第16話 隧道の先に
微睡みの中、ジェンドは目を開ける。顔全体を何か温かいものが包んでいる。滲んだ視界の中を、口元から漏れた気泡が横切っていく。
――水の中! 溺れる!
ジェンドは両手を突いて身体を起こした。髪や鼻先から半透明の赤い滴が落ちた。貪るように呼吸を繰り返す。気道に異物はなく、えずくこともなかった。早鐘を打っていた心臓は、次第にいつもの音に戻っていく。
立ち上がり、辺りを見回す。地面も天井もすべてが濃淡のある赤に染まった、奇妙な空間だった。地面は踝まで水に浸かり、天井はラヴァのようにうごめいていた。天井内部には何かの液体が巡り、無数の気泡が渦を巻いていた。天井までは五メトル、両壁間は十メトルほどの
蒸し暑い。息苦しい。ここは地下のかなり深い場所かもしれないとジェンドは思った。
仲間たちや翼竜の姿が見えない。はぐれたことに気付いたジェンドは、しばらくその場に立ち尽くし、我に返って頬を張った。
「何をぼうっとしているんだ。皆を探さないと」
事態は深刻だと頭では理解している。けれど身体と心が付いていかない。もどかしかった。
これが魂の欠落。自分が自分でないみたいだ。
俺は死ぬのか。このまま。
とうとうここで死ぬのか。
嫌だ。怖い。動きたくない。誰か何とかしてくれ。
「……くそっ」
拳を握りしめ、額を
このままでは、本当に自分は駄目になる。
早く誰かに会いたい一心で、ジェンドは歩き出した。
それから間もなく、地面がすり鉢状にくぼんだ場所に行き当たった。水が底に向かってゆっくりと流れている。
窪地の底、赤い水が溜まった瀞(とろ)の中にグリオガを見つけた。彼の口から気泡は漏れておらず、下半身は徐々に地面の中へと沈んでいる。
ジェンドは本能的に駆け出していた。窪地の縁を蹴り、瀞へと飛び込む。赤い水は温かく、真綿かと思うほど柔らかかった。ジェンドは無我夢中でグリオガに抱きつき、彼の身体を引き上げる。斜面を流れる水に何度も足を取られながら、窪地から這い上がった。
グリオガ、しっかりしろ、目を覚ませ、こんなところで死ぬな――叱咤と励ましの言葉がいくつも頭に浮かぶが、口にできたのは「おい、おい」の二言だけだった。
剃髪の祭壇師の瞼が震え、薄目が開く。ジェンドは安堵した。気遣う言葉をかけようとして、唇が震えた。喉が麻痺して喋れない。身体と心が繋がらないことがとても辛かった。
グリオガの手が頬に触れる。
「焦るな。そなたは少し混乱しているだけなのだ」
その落ち着いた声を聞くだけで、ジェンドは気持ちが軽くなった。
祭壇師を支え起こす。そのとき、彼の片足が溶けてなくなっていることに初めて気付いた。
「グリオガ……」
「ここは神の御住まいであるな」
身体の一部が失われたというのに、グリオガはいつも通りの口調を崩さなかった。流動する天井を見上げ、指差す。
「見よ、ジェンド。あれこそ紋章術の根源だ。あの気泡ひとつひとつが、紋章術の元となる。この空間は大いなる流動によってできている。流動とは神によって自然に還された人の魂である。我らの前にあるのは何千何万もの人の魂であり、我らは水を介し、人の魂を使って術をなし、マタァを形成する。湧士たちが常日頃術を打ち合っても簡単に死なないのは、元々が我ら人間の魂からできているためだ」
「……なぜ」
「こういう話をするのか、と言いたいのだな。私が伝えたいと思ったからだ」
グリオガは溶け残った脚を叩いた。
「私は永くない。どうやら神は私を再び迎え入れたいようだ。私はそれに応える義務がある。今の私があるのは他ならぬ神――ネペイア様のおかげであるのだ」
グリオガは微笑んだ。彼らしくない、似つかわしくない表情だと思った。強く。
ジェンドの口は相変わらず思い通りに動かない。だから行動で表すことにした。グリオガを背負い、朱い隧道を先に進む。
「そなたは選ばれた人間だ、ジェンド。ネペイア様はそなたを呼んでいる。それが証拠に、こうして立派な通路ができているのだ。本来、ここは流動する魂で満たされた、生者が足を踏み入れるべきでない聖域――」
「うるさい」
ジェンドは言った。
うるさい。理屈なんてどうでもいい。せっかく会えた人間を見捨てるなんてできるものか。側にいてもらう。じゃないと、俺は狂ってしまう。神が俺に会いたいというのなら、会いに行ってやろうじゃないか。死ぬのが怖い。死ぬのが嫌だ。苦しい今を救ってくれ。今からそっちに行くから。
「そなた、戦っているのだな。魂が欠けても、残った意志で前に進もうとしているのだな」
頭を撫でられた。
「そういうところは、かつての私によく似ている」
「……うるさい」
「そうだ。恐怖と不安を否定するな。飲み込んだ上で乗り越えろ」
「……うるさい」
「ひとつでも多くの確信を見つけよ。曖昧な精神状態の中では確信こそが力となる。それは紋章術の極意でもある」
「……うるさい」
「戦え。私は今、そなたの側にいる。それは神でさえ否定できない確信である」
「……」
「誰かのために――とは、不思議な言葉であるとかつて私は思った。ジェンドよ。そなたもそう思うだろう」
ジェンドは歩き続けた。立ち止まることなく、速度を落とすこともなく、前に何も見えなくても、到達点がわからなくても、ただ歩き続けた。
ジェンドを補佐しようとしたのか、グリオガは何度か紋章術を試みようとした。しかし、隧道を流れる気泡は反応せず、術は発動しなかった。ジェンドは歩き続けた。
何百歩。何千歩。何万歩。永久に続くかような隧道の赤。気泡の流れ。流動する魂。無言無心で前に出した足が、これまでと違う何かを踏みつけた。直後、周囲の景色が一変する。赤の天井が崩落してくる。
「気を強く持て、ジェンド!」
目を閉じぐったりとしていたグリオガが鋭く警告する。引き返すことも避けることもできず、ジェンドたちは液体化した天井に飲み込まれた。容赦なく眼球にぶつかってくる気泡。ジェンドは強ばっていた顔の筋肉を動かし、数時間ぶりに強く目を閉じた。
――場違いなほど爽やかな風が吹き抜ける。
目を開けると、蒼い空と白い雲が見えた。ジェンドたちはネペイア・アトミス上空に立っていた。足場は透明なのに、川の浅瀬にいるような感触がある。
透明な地面の向こうに街並がある。七色の靄の森は変わらず点在し、街の至る所で湧士たちが戦っている。だが、戦う相手は人間ではなく、半固形の黒いラヴァであった。戦場は中央区になるほど激しく、爆発を伴う強力な紋章術が立て続けに放たれている様子が上空からでもわかった。ネペイア・アトミスの最も中心で、最も華美流麗な建物であった教会は、今や見るも無惨に崩落してしまっていた。
教会の敷地に漆黒の穴が空いている。そこから間欠泉となって吹き出し続ける黒いラヴァが、寄り集まって巨大な人の上半身を作った。粘土細工が形を整えていくように、隆起した筋肉や顔の凹凸を刻んでいく。やがてそれは人間の姿形を見事に再現して見せた。
黒く、巨大な――ジェンドの姿である。
目が離せなかった。何時間も歩きづめだった疲労感が吹き飛び、全身を雷が走る。信じたくない、けれど強い確信があった。
あれは。あの黒い俺は。間違いなく、俺の一部だ。
――皮肉にも、その確信がジェンドを現実に引き戻した。意志を取り戻した身体が、魂の欠落を訴えて再び震え始める。恐怖と不安が心に迫って、吐き気がしてくる。疲労感も加わり、今すぐへたり込みたい欲求に襲われる。
抗うには喋るしかなかった。
「グリオガ。教えてくれ。あれは何だ。なぜ俺の姿をしているんだ」
しかし返事はなかった。ジェンドの首に回された祭壇師の腕が、研磨された鉱石のように結晶化していた。息づかいは細く、身体は重くなっていた。
彼を助けるためには、立ち止まっているわけにはいかない。しかし、どこへ向かえばいいのかわからない。眼下に街は見えているのに、たどり着けない。もどかしかった。それでも動かなければならない。何もできないと思うからこそ、何かしなければならない。
今の自分にはまだ、自分の意志で動く二本の足がある。
「待ってろ。何としても、あんただけは」
「……よい。そのまま聞け、ジェンド」
背中から、か細い声がする。「気絶してしまうとは、私も意志が弱い」と自嘲していた。グリオガが身じろぎするたび、硝子をこするような異音がした。
「巨大な黒いラヴァ……あれはお前自身だ。お前の欠けた魂がラヴァと一体化したものだ。そして……あれが見えるか」
異音を響かせながらグリオガが腕を伸ばし、黒ジェンドの額を指差す。目を凝らした。漆黒の皮膚の中で、一部だけ違う色が混ざっている。――人間が身体を
「あれはスピアースである。彼の身体が核となり、黒いジェンドを形作っているのだ」
「何だって」
「物事は上手く行かぬものだな……スピアースはジェンドが生み出したマタァによって復活した。その際にお前の魂がスピアースの身体に混入してしまったのだ。仮初めの容れ物を得た魂は、それ自体が一個の存在として活動を始めた。ネペイア・アトミスの異常は、あの黒い男が引き起こしたものだろう。これほどの規模になったのは、バンデス様や使い魔を飲み込んでしまったからに他ならぬ」
「俺は……こんなことを望んでいなかった」
「今のお前はそうであろう。私が考えるに、お前の魂から欠けた部分、あの黒い男の正体は――」
黒ジェンドが咆哮を上げた。大きく開かれた口から不可視の衝撃波が迸り、直線上の建物をなぎ倒す。湧士や翼竜が、裂けた枯れ葉のように宙を舞った。
「原初的で最も強い意志――闘争本能だ」
故郷エナトスを必ず復活させる。
そのために戦う。全力で術をぶつけ合う。
そのために――敵を求める。
「俺が……故郷を取り戻したいと思ったから。あれは、俺の心から生まれたものなんだ……」
「そうだ」
グリオガの、飾りない一言が突き刺さる。膝を突く。どうしようもなく身体が震えた。エナトスを越える悲劇を自分の分身が引き起こしている、事実。受け止めるには大きすぎた。まして、魂の欠けた心ならなおさら――
結晶化したグリオガの手が、ジェンドの胸元を掴む。
「まだ終わったわけではない」
「……やめてくれ」
「聞け。奴はそなたが、そなただからこそ鎮めることができるはずだ。見ろ。奴はそなたの欠けた魂。そなたが再び受け入れるのだ。力を喪い、神と使い魔を喪っても、そなたの心は残っている。それこそが最大の武器である」
グリオガの手が離れる。硝子がこすれる音がした。
「ここまでの長く苦しい隧道は、そなたの武器を研ぐためにネペイア様が用意した試練だったのかもしれぬな」
「グリオガ……?」
「口数少ない我が親愛なる神よ。人には言葉が必要です。どうか今度は、あなた様の口から」
硝子の音がしなくなった。
ジェンドは振り返った。そこには人の顔をした鉱石があった。
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