第13話 穏やかな家と黒い穴

 岩ばかりの大地に民家が一軒、建っている。石を積み、木板を渡しただけのごくごく簡単な造りだ。背後には民家の倍はある巨岩がそびえ、それと比べると、まるで打ち棄てられた玩具人形のように小さくくたびれて見える。

 そこへ、一匹の翼竜がやってきた。背には運び屋の男と、大きな金属製の箱を乗せている。翼竜は岩の地面に柔らかく着地すると、綺麗な声音でひと鳴きした。

 鳴き声を聞き、窓から半透明の羽根を持った小さな少女が飛んでくる。彼女は騎乗者の前で停まると、丁寧に頭を下げた。

『お疲れ様です』

「はいよ、ルテルちゃん。今日も持ってきたよ」

 運び屋が風よけの眼鏡を外して笑う。ルテルも微笑みを返し、それから翼竜の鼻先に飛んだ。

『ピオテースも、お疲れ様です』

 翼竜ピオテースは目を細めた。

「ジェンドさんはどこだい」

『ロフォス・エザフォスの方々に呼ばれて区境に。もうすぐ帰ってきます』

「おお、なるほど。どうりで騎士さんたちが少なかったわけだ」

 運び屋は荷を下ろす作業をしながらうなずいた。彼は翼竜の発着場にも荷を運んでいる。

「それはそうと、ルテルちゃんは一緒に行かなくてよかったのかい。使い魔ってのは、常に主と共にあるもんだと思っていたが」

『スティマスの心は穏やかだとわかるので、問題ありません。今日は階級戦もないですし』

 運び屋は感心した。

「離れていても繋がっているか。使い魔は凄いね」

『いいえ。私がこの私でいられるのは、スティマスが精神的に逞しくなったからです』

「逞しく?」

『以前のスティマスならば、騎士たちと会うことを躊躇ったでしょう』

 事情を知らない運び屋は「よくわからないが、よかったな」と笑った。

『キクノなら中にいます。呼んできましょう』

「ああ、大丈夫大丈夫。今日はこれから別の現場に移動なんだ。ジェンドさんが帰ってきたら伝えておいてくれ。確かに二つ届けましたと」

『ふたつ?』

 ピオテースが喉を鳴らした。丸い瞳がどことなく、「待ちくたびれた」と告げているようで、ルテルは苦笑した。

『伝えます。お疲れ様でした。お帰りは門からですか』

「ああ。便利で羨ましいよ。まあ、俺もその恩恵にあずかっている身だが」

 そう言って、大事そうに首に提げたマタァを見せる。

 運び屋はルテルに荷物一式を託すと、歩いてその場を後にした。グリオガが新たに設置した水脈門は、巨岩のすぐ裏手にある。

 ルテルはピオテースの頭の上に降りた。

『家族が増えましたね。きっと彼らの計らいです』

 主がいるであろう区境の方角を見る。

『スティマスも喜ぶでしょう』

 数分後。ジェンドが帰ってきた。運び屋とは水脈門で鉢合わせたようで、ピオテースのことをすでに知っていた。

「久しぶりだ、ピオテース。これからよろしく」

 馴染みの翼竜の首を撫でるジェンドの顔は穏やかだった。一時は関係がこじれかけていたエザフォスたちと、今日は和やかに話ができたらしい。ルテルは、主の喜色と安堵を我がこととして嬉しく思った。



 ルテルの力を借りて荷を下ろしたジェンドは、ピオテースを家の裏手で休ませた。心優しい竜はだいぶ気を揉んでいたらしく、じゃれるのもそこそこに寝入ってしまった。

 さしあたり使う分の食料と水を抱え、玄関をくぐると、微かなせせらぎが聞こえてくる。家は、石造りの囲いの内部を壁板で四つに区切っただけの簡素な構造であったが、梁や柱、床の一部に緋色の水が流れているのが他と違っていた。鎧戸から差し込む光を吸収し、深く落ち着いた輝きを発する水は美しいのだが、まるで肉を巡る血のようで、最初は落ち着かなかった。設計を祭壇師グリオガが、建築をエニドゥとサラスィアの双子精が手がけたことを考えると、無理からぬことだったと今は納得している。衣食住の一切を援助してくれている彼らに文句を言うなど、ジェンドにはできなかった。

 ――幻影舞台での戦いから、一ヶ月が経とうとしていた。

 貯蔵庫に食料と水を収め、この家には不釣り合いな上品な茶器に茶を注ぐ。ルテルが紋章術を使って、瞬時に飲みやすい温度まで温めた。緋色の水のおかげで、術の行使に困ることはない。

 ネペイア・アトミスでは水は紋章術の象徴だから、水を使って茶を飲む習慣そのものが珍しい。茶葉はすべてグリオガが趣味で作ったものだ。

 湯気と香りを立てる茶を三人分用意し、ジェンドは最も陽当たりの良い部屋に向かった。

「入るよ」

 開けっ放しになっている扉をくぐる。寝台にはスピアースが横になり、傍らではキクノが掛け布の上に顔を伏せていた。二人とも眠っているらしい。

 側机に茶器を置き、苦笑しながら二人の寝顔を見る。兄妹だけあって、寝息の拍子もそっくりだ。

 気配に気付いたのか、キクノが目を覚ました。目をこすりながら欠伸をする。

「おかえり。ジェンド」

「ただいま。ぐっすり眠ってたな。人が関係改善に尽力してるのに、暢気なもんだ」

 ジェンドはわざと意地悪く言った。キクノはばつが悪そうにした。

「仕方ないでしょ。こんなのんびりできるのは久しぶりだったんだから」

「そうみたいだな。涎がすごい」

「そういうことは早く言いなさいよ」

 慌てて口元を拭う。ジェンドは声に出して笑った。キクノは肩の力を抜く。

「その様子だと、皆との話し合いは上手くいったみたいね」

「うん。俺が戦う理由を話したら納得してくれた。可能な限り手助けもするって。約束だからと」

「約束? どういうこと」

 眠っている彼女の兄を見る。初めて会話したときのことが蘇った。

「前にスピアースが言ってたんだ。エナトスが滅んだのは自分たちにも責任がある。だからできる限りのことをする。これはロフォス・エザフォス全員の総意だ、とね」

「あの人たちらしいわね」

「ただ階級戦の手伝いはできないと釘を刺されたよ。無理もないけど、しばらくは今の生活が続く」

 ジェンドはエスミア区に住み始めてから、ほぼ毎日のように遠征していた。正式な湧士ではないため、資産としてのマタァは遅々として貯まらないが、構わなかった。地道に戦い続けているのは階級を上げるためではない。

「こういう話ができて、向こうもホッとしていたみたいだ。嬉しかったよ」

「ま、こんな僻地に住もうってんだもの。彼らが嫌いな成り上がりとは違うってことよ。それがわからない騎士じゃないわ」

 キクノは茶器に手を伸ばす。

「それにしても、あんたは少し変わったわね」

「俺が? どこが」

「初めて会ったときは、軽口を言うような人間とは思わなかったから。無口で愛想がなくて、切羽詰まった優男にしか見えなかった」

「ひどい言われようだ」

「安心なさい。今は普通の優男よ。体格だけは立派だけどね」

 美味そうに茶を飲む。『昔に戻ったみたいですね』と使い魔に言われ、ジェンドは頭を掻いた。

「スピアースの具合はどうだ」

「相変わらずよ。まだ眠っている時間の方が長い。外を出歩くのはもう少し先になりそう。本人はすごく動きたがっているけどね。私も驚くくらい」

 キクノは、自分と同じ色をした兄の髪先を撫でた。

 グリオガの力により復活を果たしたスピアースだったが、完全に元通りとはいかなかった。四肢が思うように動かないのだ。グリオガによると、肉体の一部分から全身を再生したためらしい。魂が末端まで浸透しないうちはしばらくこの状態が続くのだという。ルテルでもどうにもできなかった。

 神であるバンデスならばよい智慧を持っているかと思ったが、幻影舞台での戦い以来、彼は話しかけてこなくなった。ジェンドの呼びかけにも応えないので、仕方なく、こうして安静第一にさせている。

「目が覚めたら金ミツを持ってこよう」

 怪訝そうにこちらを見るキクノに、ジェンドは笑いかけた。

「スピアースに世話になったとき、もらったんだ。お返しができればと思って」

「じゃあ、後で作り方を教えてあげる。あんたのおかげで兄さんの世話ができてるんだから、これくらいさせてよ」

「助かる」

「だけど兄さん、こう見えてミツにはうるさいの。下手な配合したら怒られるから、気合い入れて覚えなさいよ」

 ルテルが手拭いを抱えて飛んできた。眠り続けるスピアースの枕元に降り立つと、彼の額を甲斐甲斐しく拭き始めた。

「ルテル、私がやるからいいわよ」

『いえ、お気になさらず。スティマスの大事な恩人ならば、私にとっても大事な人間ですから』

「あんたも変わったわね。こうして見ると兄さんの方が主みたい。大変ねジェンド。大事な使い魔が他の人間のところに行っちゃうわよ」

「いい傾向じゃないか」

 意地悪く言うキクノにジェンドは本心からそう答えた。人形のようだったルテルが、こうして自分の感情を素直に表現し、他人と接することができるようになったのだ。喜ぶべきことだと思った。

『スティマスの次に出会った人間だからでしょうか。スピアースには親しみを覚えるのです』

「ルテル、ここは任せた。俺は食事の準備をしてくる」

『はい。お任せ下さい。スティマス』

「今日はピオテースが来たお祝いに、盛大にやりましょう。ジェンド、私ラクスが食べたい」

「悪い、ラクスが何なのかわからない。後で作り方を――」

「冗談よ。たまには甘い砂糖菓子が食べたいなと思っただけ」

 言ってくれれば作るんだがと思いながら、ジェンドは部屋を出た。

 故郷では自活が基本だったし、幼い頃から炊きだしの手伝いを続けてきたから、料理にはそれなりに覚えがある。時折、エナトスにはない食材を使ってキクノが調理することもあったが、ジェンドと違って作り方の決まりにこだわらないため味の当たり外れが大きく、結局「料理は堅実がいいわね」と本人がさじを投げ、最近はもっぱらジェンドが炊事を担うことになっている。

 気を取り直して、台所に立つ。下ごしらえの手順を頭の中で組み立てながら腕まくりをする。

 左腕に違和感を覚えた。血管を小虫が歩いているような疼痛。袖をめくって露わになった皮膚を凝視する。ジェンドの見る前で火傷痕が消えていく。肘から前腕、手首、掌と傷痕が小さくなるとともに、疼痛も指先へと移っていき、やがて皮膚が本来の色を取り戻すと同時に痛みは嘘のように消失した。

「……バンデス?」

 つぶやく。つい数分前までの満足感は不安に反転した。

 ジェンドの感情に反応するように、建物中に張り巡らされた朱の紋章水が光を放った。後退る。直後、短い悲鳴が聞こえて、ジェンドは寝室へと駆け込んだ。

 そして、たたらを踏んだ。

 勢いのまま前に出した足が、何もない空間を踏み抜きそうになったのだ。

 スピアースが眠っていた寝室に、大穴が開いていた。わずかに残った床部分に座り込み、キクノが切羽詰まった表情で兄の名を叫んでいる。

「これは、いったい」

「わからないわ! いきなり部屋が朱く染まったかと思ったら……兄さん。兄さん!」

 キクノが身を乗り出した拍子に、床板の端が折れて穴の中に落下していった。わずかな風切り音が聞こえただけで、あとはいつまで経っても何も響いてこない。ジェンドは無意識につぶやいた。

「深すぎる。それに広い」

 エナトスで幾度も鉱山に潜って培われた感覚が、ここは危険だと告げてくる。

 キクノが大きく深呼吸した。慎重に足場を確認しながらジェンドの側までやってくる。

「ジェンド。力を貸して。あなた確か、拘束の綱を作り出す術を持ってたわね。それを穴の底まで垂らせないかしら」

「やってみる」

 ジェンドは左手を床板の縁に置いた。これまでやってきたように、頭の中で心象を作る。

 しかし――紋章術は発動しなかった。

「まさか、ルテルがいないから……?」

「そういえばあの子、兄さんと一緒に落ちていった」

「なら、きっとルテルがスピアースを守っているんだ」

 ジェンドのところに戻ってこないのは、きっとそのため――「だから大丈夫」と自分に言い聞かせる。

 いまだ朱く輝き続ける壁の水に手を突っ込み、再び集中する。だが結果は同じで、術が現れる兆しすらなかった。

 二人は焦っていた。不安が頭を巡る。彼らの呪縛を解いたのは、翼竜ピオテースの一声だった。キクノの手を引き、ジェンドは玄関口へ走る。寝室の扉をくぐった直後に扉枠と木板に亀裂が入り、木くずをまき散らしながら崩壊する。穴が拡大している。

 玄関が見えた。通路に設えられていた棚が安定を失い倒れてくる。咄嗟にキクノを庇い、右前腕で棚を受け止める。頬に茶器や皿が容赦なく降り注ぎ、口内に鉄錆の味が広がる。キクノが腰に抱きついてきて、棚の下から跳躍し、脱出する。

「ピオテース!」

 外に出ると同時にキクノが叫ぶ。すでに控えていた翼竜が身をかがめ、乗るように促す。腰を落ち着ける間もなく、ピオテースは力強く大地を蹴る。羽ばたき一つで数メトルの高度を稼ぐと、その場を離脱する。

「ジェンド。家が」

 キクノが指差す先で、家屋が崩れ落ちていった。

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