第13話 その8「ずっと、ずっと、前に」
誰も、今の状況を理解できていなかった。攻撃から助けるために片穂を突き飛ばした司すら、自分の状態に気付いていなかった。
片穂への奇襲のほんの少し前に、校舎の陰に隠れていた司は片穂が倒し損ねた悪魔の存在に気付いた。
そして、その悪魔の手に持つ槍を見た瞬間、司は悪魔の奇襲を予感した。片穂の元へ走り出した司は、悪魔の存在を片穂に知らせようと声を出した。
しかし、倒しきったと勘違いしていた片穂は司の声に気付かず、導華の方へ意識が集中していた。片穂の元へ走りながら目線をずらすと、悪魔が槍を投げようといるのが視界に入る。声を出しても届かない。
焦る司の頭には、片穂を助けるいい方法が思いつかなかった。考えている時間なんてもうない。もう悪魔は槍を放つ直前で、今伝えても片穂が反応して回避する可能性は少ない。司は片穂を助けるために行動を取る。
そして、司は片穂を突き飛ばした。
司は槍が刺さる衝撃で横に倒れる。最初、司は槍が自分に突き刺さったことに気付かない。気付いたのは、突き飛ばした片穂に怪我がないのを確認して、安心した瞬間だった。
腹部の違和感。それに気付いてから、痛みが遅れてやってくる。
―――痛い………痛い…? ……痛い、…痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
脳が、神経が、ようやく状況を理解して緊急信号を全身に送る。その信号は、痛みとして、司の体を駆け巡る。
「うぅ……ぐ……」
声が出ない。痛みが声を出すことを許してくれない。声を出そうとしているが、出来ないまま呼吸がどんどん速く、浅くなっていく。
ほんの数秒で自分が息を出来ないと錯覚する。吸えない。吐けない。苦しい。痛い。寒い。痛い。
命が、溢れていくような感覚。槍が刺さったままで出血自体は生命の問題ではないのだが、怪我をしている本人には血が大量に出ているように感じられる。
もうどこが痛いのかも分からない。頭も、胸も、腹も痛い。寒気や頭痛、吐き気も激痛に追加されて、さらに司を苦しめる。
体が苦痛に支配される中、自分の視界に片穂がいることに、守りきれたことに気付く。
よかった。片穂を守れた。
司はここでようやく自分の心の違和感に気付く。何で自分が片穂を守るために、命を懸けてもいいと思ったのか。
何で自分がここまでの重傷なのに、守れてよかったと安堵しているのか。自分の心の動きが自分でも分からない。
思考を巡らせようとする司だったが、痛みが再び司の脳を支配する。
「うあ……うぅ……ああぁっぐ」
声にならない声が体の深いところから漏れだしていく。
突き飛ばされた天使は、司の呻き声を聞いてようやく目の前の光景の意味にようやく気付く。
「司……さん? 司さん! 司さんッ!」
倒れている司に駆け寄り、腹部を貫く槍を目の当たりにして、片穂はようやく司が自分のために身を呈して守ったことに理解する。
「い……いやぁあああぁぁあぁああ!!」
司を攻撃した悪魔を片穂は一瞬で消し去る。しかし、乱れた心に任せた攻撃は裏目となる。
片穂の攻撃で消滅した悪魔と共に、司に刺さっていた槍も消えてしまったのだ。
槍が消えた瞬間に、司の出血量が跳ね上がる。槍が傷口の蓋になっていたため出血量は致死量には程遠かったが、その蓋が外れてしまった今、腹部の空洞から大量の血が溢れだす。
瀕死の司に気付いた導華だったが、助けに行く余裕は一瞬たりともなかった。
「司!? クソッ。治してやりたいのは山々なんじゃが、背中を向けてそっちに行けるほどこいつは簡単な相手ではないからの」
導華の視線は、堕天使から一瞬も離れず、ひたすらに攻撃と防御を繰り返す。
「よそ見させるほど、俺は甘くないぞ天使よ」
「そんなの最初から知っとるわ! このボケがッ!」
天使の鉄拳が炸裂し、両者の間に大きめの隙間が開く。
「すまない片穂! 司はお前が治せ!」
戦いを続けながら導華は片穂に叫ぶ。
「私が……?」
片穂は自分の目の前で倒れている司を見下ろす。腹部からの出血は留まる気配を見せず、司の体から今も溢れ続けている。
迷っている時間なんてない。しかし、片穂は治療に天使の力を使ったことが今まで一度しかない。
天界で勉強している時に導華に治療のやり方を教わったことはあるのだが、力の制御が下手な片穂には向いていないと言われたきり戦いの技術の向上に努めてきたのだ。
そのため今まで治療に成功したのはかつて一回のみ。加えてその一回は自分でも奇跡だと思うほどの偶然の産物だった。そんな奇跡がもう一度起こるとは思えない。
それでも、導華がアザゼルと戦っている以上、この場に司を治せる可能性を持つ存在は片穂以外ありえない。
やるしかない。全身全霊を懸けて力の制御に集中をしなければ。
司の傷口にそっと両手を置き、片穂は目を閉じて力の制御に全神経を集中させる。
治療を始めようとしたその時、司が口を開く。
「けが、ないか。かたほ……」
実際、司はすでに瀕死の状態で意識も朦朧としている。急激な血液の流出はどんどんと致死量に向かっている。絶命までも時間の問題だった。
しかし、死の淵が見えた瞬間に、自らの脳が司を動かした。
司の視界はすでにぼやけてほとんど見えていない。その上、聴力も著しく低下している。それでも司は感じたのだ。優しい、温かい心が、天使が、片穂がすぐ近くにいることを。
すぐに、片穂は返事をする。司の意識を途切れさせてはいけない。魂を肉体に留めなければいけない。
「私は傷一つありません! でも、でもぉ……。司さん。司さん……」
返事をするだけだったのに、涙が堪え切れない。泣きたくないのに、溢れて止まらない。
悔しい。不甲斐ない。司を守れなかったことが。大切な人が自分の身代りに命を落としそうになっていることが。力がない自分が憎い。
自分の頬に涙が落ちるのを少しだけ感じて、ようやく司は片穂が泣いていることに気付く。
「なくな、かたほ。むかし、とうさんがいってたんだ。大切な女は、死んでも守れ、って」
「あなたは……またそうやって……言ってくれるんですね……」
そっと呟くと、弱々しかった片穂の表情が少しずつ決意で固まっていく。
そして、涙を無理やり止める。
この人は、死なせない。絶対に死なせない。死なせる訳にはいかない。
弱気になるな。強くなるって決めたじゃないか
私は天使、天使なんだ。奇跡の一つや二つ、起こせないでどうする。
―――覚悟を決めろ。私以外にこの人を助けられないんだから。
「天使カホエルの名に懸けて、あなたは絶対に死なせない!」
天使カホエルの治療が始まる。傷口を押さえる両手が輝き、優しい光が司の腹部に空いた穴を満たし、修復する。そして天使の力が司の体に流れる。天羽片穂の一部が佐種司の中に流れ込む。
流れ込む力によって、少しずつ司の思考が復活する。それと同時に先ほどの自分の言葉に対する不思議な感覚に気付く。デジャヴとでも言えるような、そんな感覚。
―――あれ? この感覚、なんだ?昔も俺はこの言葉を言ったような気がする。誰に? 片穂に? でも、片穂と出会ったのはつい先日の事、他に会った記憶なんて…
司はさらに思考を巡らせる。そして、天使カホエルの一部が司の奥底に眠っている凍らされた記憶を解凍する。それが心に、魂に刻まれた記憶に結びついていく。
何かを忘れている気がする。大切な、忘れてはいけない何かを。
胸の奥で何かが引っ掛かっている何か。何だ? 何を忘れた?
俺と片穂の間で、何があった? 俺は本当に、初めて片穂に会ったのか?
脳が、血液が、心臓が、心が、魂が、それを否定する。
違う。初めてなんかじゃない。俺は出会っていたんだ。あの時に。
外から流れ込んでくる記憶と、中から溢れてくる記憶が交わり、一つになる。
そうだ。なんで俺は忘れていたんだ。あんなに大切な気持ちを。
繋がる、記憶が、思い出が。欠けていたものが埋まっていく。
なんて長い間、忘れてしまっていたんだろう。
ようやく、思い出した。あの時の記憶が頭の中に濁流のように流れ込んでくる。
俺は、片穂と出会っていたんだ。
ずっと、昔に。田舎に住んでいた頃に。
俺は、今みたいに片穂に命を繋いでもらったんだ。
ずっと、ずっと、前に――――
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