第15話 喪われた復活の道

 鋭く息を吐き、二メトル離れた柱に助走なしで跳躍する。ジェンドを受け止めた柱は脆く、崩壊の連鎖が起こる。倒れていく柱の上で次の足場を探し、さらに跳躍。着地場所がないところは腕だけで全体重を支える。安定しない足場では全身の筋肉を総動員して体勢を保つ。持ち前の高い筋力、柔軟性、平衡感覚をすべて動員して、ジェンドはグリオガの元に駆けた。

 祭壇師もこちらと合流するため、瓦礫の上によじ登る。だが彼の動きは緩慢でぎこちない。後ろからはラヴァたちが近づいている。ジェンドは「俺が引き上げた方が早い」と判断した。

 あと五メトル。一息の距離になる。

 グリオガの頭上、斜めに傾いだ柱にラヴァがいた。グリオガは気付いていない。滴る水滴のように身体を分離させて落下してきたラヴァを、ジェンドはすんでのところで受け止めた。左前腕に半固形物がべったりと付着する。何度も腕を振って引き剥がした。

「グリオガ、大丈夫か」

 肩を支える。言葉を返す余裕がないようで、グリオガは荒い息を繰り返していた。ラヴァを浴びた左腕をなるべく見ないようにしながら、グリオガを背負い上げる。鉱山で意識を失った仲間を運び出す要領で、柱の上を駆ける。

 三階の広縁まで戻るのは無理だ。何とか別の階から外に出ないと。

 辺りを見回す。しかし、館の内部は勝手がわからない。

「右だ。まだ崩壊が進んでいない応接室がある」

 グリオガが言った。ジェンドは穴とラヴァを避けながら応接室へ急いだ。

 応接室の壁は一部が崩壊していた。室内の天井が不自然に湾曲し、今にも下端が弾けそうだった。床に穴はなく、窓からは外の景色がよく見えた。

 ジェンドが壊れた壁を乗り越えると同時に、グリオガは紋章術を飛ばす。拳大の火球が煙の尾を引きながら窓を突き破る。キクノが気付いてくれとジェンドは祈った。

 埃がジェンドの肩にかかる。直後、恐ろしい破砕音を伴って、瓦礫とラヴァがなだれ込んでくる。

 下腹部に強い衝撃。景色が流れる。身体があらぬ方向へ引っ張られるのを、誰かが必死に抑えつける。

「ジェンド、無事!?」

「キクノ! 来てくれたのか」

「逃げるわよ。舌を噛むから口閉じて!」

 ジェンドたちを乗せたピオテースが高く鳴く。窓硝子の破片をまき散らしながら、屋外へと飛び出した。肌に感じる空気が一気に冷たく澄む。崩壊の音が遠ざかったことを確認し、ジェンドはピオテースの背に大きなため息を落とした。

 館は砂塵を上げながら崩壊していた。天井が落ち、内部の様子が上空から見える。ラヴァと瓦礫が黒い穴の奥へと飲まれていた。

 不意に左腕をグリオガに掴まれた。日に焼けた肌を細い目で睨みつけながら、彼は尋ねた。

「痛みはあるか。指先に感覚はあるか」

「いや……問題はない」

「手を握って、動かしてみろ」

 言われたとおりに左手を開閉する。崩れていく自分の屋敷は一顧だにせず、ジェンドの腕を観察する祭壇師。キクノが不安そうに「もしかして、怪我をしたの」と言うので、ジェンドは正直に答えた。

「ラヴァが腕に付いた。けどすぐに振り払ったから。この通り大丈夫」

「ちょっと。それ、どういうことよ。ラヴァが腕に付いた? それで無事なわけないじゃない」

 キクノが血相を変える。飛びつきかねない勢いで振り返った彼女を、グリオガがやんわりと押しとどめる。

「ジェンドの言う通り、左腕は綺麗なものだ。傷ひとつない。だが、それは我々の常識から言うと『あり得ない』ことだ」

「だけど、本当に何ともないんだ」

「おそらく、バンデス様が宿影響で、ラヴァの力を受け付けない身体になったのだろう。私でも覚えがないことだが、神の御力を考えれば、あながち不可能というわけではない」

 グリオガの口調は平淡であった。

、お前にとってはこの状態の方がよいのかもしれない」

「グリオガ様。どういうことです。残念、とは」

「わからないか、キクノ。ジェンドの中には、もうバンデス様はおらぬ。使い魔もおらぬ。術も使えぬ。こやつはすでに、自らの悲願であるエナトス復活の道を完全に断たれてしまった後なのだ。その対価として得たのがラヴァへの耐性ということだろう」

 風鳴りの音が一段と大きく響く。グリオガは瞑目した。

「命を懸けて故郷を救うより、ここで平穏な余生を過ごす方が合理的で幸福と言えるかもしれぬ。そなたには理解者がいる。ラヴァへの耐性があれば、騎士として存分に働くことができるだろう」

「グリオガ。俺は」

「諦めるのも勇気である」

 二の句が継げなかった。全身から力が抜けていく。瓦礫の故郷を見下ろしたあの時よりも深い絶望が重くのしかかった。頭の中が真っ白になり、ぼんやりして、何もかもがどうでもよくなってきた。ジェンドは震える右手を口の前に持ってきて、自分の親指を血が滲むほど強く噛んだ。鋭い痛みが足先まで駆け巡り、無力感に溺れそうになった心をかろうじて引き上げる。

 舌の上の血を転がした。よかった。まだ俺には、鉄錆を味わう感覚が残ってる。

 グリオガが咳払いをして話題を変えた。

「ところで、そなたたちはエニドゥとサラスィアを見なかったか」

 ジェンドたちは首を横に振る。祭壇師は膝を手でこする。

「姿が見えないだけでなく、繋がりまで感じられなくなった。ラヴァに飲まれるような者たちではないはずなのだが」

「グリオガ様。その件について私たちから報告があります」

 キクノがここまでの経緯を説明する。いつもは細められたグリオガの目が、大きく見開く。

「ネペイア・アトミス全土に広がっているか。由々しき事態だ」

「何か手立てはないのですか。兄さんを助ける方法は」

「神の力を借りるのだ」

「しかし、バンデス様はもういらっしゃらないはずでは」

「忘れたか。この地にも神はいる」

 鳴き声がした。ジェンドたちの元に大きな翼竜が近づいてきた。グリオガの乗騎である。巨体に似合わない細やかな動きで、ピオテースの右下に付ける。グリオガは乗騎に乗り移り、振り返った。

「そなたたちはどうする。騎士たちの元ならまだ安全である。彼らに庇護を求めるか」

 わずかな間があった。キクノが答える。

「グリオガ様とともに行きます」

「わかった。そなたたちには助けられた恩がある。今度は私がそなたたちを守ろう」

 グリオガを乗せた翼竜が先導して飛ぶ。

 ジェンドはキクノの視線を感じた。口にすべき言葉が見つからず、無言のままピオテースの首筋を撫でる。翼竜はグリオガを追走し始めた。

 館を後にして南東方向へ進む。上空から見たネペイア・アトミスは、徐々に混乱と動揺が広がっているようであった。街の特徴であった七色の靄が途切れがちになり、人の往来が増えて慌ただしくなっていた。中央に近い区画では翼竜の姿も目立った。

 ジェンドは身を低くして風圧に耐えた。風除けの紋章術を施すだけの水をキクノは持っていなかった。一方、先を行くグリオガと翼竜の周囲には、紋章術による薄い膜が張られていた。彼は使い魔がいなくても術が使えるのだ。自分とは違う、とジェンドは思い知らされた。

 エスミア区の荒野に差しかかる。一目でわかるほど穴の数が増えていた。ジェンドたちが住んでいた場所は、今や数百メトルにわたる大きさにまで広がっていた。「兄さん」とキクノがつぶやいた。

 やがて大地の端が見えてきた。グリオガはさらに進む。先にあるのは、ネペイア・アトミスの四方を囲む塔のひとつ、ラブロの塔であった。

 ふとピオテースが鳴いた。大地の縁から大勢の翼竜が飛び立っていた。彼らはネペイア・アトミスの各地へと散っていく。異変を知り、騎士たちが出撃したのだ。

 数騎の翼竜が反転してこちらに近づいてきた。先頭を飛ぶ騎士の顔には鞭の傷痕がある。ロフォス・エザフォス隊であった。

「ジェンド。それにキクノまで。お前たち、どこへ行っていたんだ。家が穴に飲まれたようだと商人から聞いたときは肝を冷やしたぞ」

「私たちは大丈夫です、筆頭。しかし兄さんが」

 エザフォスの顔に緊張が走った。

「まさか。穴に飲まれたのか」

「救出を試みたのですが、駄目でした。あの穴の中はただの空洞ではありません。灯りが届かず底が見えないうえ、降下するほど息苦しくなります。気をつけて下さい」

「穴に突入したんだな。まったく無茶をする。了解した。貴重な情報、感謝する。おい。先行した部隊に今の話を伝えろ」

 エザフォスの指示で、数名の隊員が翼竜を飛ばす。

「それで、お前たちはどこへ向かっている。この先は塔しかないが」

「グリオガ様の先導です。『神の力を借りる』と」

「なんだって。そんな大それたことができるのか」

「私はグリオガ様を信じます」

 力強くキクノは言った。エザフォスは「相変わらず頑固で芯が強い」と返し、ジェンドを見た。

「それはそうと、お前の方は明らかに何かあったという顔をしているぞ。使い魔殿はどうした。もしや、スピアースと一緒なのか」

「……」

「本当に大丈夫か。よく見れば顔色がひどく悪い」

「ジェンド」

 キクノが肩を揺する。だがジェンドは無言のままだった。口が強ばり、うまく言葉が発せられない。全身を倦怠感が包み、思考も鈍くなっていた。身体と心の異変に、ジェンド自身が戸惑った。踏みとどまり、立ち直ったと思っていたのは、単なる思い違いだったのか。

 意志を強く持てと自らを叱咤しても、気力が湧いてこない。喪失感が冷たく全身を巡る。

 ――諦めるのも勇気である。

 頭を過ぎったグリオガの言葉に、胸が締め付けられた。

 キクノはエザフォスに目配せした。ピオテースの鼻先を下街へと向ける。

「待て」

 グリオガが立ち塞がった。彼はじっとジェンドの顔を見つめた。

「確証はないが」

 眉間に深い皺を刻む。

「そなた、神と使い魔だけでなく、魂の一部をも失ってしまったのではないか」

「……」

「声を出す気力も湧いてこぬか。感情に空いた穴は大きいようだ」

「お言葉ですが、グリオガ様。ジェンドがこうなったのはあなたの一言がきっかけではないですか」

 気丈にもキクノが言う。祭壇師は「そうだな」とうなずいた。

「だが、それだけではあるまい。我が館でエニドゥと戦ったそなたは、激しい闘争心を露わにしていた。あれはそなたの中に眠っていた本性か、あるいはこの地で成長を遂げた心の表れだったのであろう。しかし、今のそなたからは闘争心の欠片も見当たらぬ。左手の神とともに、そなたをそなたたらしめている魂が抜け落ちてしまったのであれば、今の状態の説明がつく」

 グリオガは珍しい仕草を見せた。深く嘆息したのだ。

「運命は、よほどそなたが嫌いなのだな。魂が欠けた肉体は長く保たないはず。そなた、いつ身体が崩壊してもおかしくないぞ」

「何を言っているのですか。ご冗談が過ぎます。現にジェンドはこうして生きている。どこも怪我をしていない。確かに顔色は多少悪いですが、つい先ほどまでは普通だったのです。だから少し休めば――」

「そこがむしろ問題なのだ。魂の欠落でなければ、ここ数十分の体調変化の説明がつかぬ。ただ休んだだけでは解決せぬぞ」

「そんな」

「魂を活性化させるだけのマタァは我々の手元にはない。急ぎ神の元へ赴き、ジェンドの魂を回復させなければならない。エザフォスよ」

 突然呼ばれ、筆頭騎士は怪訝な顔をした。

「そなたも来るのだ。私の予想が正しければ、ネペイア・アトミスで起こっている事態とも無関係ではない。騎士の力が必要だ」

「あなたが推測でものをしゃべるとは、背筋がぞっとしますな」

 皮肉に口元を歪める。彼はすぐに決断した。

「俺は祭壇師グリオガ・ディナとともに行く。何かあればキクノを飛ばせる。指揮は副長に任せる」

 エザフォスの言葉で、隊員たちはいっせいに飛び去った。それを見たグリオガが「慕われているのだな」と言う。「仲間同士の絆は命綱ですからな」とエザフォスは返し、ジェンドとキクノを見た。

 三騎の翼竜はラブロの塔へ向かって飛ぶ。

「『神』はラブロの塔にいらっしゃるのか、グリオガ殿」

「さよう」

「しかし、塔に行ったとてすぐに神にお目にかかれるとは思えない。何か算段があるのか」

「私はラブロの神と繋がりがある。我が使い魔エニドゥとサラスィアは、かの神から授かったものだ」

 キクノとエザフォスは驚いた。グリオガはジェンドを横目で見る。

「私とジェンドには共通点がある。あの方ならば、今回の件について我らに智慧を授けて下さるだろう。もっとも――神と相見えるには命をかける必要があるがな」

「どういうことですか」

「神はラヴァと同じということだ。無法に触れれば取り込まれる」

 巨大な塔が次第に近づいてくる。

「ラヴァとは自然そのものであり、人間の魂を大地に還すための摂理である。だが、ネペイア・アトミスの大地はそれに逆らって存在しているのだ。摂理を曲げるのはそれより大きな摂理に他ならない」

 グリオガが告げた直後、ラブロの塔が赤く発光を始めた。一行がその眩い光に目を奪われたとき、下から襲いかかってきた巨大な蔓の紋章術に絡め取られた。一瞬にして視界が暗転する。ピオテースら翼竜が警告の声を上げ、隣では抜剣の金属音がした。

 暗闇の中、ジェンドは水滴が落ちる音を聞いた。

 平衡感覚が麻痺し始める。強烈な睡魔が襲ってきて、ジェンドはスピアースの背に突っ伏した。周囲の声が遠くなる。

 ジェンドたちを襲った蔓は、地上から生えていた。ジェンドたちを先端の蕾の中に捕らえたまま、蔓は地中に潜っていった。

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