15

𠮷田 樹

プロローグ

 その日も空は曇っていた。別に日が差していないわけじゃないのに。それは俺の心のようでもあり、彼女の心のようでもあった。


 何となく起床した朝。それが、今の俺の状況にぴったりあう言葉だろう。それでも八時半に家を出たのは習慣以外の何物でもない。

いつものことだ。


 向かいの一軒家からセーラー服を着た一人の少女が出てくるのも。それは、いつも通りの光景だった。


 彼女の……清水望月の顔を見る。それは、不安な気持ちがそうさせた。家を出た彼女の表情。見えない。それは物理的に。風によってさらわれた彼女の長い黒髪に遮られて。


 俺の視線に気づいたように彼女は髪を押さえつけこちらを見てくる。その瞬間、心臓が止まりそうになる。こぼれんばかりの黒い瞳。いつも明るく輝いていたその瞳。それが、あの空のように曇っている。


 俺の空が曇っているのは彼女のその瞳が原因で、そしてきっと、彼女の瞳が曇っているのは俺の何かが原因なんだ。わかっていてもわからない。だからもどかしい。声をかけたいのに。その言葉が見つからない。だから、


「おはよう」


 と、彼女から言ってくるのを待ってしまう。必ず彼女が言ってくれる言葉。でも、嬉しさはなかった。自分が何も気づけない、そのふがいなさを突きつけられているようで。彼女のよどんだ声は俺をさらに息苦しくさせる。


「おはよう」


 と、俺が返したころには、無視するように歩き出してしまう。聞きたくないのだろうか、俺の声なんて。なら、なんで彼女は話しかけてくるのだろう。


 わからない。


 靄はただ、濃くなるばかりだ。


「おい、ちょっと待てよ」


 うわべだけは強気でいられる。


 内心おびえているくせに、それを表に出したくなくて、それを彼女に知られたくないから彼女を呼び止めようとする。


「……」


 でも、彼女は何も言ってくれない。これもまたいつものことで、無性に腹が立つ。たぶん自分に腹が立っている。自分に腹が立っているのに彼女に腹を立てているような気がして、むしゃくしゃする。


「っ……」


 声は声にならない。声にしたらきっと後悔する。それは、自分の無力さをぶつけるための声だから。


「おはよう」


 ふいに飛び出たその言葉に足が止まる。彼女のその言葉は彼女の友人に向けられた言葉で。


「おはよう」


 と、彼女の友人は返す。それに彼女は笑って見せていた。曇った造り笑顔。でも、それは間違いなく笑顔で。俺に向けられることのない表情で。


 彼女の友人の存在が自分より上なのだと思うと、無意識に唇をかんでいた。


 自分に向けられない彼女の感情がどうしようもないほどほしくて、今度は彼女の友人に嫉妬する。でも、彼女のことも、友人の顔さえ見られない。俺が見つめるのは地面だ。それはきっと、彼女に向けられる言葉を持ち合わせていないからだろう。


 自分の足は止まったままで彼女との距離は開いていく。彼女を気遣う友人と、彼女が見せる気丈なふるまいを見つめ、その開いた距離を感じた。


 感じた距離はどの程度なのだろうか。わからない。教えてほしい。1メートルだろうか。10メートルなのかもしれない。15メートルでもあるかもしれない。


 教えてほしい。


 もう一つ、教えてほしい。



 彼女と俺の距離がもう一度、15センチになるのかを。

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