僕たちの距離
タツノオトシゴ
僕たちの距離
『どうか、私が先に彼の前からいなくなっても、彼の傍にいさせてください。それが、私にとっての最大の喜びであり、最大の悲しみでもあります。どうか神さま、この
○○○
目覚ましが忙しなく叫ぶ。
夜が明け、朝が来た。心地よい雀のさえずりと蝉のやかましい鳴き声が僕の耳に届いてくる。
八月は中旬。夏真っ盛りのこの時期、僕たち高校生のほとんどは夏休みの終わりに差し掛かっている頃だろう。それは僕とて例外でない。
今日は僕の幼なじみで、去年の夏からは彼女で僕の全てを預けた
朝の準備を手早く終え、玄関の扉を開けると、一段とやかましくなる蝉の声とむっとした暑さが僕を出迎えた。そして門扉の脇には──
「あ、おはよ!
純白のワンピースに、肩までかかった黒色の長髪。その上には麦わら帽子を被っている。
風流は扉が開く音に気づいたのかワンピースの胸元をパタパタとさせながらこちらに振り向き、にこやかな笑顔で出迎えてくれた。それだけで僕にまとわりついていた夏の嫌な熱気も吹き飛んだように感じられた。
「おはよ風流。僕そんなに遅かったかな?」
「ううん、ぜんぜん!早く会いたい一心でやったことだから!ここに来たのも五分くらい前だし!」
「そ、そうか」
にこっと笑った顔をされたのが妙に照れくさくて視線が地面に落ちていた。とりあえず早く勉強をするレストランへ向かうことにしよう。
僕が無言で歩き出すと風流は後ろから、声をかけてきた。まだなにかあるのだろうか?
「待って!」
「ん?どうしたの?」
振り向きながら聞き返すと、
「手、繋ごっ!」
笑顔を絶やすことなく要求してくる。それを拒むことはできるはずもなく、照れながらも左手を差し出した。それをにこにこしながら風流の右手が握り返してくれた。手汗がにじみ出ていないか不安でならない。
「えーと、暑く、ないかな⋯⋯?」
「私たちの愛にかかればこんな暑さ、どうってことないよ!」
あまりの勢いに僕はただ従うしかなかった。
レストランは市街地のほぼど真ん中にあり、従ってそこへ行くまで僕たちの行いは街行く人たちに見られることになる。なにをしていたかと言えば、いきなり風流が僕に抱きついてきたり、頬にキスをしてきたりと過度なスキンシップを図ってきた。いつものことで慣れているが、それは二人きりの時だけで、こんな公衆の面前でやったことなんて一度もなかった。
恥ずかしさのあまり早足になり、風流の手を引く形になっていた。そのおかげと言えばいいのか、いつもより十分も早く到着した。
「ちょっとー、なんでそんなに急ぐのさー」
息苦しそうに胸を押さえ、息を切らしながらも、不満そうに唇を尖らせながら僕に聞いてくる。
「あれはさすがに恥ずかしすぎるよ!ああいうのは二人きりの時だけにしてちょうだい!」
ここで僕は重大な見落としをしたように感じた。そこを的確に射抜いてくるのが風流だ。
「じゃあ、誰にも見られてないならもっと大胆なことをしてもいいんだねぇ?」
いやらしい笑みで僕を見つめてくる。なんのことか最初は理解できず、答えに窮したが、だんだんと本意を理解すると僕の顔は真っ赤になった。
「な、なにを言ってるの⋯⋯!僕はそういうつもりじゃ⋯⋯」
「ふふ、わかってるよー。もう、類は冗談が通じないんだからー」
多少不満だったが、この場はこれでおしまいだ。風流もそれを悟ったのかやや小さめの手提げバッグから筆記用具とワークと教科書を取り出すと、黙々と勉強を始めた。
僕はひとまずレストランに来たからには何かしら注文しないといけないと思い、メニュー表を開きお昼までの間食がてらサラダとドリンクバーを頼むことにした。
「風流はなにか注文しないの?」
「私も類と同じのでー」
素っ気なく返されたが聞きたいことは聞けたので充分だ。
呼び出しボタンを押し、十秒とかからず来た店員さんに注文して僕も勉強を開始する。
時刻は既に昼を回っていた。サラダを食べたりドリンクバーを飲みまくってはいたが、そろそろお腹もそれだけでは満たされなくなってきた。時間もちょうどいい頃だし、僕たちは昼食を取ることにした。
「そろそろお昼にしない?」
僕が問いかけるとすぐに返事があった。
「じゃあ私はナポリタンで!」
果たしてこれはカップルの定めというものなのだろうか。
「実は僕もそれにしようと⋯⋯」
「ふふふっ、私たちやっぱり相性いいねッ!」
さぞ嬉しそうに笑っている姿を見ていると僕まで可笑しくなり、一緒になって笑った。
「じゃあ注文するね」
呼び出しボタンに手を伸ばしながら問う。
「うん!」
その後、注文した品々がテーブルの上に並べられ、あれこれ話をしながら食べていたらそれらを平らげるのに一時間もかかった。
食事を済ませ、ドリンクバーを注いでそれを飲み干して僕たちはレストランを後にすることにした。これは風流の提案だ。
店を出ると店内の北極のような寒さとは一転、蝉のやかましい声とじめじめとする嫌な熱気が僕たちを歓迎した。
歩き出したところで、隣を歩く風流の方に顔を向け、
「どこか行きたいところでもあるの?」
聞くと、すぐに返事があった。
「久しぶりのデートなのに、ただ勉強して終わるのもつまらないでしょ?だから別のことするの!」
「今日は勉強だけをするんじゃなかったっけ⋯⋯」
勉強会と称した僕を家から引きずり出すための口車だったのか?
「街の中心まで来てあれだけど、ちょっと街の外れにある展望台に行かない?ほら、街を見渡せるあそこ!」
風流の言う通り、街の外れに小高い丘があり、そこに最高の眺めの場所がある。だとするとここからバス移動になる。
「なら早くバス停に行かないとね」
ここからバス停まで歩いて五分くらいだ。
時刻表が気になる。急ぐことにしよう。
自然と、いつもの僕たちの『距離』になっていた。肩が触れ合うか触れ合わないかぐらいの絶妙な距離。それが僕たちの距離。心地よい距離だ。
手を繋げばそれはもう恋人結びになってしまう。それを僕たちは当たり前のことだと思っていた。
バス停に着き、丘のある
〇〇〇
バスの中で風流はずっと因数分解の公式を口ずさんでいた。
「そんなに練習しなくても、試験はまだ先だよ?」
「甘いよ類くん!備えあれば憂いなし、だよ!」
使い方がなにか違うような気がした。しかし、続く風流の言葉でその思考は遮られた。
「はい、これ!」
手提げバッグからなにかを取り出し、僕に差し出す。それを受け取り、見てみるとそれはミサンガだった。
「これが切れたら、私たち結婚しよ!」
冗談とは思えない剣幕に僕は茫然とした。
「⋯⋯これ、僕たちが卒業する前に切れると思うよ?」
「その時はその時だよぉ!」
とてもだが彼女を養える自信はない。そもそも高卒で結婚などこれっぽっちも考えていない。
とりあえず、ミサンガを右手首に巻き、結ぶ。風流も僕のを真似して右手首に巻いている。
「これでおそろいだねっ!」
本当はこれが目的なのだとわかり、僕は微笑んだ。
二十分ほどでバスが目的地に着いたので降りることにする。運賃は二百円だ。
「それにしてもこのバスの運賃って安いなー」
バスの走り去る姿を見送りながらそんなことを呟いた。
「さ!いこ!」
不意に手を引っ張られ、転びそうになるのを必死にこらえて風流に文句を言った。
「ちょっと!いきなり引っ張らないでよー!転んだらどうするのさ!」
「へっへーん!」
風流は僕の手を引っ張ったままにこやかに笑って見せた。
「もう、こうなったら僕だって⋯⋯!」
風流の手を解き、彼女と並走する。
「やるなっ!じゃあ展望台まで競走だっ!」
そこまでの道のりは僕も知っていたので承諾した。
「望むところだ!」
道路脇を走っていく。すぐ左はガードレールがあり、それを超えれば真下に真っ逆さまだ。それほどこの道は無理やり作ったような酷いものだった。舗装されてるだけまだマシだが。
途中、道が右と左に別れる場所がある。右は風林方面に通ずるトンネルで左は舗装されてない、徒歩で展望台に行くためだけに作られた道だ。その道はガードレールがないので用心して通る必要がある。ちなみにここはこの街一番の危険エリアとして有名だ。
風流は僕の数歩先を走っている。単に、僕の足が遅いだけだ。
「風流ー!落ちないように気をつけろよー!」
風流は振り向き、
「わかってるよーん!類こそ、私の美貌に見とれて落っこちないでよー!」
──それが、最期の言葉だった。
風流の頭の位置が急激に低くなり、「っっ!」と声にならない声を漏らしながら風流は足場を失った。──ここは、右に曲がらなければならない場所だった。道は右にしか続いていなかった。
一瞬の思考停止の後、自然と僕は手を伸ばしていた。届け⋯⋯届け⋯⋯届け⋯⋯!その一心で。
なぜか僕はこの事態を瞬間的に呑み込んでいた。まるで予測していたかのように、すんなりとだ。そんなぼくが僕は怖い。
「風流ーーー!」
叫んでも風流の体はどんどん見えなくなっていく。そして──
完全に見えなくなった。
でも僕は諦めなかった。今までにないほどの速さで崖淵までいき、まだ届く風流の手を掴もうとする。
──だが、それは風流が静止していればの話だ。
落下していく彼女も必死で手を伸ばし、僕の手を掴もうとしていた。僕もだ。
あと二十五センチ⋯⋯!
あと二十センチ⋯⋯!
あと十七センチ⋯⋯!
あと十五センチ⋯⋯!
あと⋯⋯⋯⋯三十センチ。
あと⋯⋯⋯⋯二メートル。
風流は全てを悟ったかのように手を引っ込め、微笑みを浮かべていた。
そして、雑木林に消え入る寸前に彼女は涙ながらに手を振っていた。
僕はその一瞬を一生忘れることはない。
最後に彼女はなんと言ったのだろうか。僕にはわからない。
──僕の一瞬の思考停止が、彼女を死なせた。
〇〇〇
僕は、崖淵で、崖下を見つめていた。その視界は一センチ先も上手く見れないほど霞んでいた。
「かざ⋯⋯る⋯⋯」
状況を把握できたのにも関わらず、事後になにをすればいいのか。頭が真っ白になって身動き一つとれなかった。
あそこではなく、もっと早くから。そう、バスの中で言えばよかったのだ。「わかってると思うけど、途中からガードレールなくなるから気をつけてね」と。
僕は、支えをなくしてしまった。いっそのこと、僕も飛び降りてしまおうか──
「きみ!なにをやってる!」
荒く腕を引っ張られた。自我のない僕はなにをしようとしていたのかわからなかった。その僕の頬へ鋭い衝撃が加わった。
思い出されるのは、僕がデートを忘れてしまった日の風流だ。
付き合いたての頃、風流の希望で初デートをすることになった。そして当日、僕は完全に忘れていて待ち合わせ場所に行ったのは風流からメッセージが飛んできてから二十分後。待ち合わせ時間からは約三時間が過ぎていた。
会ってすぐ謝ろうとした。しかし、それよりも早く風流は僕の頬へ一発、ビンタをした。その時の風流の見てられない顔を僕は今でも昨日のように覚えている。
本当に申し訳ないことをした。金輪際こういうことがないようにしようと決意した日だった。
だが、その対象は今、僕の隣にいない。
よろよろと立ち上がると、おぼつかない足どりで僕は来た道を引き返した。
「おいどこ行くんだよ!」
「⋯⋯」
何も聞こえない。何も──何も。
バス停まで来た。風流と一緒にあそこまで登ったのより時間が倍以上かかった。さらにここからふもとまで下りなければならない。バスに乗るという判断ができたどうかは言うまでもない。
「⋯⋯⋯」
虚ろな瞳で、おぼつかない足どりで道脇を歩いている人を車の運転手はさぞ迷惑だろう。だが、僕にそんなことを考える余裕は一切ない。
ようやくふもとまで下りた。辺りは既に日は沈んでいた。ここまで来るのに一体どれだけかかったのだろうか。
坂を下ったところに交差点がある。僕は無意識にそこを右に曲がった。
再びしばらく歩き、すると右手に広がる雑木林の中から赤い回転灯のようなものが見えてきた。
そこで僕は我に返った。
「⋯⋯風流?」
脳内を数多の情報が錯綜する。今にも焼け切れてしまいそうなほどに。──そうして死んでしまうかのように
だが、僕は死ななかった。待ち受けていたのは胸の中がぽっかりと空いた喪失感と大切な人がどうなっているかという焦燥感だった。
僕は走った。赤い回転灯目指して、一直線に。
雑木林を突き抜け、視界が開けた。そこには──
「⋯⋯」
一台の救急車と五台のパトカーがいた。そして救急隊の喧騒。担架に乗せられ、ブルーシートに包まれた『なにか』。
「⋯⋯風流ーーー!!!」
叫んで黄色いテープの内側に侵入した。だって、そのブルーシートの中は風流がいると、理解してしまったから。
「ちょっときみ!」
ブルーシートまであと十歩というところで胸元横一筋に衝撃が加わり、そのまま跳ね返された。警察に抑止されたのだ。
「誰だおまえは!」
問い詰めてくる警察に対し、僕は歯向かった。しかし、ここは慎重に答えなくては。
「僕はそいつの⋯⋯彼氏です」
何一つ隠すことなく冷静を装って告げた。拍動は収まることを知らない。
「なら、どうしてここにいる?⋯⋯訂正しよう、どうして彼女がここにいるとわかった?」
「っ⋯⋯!」
答えに窮した。一歩でも間違えれば容疑者にすらなってしまうこの状況、冷静でなくてもわかる。
だが、ここで真実を隠してしまえば風流の存在を否定する行為に思えた。
「⋯⋯風流が落ちるところを、目の前で見たからです」
「なるほど⋯⋯詳しく聞きたいから署まで同行してもらってもいいかな?」
任意同行。つまり僕は今、最大の容疑者になっている。
「わかりました。そこで真実を語ります」
すんなりと頷くのは不本意だったので、僕の言うことは全て本当だ、ということを釘刺すように言った。
そして、パトカーに乗り込み、署まで連れていかれた。
隣に座っているのは、いつも笑顔の彼女ではなく、僕に疑いの眼差しを向ける警察官だった。
〇〇〇
「それでは、あなたの見た全てを話してください」
尋問室にも思える取調室。そこに僕と対面で肘をついて座っている刑事さんと書き取りの警察官一人の空間。その空間は虫唾が走るほど居心地が悪かった。
「えーと、僕と風流は丘の上にある展望台に行こうとしていました。そこで風流がそこまで競走をしようと提案したんです。最初は無理やりだったけど、たまには弾けてもいいんじゃないかって思って⋯⋯二人して子供みたいに走り出しました」
「ふむ、続けて」
まっすぐと真剣な目つきで僕の目を見ながら先を促される。
「そして⋯⋯ガードレールのなくなるところで僕が落ちないように注意したんです⋯⋯それが間違いでした。彼女は振り向き、大丈夫だよと言ってその直後に落ちました。その事実を、僕は一瞬呑み込めなかった。そのせいで僕は⋯⋯僕が、彼女を殺したんです」
やっぱり、あれは僕に責任がある。あの一瞬が、全てを決めたのだ。あの瞬間に僕が足を出していれば──
「わかりました。今日の聴取はここまでです。また別日に来てもらうことになると思いますので、その際はよろしくお願いします」
刑事さんは起立し、僕に向かって一つ敬礼をして僕の返事を待たず部屋を出ていった。それに続いて書き取りの人も出ていった。
「⋯⋯はぁ」
短いため息が漏れた。今日はもう遅い。帰ろう。
時刻は八時を回っていた。それでも僕は片身の寂しさを感じながら、時折丘の方に振り向いたりしながら帰路についていた。
家に着き、ふと門扉の脇に目がいく。そこには今朝、真っ白で無垢な笑顔をした風流が確かにいた。
そうだ、彼女はどうなってしまったのだろう。病院に連れていかれただろうか?手術が必要なのだろうか?入院は?いつ帰ってくる?
頭の中は風流のことで一杯になり、その日の、その後のことは全く覚えていない。
翌日。まだ十時だというのに僕は警察署の取調室にいた。昨日と同じ配置で。
「風流さんは
深々と一礼して部屋を出ていく刑事さん。あまりにも一方的すぎて僕はたじろんでしまった。そして、なにも言えぬまま取り調べは終わった。もう、ここに来なくてもいいと。──もう、なにも聞くことはないと。
警察署を後にし、僕は四ヶ橋病院へと足を向けた。僕の住んでる街で一番大きな、総合病院だ。
昨日の夜から気にしていたことがようやく成就する。そう思うだけで胸が高鳴る。それと同時に、不安にも苛まれた。
──もし、二度と笑ってくれなかったら、二度と手を取り合えなかったら、と。
そんな不安を払い除けるように蝉は鳴く。ミンミンゼミのやかましい声が、悲しみをかき消し、太陽の光とこの暑さが、胸中の闇を明るく照らし、満たしているだった。
病院に着き、受付で部屋を聞くと、風流の『部屋』は地下二階にあるという。
嫌な予感が僕の頭をよぎった。普通の病室は上の階にあるだろうし、集中治療室でもそのうちの一つにあるだろう。
エレベーターの前に行き、恐る恐る下向きの矢印のボタンを押す。
どうやら一階にいたらしく、押した途端扉が開かれた。僕は苛立ちを覚えた。現実から目を背けていられる時間を、一瞬にした奪われたような、そんな感じがしてならなかったからだ。
重々しい足取りでエレベーターに乗り込み、『B2』のボタンを押す。間もなく扉が閉まり、ゆっくりと、降下していく。まるで地獄まで誘われているような気がした。
『ちーん』という無機質な音が目的地に着いたことを知らせる。
エレベーター降り、周辺を警戒するように辺りを見回す。そこは、暗く
エレベーターから続く一本道を恐る恐る進む。突き当たりの部屋まで続く道だ。
そこで僕は、異変に気づいた。──ここには、部屋が一つしかない、と。
扉までたどり着き、『春風 風流』の名前を確認し、ノブをひねろうとして、そこで躊躇う。
このまま入ってもいいのか。──こんな気持ちで。
このまま現実を見てもいいのか。──理想を抱いたまま。
「⋯⋯⋯よし」
一分かけて気持ちの整理をしてノブを捻る。まだ現実を見たくない一心で僕は目を瞑ったまま、感覚だけで中に入った。
がたん、という扉の閉まる音がし、それが消えると静寂に包まれた。
僕は覚悟を決め、目を開ける。
そこに広がっていたのは──
「な───」
思わず声が漏れた。だってそこに広がっていたのは、僕が想像した、『最悪』の光景だったのだから──。
一台のベッドの上に仰向けに寝かされている『なにか』。
真っ白いシーツをかけられ、顔には白いハンカチのようなものがかけられている。
枕元にはロウソクなどが並んでおり、『それ』の最期を暖かく看取っているようだった。
僕はまだ、目の前に広がる光景を呑み込めなかった。
おぼつかない足取りで『それ』の傍まで歩み寄り、顔にかけられたハンカチのようなものを持ち上げる。
「────」
言葉が出なかった。喉の奥でなにかがつかえ、瞬間、全てを吐き出すかのように僕は叫んだ。
「ああああああああ!!!!」
僕の隣から、すうっと『全て』が消えていくような気がした。
〇〇〇
全てが抜け落ちて身軽になったというのは、あながち間違っていない表現だ。軽くなった頼りない体はふらふらとこの部屋から出ていこうとする。視覚では現実を見れても、僕の脳はそれを受け止めることを拒絶していた。ただ、現実から逃げ続けていたいのだ。
途中、何回も躓きながらもやっとのことでエレベーターにたどり着いた。『1F』のボタンを押し、胃が持ち上げられる感覚に嫌悪感を覚えながらも、すぐにちーんという音を合図に扉が開かれる。
広がる世界。喧騒がなだれ込んでくる。
僕は、家路についた。もう、ここに僕がいるべき場所はない。いや、僕の居場所はここに留まらずこの世界どこにもない。なにせ心の拠り所を失ってしまったのだから──。
〇〇〇
あれから一ヶ月が過ぎた。その間に彼女の葬式と埋葬を済ませていた。僕は、ずっと顔を伏せていた。風流の遺影を見たら自分でなくなってしてしまいそうだったからだ。
ピンポーンという音と共に目が覚めた。
目を擦りながら玄関まで降りると、そこには一人の少女がいた。最近会うことのなくなった風流の妹、
「こんにちはお兄さん。今日は届けたいものがあって来ました」
礼儀正しく深々と一礼し、次いで手提げバッグから一通の便箋を取り出す。その手提げバッグに強烈な既視感を覚えた。
「どうぞ」
素っ気なく突き出され、僕は恐る恐る受け取った。なにかとんでもないことを告白される前のように空気が張り詰めていた。しかし、それは風下の一言で崩れ落ちた。
「それでは、私はこれで失礼します。その中に姉の写真が入ってますので⋯⋯姉の意向で」
「ん?」
「それでは」
顔を上げた時には既に彼女の姿はなかった。昔から全く変わってなくて安心した。
自室に戻り、渡された便箋を開ける。
まず最初に出てきたのは、一枚の写真だった。
「これは──」
今年の春、隣県に遊びに行った時に撮った写真だ。海を一望できる場所で、風流に頬にキスをされながら──。
写真に映る二人は、とても幸せそうだった。──これが、半年前の僕の表情とは思えないほど。
写真を大切に胸に抱いてからそっと机の上に置いた。後でフォトフレームに入れるためだ。
そして、分厚い紙の束を取り出す。それは何枚にも渡って書かれた手紙のようだった。
丁寧に広げ、一枚目から熟読する。
一行⋯⋯また一行と、長々と時間をかけて読み進める。目覚めてまだ十分も経っておらず、未だに脳は起動しきれていない。
だからこそ僕は、手紙を身体中で感じながら読めた。
そして、最後の一行。しかし、それは何かに濡れて霞んでいて上手く読めなかった。しかし、僕は『彼女』が書いていたことを察することができた。
その手紙の差出人の名前は──
「⋯⋯風流」
この世界にいるはずのない『彼女』からの手紙だった。
読み終えた途端、なにかがこみ上げてきた。僕は堪えきれず、我慢することなく吐き出そうとする。
「っぐ⋯⋯⋯ぁ⋯⋯」
そして、決壊。
「うわあああああ!!!!!!」
今までにないほどの叫び声を上げた。
〇〇〇
遺言書
まず、私は手紙を書くのが苦手です。文体が敬体になってる時点でもう私の言葉じゃないって気づいちゃいますよね。
おそらく、類はどうしてこんなものを書いているのか、と疑問に思っていると思います。
私は、小さい頃から心臓に病気を患っていました。たまに、心臓が止まる時があって、その度に私の寿命は短くなっていきました。
そして、これを書いている前日。余命四ヶ月と医師に宣告されました。これはもう、どうしようもない事実なのです。
私の命はもうそんなに長く持ちません。ですから、私はこれからを楽しく生きていこうと思っています。もし、これを読んでいる時、あの時は面倒くさかったなと思える場面があったら、それは私が楽しんでいたからだと思って許してください。お願いします。
私と類との出会いは、突然でしたね。幼稚園に行くと類が真っ先に私に話しかけてくれました。その時、私は天に昇るような気持ちでした。嬉しかったです。ありがとうございました。
中学校に上がっていきなり類がいじめられているのを見て、私は止めに入ろうとしました。でも、女子もそのいじめを楽しんでいて、私の立場をなくしたくない一心で見て見ぬ振りをしてしまいました。私は私が許せません。この罪は、一生。ごめんなさい。ごめんなさい。
高校に上がって、いじめもなく、平和な学校生活を遅れるようになって私は安心しました。なにせ、類と同じ高校に入学できたのが至高の喜びでした。
夏に入って、私は思い切って類に告白しました。最初は類に好きな子がいるんじゃないかと不安でしたが、その場で頷いてもらえて、私は嬉しかったです。ありがとう。ありがとう。でも、デートを忘れられた時は本当にショックでした。でも、もう咎めたりしません。許しています。気にしないでください。
まだまだこれからだというのに、もうお別れしなきゃいけないということが心残りで胸苦しいです。私の体がこんなに貧弱でなければと後悔してもしきれません。それは、私の親を否定する行為だからです。これは仕方のないことだと、受け止める他になかったのです。
そろそろ指が疲れたのと、息が苦しくなってきたので終わりにしたいと思います。
たくさん悲しい思いをさせてごめんなさい。たくさん楽しい思いをさせてくれてありがとう。
付き合ってくれてありがとう。いつまでも類の傍にいます。でも、そのことは気にしないでいい人と巡り会ってください。
私がいなくなったからだと言って、自分の殻に閉じこもらないでください。いつもの、私の前のような類であってください。それが、私の最後の願いです。
ごめんなさい。ありがとう。よろしくお願いします。────。
早風 風流より 記︰12月25日
〇〇〇
涙が、止まらなかった。一粒、また一粒と溢れ出てくる涙。今までにないほど泣いた。
涙を拭い去り、僕はありったけの想いを文章に綴った。
〇〇〇
Re︰遺言書
早風 風流へ
元気にしてますか。実はのことを言うと、僕も手紙を書くのが苦手です。堅苦しくなってしまいますが、どうか最後まで読んでください。
風流の気持ち、読みました。正直手紙を貰えたこと自体驚きでしたが、ましてや僕があんな状況になってる時を狙って風下ちゃんが手紙を渡してくれるとは、よくできた妹を持ってて羨ましいです。
僕は風流を初めて見た時、なにかに惹かれました。そのなにかがなになのかは未だにわかっていないのが辛いです。あの日、帰宅後に一緒に公園で遊びましたね。遊具を使って騒いだり、二人だけでかくれんぼをしたり、追いかけっこをしたり⋯⋯あげたらきりがありません。
余命の件。僕に話してくれなかったのが残念です。でも、それは僕のことを気遣ってやったことだと信じてるので許します。苦しくしているのに気づけなくてごめんなさい。
僕がいじめられた時。風流が介入してきてくれなくて嬉しかったです。僕の弱いところは見られたくなかったからです。ありがとう。
高校に入って告白された時。僕は僕の小ささに落胆しました。しかし、それを上回る喜びを風流は僕に与えてくれました。ありがとう。
無理して書いてくれてありがとう。どうやら僕は風流よりも文采がないようです。まだまだ書きたいことがあるけど、またの機会にしようと思います。
風流の願い、聞き届けました。僕はたくさんの人と交流します。もっと友だちを作ります。だから、気にしないでください。大丈夫です。
風流には散々助けられました。頭が一生上がらないほど。これほど短い期間で。ありがとう。ありがとう。
最後に、風流。僕のためらいが君を死なせてしまいました。この罪は一生かかっても償いきれない罪です。だから、僕は一生この罪を背負い続けます。だから、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。ごめんなさい。ごめんなさい。
よく生きた。
さようなら。
黒住 類より 記︰9月15日
〇〇〇
最後の一文。これは風流が書きたかった言葉。風流の手紙の最後の一文。僕はわかっていた。風流はそういう人だと。大事なことは最後まで残しておく人だと。
最後に空っぽになった便箋を逆さまにして本当になにもないか確認した。
すると、一本のやや太い糸が落ちてきた。見覚えのある『それ』は見間違えることのない、ミサンガだった。そのミサンガは役目を果たしたかのように切れている。
僕は机の引き出しからハサミを取り出し、自分の右手首に巻かれているミサンガをぱっつんと断ち切った。そして宙を舞って地面に落ちたそれを拾い上げ、次に密かに入手していた修学旅行の風流だけ映ってる写真と僕だけ映ってる写真を学習机の隅っこに並べた。十五日の今日に因んで距離は十五センチ、定規で丁寧に測ってから後ろに支えを置いて並べた。こうやって見ると、意外と僕たちの距離に近いかもしれない。
その間には、手紙に入っていた写真と、ミサンガと貰った手紙と今書いた手紙、その全てを並べて。
僕は風流だけが映ってる写真を見つめながら、
「返事、待ってるよ」
と、呟いた。
そのちょっと右には楽しそうに笑う二人がいた。
ポタリ、ポタリと、雫の落ちる音が静寂な部屋に響き渡っていた。
完
僕たちの距離 タツノオトシゴ @tatsunootosigi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます