重い。エザフォスとてネペイア神を疑う気など毛頭ない。しかし、民たちのように無条件で信じ、盲目的に動くことはできなかった。
「ネペイア様にお会いできたからさ。お言葉を聞けたからさ」
女性の答えは簡潔だった。彼女はエザフォスの肩に手を置く。
「いいかい。ネペイア様は私たちの前にしか御姿を現すことができないんだ。あのお方はただそこにいるだけで周囲に大きな影響をお与えになる。それに耐えられるのは外の大地に近い人間、つまり私たち民や、あんたたち騎士だけなんだよ。上街の連中は神の御威光に身体と心が耐えられないのさ」
肩をつかむ手に力がこもる。
「わかるかい。ネペイア様は、力も財力もある上街の連中ではなく、私たちに『頼む』とおっしゃられたんだ。それに応えなくてどうするっていうんだい。ネペイア様の御声が聞けたのなら、あんたは立派な騎士さ。ほら、身体中、痺れて身震いするだろう。力が湧いてくるだろう。私も同じさ。一緒に頑張ろうじゃないか」
エザフォスは自らの手を見つめた。
この昂ぶりは、確かに彼女の言う通りなのかもしれない。
だが、エザフォスは自制した。二度も、仲間を見捨てるわけにはいかない。
「仲間たちの意識が戻れば、すぐに向かう。だがそれまでは、俺だけ離れるわけはいかない」
「……そうか。いや、悪かったね。つい興奮して、我を忘れてしまったみたい。手を貸してくれる人がいるか声をかけてみるよ。あんたは仲間の側にいてあげて」
「申し訳ない」
女性はうなずいて、走り去っていった。後ろ姿を見送り、エザフォスは振り返る。せめて、翼竜の一頭が目を覚ましてくれればと思い、ふと立ち止まる。
――上街の連中は神の御威光に身体と心が耐えられないのさ。
「まさか、ネペイア様の影響で彼らの意識は戻らないのか」
エザフォスは空を見上げた。混ざり合い流動していた空は元の長閑さを取り戻している。ネペイア神の姿は消えていた。エザフォスは仲間のところに急いだ。
「あっ」とつぶやいて、足を止める。キクノとピオテースの側に、いつの間にかネペイア神が佇んでいたのだ。彼女はエザフォスを待っていた。
『あなたがたには特に深く謝罪を』
そう言って彼女は再び深く頭を下げた。エザフォスは事情に思い至る。
「我々を捕らえたのは、あなただったのですか」
『そうです。あなたがたとジェンドを、いち早く迎え入れるためでした。結果、このようになり申し訳なく思っています』
そう言って、ネペイア神はキクノの髪を撫でた。こうして間近で見て初めて気付く。ネペイア神には目鼻がない。美しく流れる前髪のため、わからなかったのだ。
『あなたの仲間は、ごく軽い封印を施したため眠っています。
エザフォスは自分の推測が正しかったと悟った。民の女性が教えてくれたことも本当だったのだ。騎士として生きてきたからこそ、今、神と話すことができている。涙が出そうだった。
ネペイア神は、感動するエザフォスを慈しむように口元を緩めた。しかし、すぐに引き締める。
『グリオガ・ディナとジェンド。彼らは別の私が取り込んでいます』
「別の……? それに取り込む、とは」
『ネペイア・アトミスを構成する神は、私を含めて四人いるのです。四つの領域、と表現すべきかも知れません。グリオガとジェンドは、私たちの中でも最も強く、最も深い者のところにいます。彼女は無口で厳しい。我が身の深いところに彼らを取り込み、助けて欲しくば自力で這い上がれと促しているのです。街を救うだけの力が自らにあることを証明しろと』
「もし、彼らが証明できなければ。どうなるのです」
ネペイア神は顔を逸らす。左手で上から下に撫でる仕草をすると、何もない空間が割れ、のぞき窓のように別の場所の光景を映し出す。ためらいがちに神の隣に立ち、映し出された光景をエザフォスは見た。
ネペイア・アトミスの教会区を、巨大な黒い人間が蹂躙している。巨人の顔立ちはジェンドと瓜二つ。街中の湧士が彼に立ち向かっているが、巨人の黒い皮膚は紋章術を受けても傷一つついていない。術が飛ぶたび、反撃を受けた湧士や翼竜が吹き飛ばされ、
エザフォスは後退った。
「これは……」
『人間の原初的な意志、闘争本能です。生半な紋章術ではあの存在に対抗できません。それどころか、術の力を吸収し、ますます巨大化するでしょう。かつて彼がそうしたように』
ネペイア神が手を振ると、空間の裂け目が閉じる。
『ジェンドたちが力を証明できない場合、ネペイア・アトミスは墜ちます。私はそれを望みません。ですが、今の私たちはネペイア・アトミスを支えるだけで精一杯なのです』
「なぜですか。あなたがたは神様でしょう」
エザフォスは動揺していた。叩き付けられた言葉に怒ることなく、ネペイアは迷うようにしばらく口ごもっていた。
『……騎士であるあなたには伝えるべきでしょう。私たちはラヴァから逃れたいという願いを聞き入れ、この巨大な街を創りました。その条件として、街を維持するための力をマタァとして捧げることとしたのです。しかし、現状がどうなっているかはあなたもよく知っていると思います。ずっと昔、約束が守られていた頃のネペイア・アトミスは、真に宙に浮く大地だったのですよ』
穏やかで冗談めかした口調の中に、神々の秘めた怒りを感じ取り、エザフォスは背筋を震わせた。
『現在でもなお神との約束を律儀に守っているのは、グリオガ・ディナくらいでしょう。しかし、その彼も私の姉妹が完全に取り込もうとしている。これ以上、孤軍奮闘する姿を見るのは忍びないという思いからです。私は、姉妹の行動を否定することはできません』
「あなたは、何て」
無意識の言葉が漏れる。
「何て、人間らしい方だ」
『……ふふっ。姉妹にもよく言われます。先ほども、人間などにわざわざ謝りに行く必要はないと叱られてしまいました』
ネペイア神は少女のように笑った。
『ネペイア・アトミスが空にあり続けるか否か。それはジェンドと、あなたたちの手にかかっています。私にできることは伝え、見届けることだけ。頼みましたよ』
エザフォスは自らの掌を見つめ、握る。
「ネペイア・アトミスを守ること。それが騎士の存在意義です」
『あなたとお話ができてよかった』
ネペイア神がふわりと浮き上がる。彼女の身体から燐光が降る。敬礼したエザフォスは、上空に消えていく神がどこか辛そうに口元を結んでいることに気付いた。
それからしばらくして、仲間たちが意識を取り戻した。焦燥感を押し殺し、エザフォスは言った。
「キクノ。今日のお前は騎士だ。ネペイア・アトミスを救うぞ」
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