義翼の空
魚谷 羊
第1話 銷魂
2050番。
青年が三年間追い求めた数字は、沈痛の底に沈んで浮かび上がることはなかった。
「茨木大学人文科受かりました」「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」
携帯が珍しく鳴る。何事かと画面を覗き込むと、生気の抜けた青年の顔とLINEの通知が数件きていた。
また今日も、誰かが夢に一歩近づいたのだろう。感情を感じさせない賞賛の言葉が5件を超えたあたりで通知を切る。青年の胸に
非生産的な日々がどれほど続いたのだろうか。青年にはそれを確認するほどの余裕もなかった。体温を感じさせない左足を
「——友平。ご飯できたよ」
どれほど
「お腹空いてない。後でいい」
「ダメ。お父さんが話があるって」
「はぁ……?」
友平の顔にさらに深いシワが刻まれる。別に今更説教なんて気にしないが、食事の時間に合わせるとは珍しい。長くなりそうな予感に眉をひそめながらも、友平はおもむろに立ち上がった。
引き戸から半分身を乗り出して、ひどく
「何」
「座れ」
既に食事を終えた父は、有無を言わさずに命令した。友平は舌打ちをしながらも
「友平。浪人するのか、別の道に行くのか決めたか。時間はあったはずだ」
「……もういい。適当にやりたいことをやる」
もう自分の人生なんてどうでもいいと言わんばかりの返答。それを聞いた父の眼光が一層鋭くなった。本能的な恐怖が背筋を走るが、ポーカーフェイスを貫く。
「——わかった。ならもうお前を家に置いておく余裕はない」
「出てけ、と?」
確認するように聞き返すも、家から出れるのならば願ったり叶ったりだ。
「夏までだ。夏までに荷物をまとめて出て行け」
「言われなくも」
友平は吐き捨てた。それは精一杯の強がりに見えたかもしれない。
その後冷静になって考えてみれば、今すぐに出てけと言われなかったのは友平が一人暮らしのスキルも足りず、今放り出しても苦労するからと判断したのだろう。付け足しのように仕送りもすると告げられ、否が応でも
その日の夜、友平の部屋に母が訪れた。無干渉を貫くのかと思っていたら、友平らのやり取りをしっかり聞いていたらしい。ただ恐らく父と結託し、不器用な父の代わりに真意を伝えにきたように思えた。
「岐阜……ねぇ」
片手でペンを回しながら、友平は憂鬱そうに呟く。
曰く、岐阜の方にある別荘で夏からはそこに住めという話だった。無駄に金があるからこそできることである。
せっかく自由の身、どこへ行こうかと胸を躍らせていた友平には酷くつまらない申し出だ。
「もう友平は覚えてないかもしれないけど、岐阜もいいところだから」
「避暑地としてだろ。定住するとしたら話は別だ」
ここ10年は別荘に行ってないため、友平もその存在をすっかり忘れていた。ただ思い出そうと思えば思い出せる、そんなところだ。
岐阜なんてどこまで行っても
友平に一人暮らしのスキルを付けさせ、おまけに厄介者を家から追い出せるというのだから父の判断は英断と言えるだろう。今まで望まずに家族の援助という甘い汁を啜ってきたのだから、独り立ちは前々よりしたいと思っていた。しかし人から、ましてや父から催促されて出て行くのは癪に触る。
「一人で……大丈夫なの?」
母が不安そうに告げる。
しかし母は友平の顔を見ていない。
——左足を、見ていた。
刹那、友平の苛立ちは怒りへと変わる。
「そんな無責任なら初めから言い出すなっ!俺が一人でいけるって判断したから決めたんだろが!」
過剰なアドレナリンが分泌されるのを知覚する。激しい熱が込み上げた。肩を上下させ、母を睨む。
「ごめん……その通り。口が滑った。もうリハビリが必要な時期でもないしね」
母は申し訳なさそうに呟く。しかし友平が陥った興奮状態は消えてくれそうにもない。
「……出てけよ」
一人にしてくれ。消え入るように友平は言った。
それは友平が小学生の頃の記憶。
下校中、友達とはしゃぎ歩道に飛び出した。あの痛みと車のブレーキ音は容易に頭から離れることを許さない。
ひしゃげた左足、既に元に戻らないことは小学生の頭でも理解できた。
膝下から足を切断することを、運命は幼い友平に迫った。と言っても、友平が事故から目を覚ました時には既に左足の一部は無くなっていたのだが。
当然、まだ幼子の友平は半ば錯乱状態となる。もう容易に鬼ごっこも、サッカーもできない。大人たちも奇異の目で友平を見る。いっそ、死んだ方が楽だったと考えるのも仕方のないことだった。
しかしそんな友平に、光明が差し込む。
——義足を、付けないか。
そんなことを言う医師がいた。
両親も友平に義足を付けさせるように手配しており、友平本人にその話が届くのはさしておかしいことでもなかったが、友平には
その医師は義足のエキスパートとして名高く、直ぐに友平に合った義足が用意される。まさに、義足に血が通った瞬間である。
義足にもレベルがあり、
不幸中の幸いとでも言うべきか、股も膝も残る友平にとってリハビリは短時間で済む見込みだった。
しかし、あるべきものがない。その辛さは、片時も離れずに寄り添った肉親を失うようなものであり友平は何度も折れそうになった。
だがその間も医師は友平に声をかけ続け、励まし続けた。友平に一つできることが増えるだけで、本人以上に喜んだ。そんな医師に、幼い友平は惹かれていくのは自明の理とでも言うべきだった。
——友平の夢はそこで決まる。
リハビリ生活を終える頃には中学生となり、運動ができない代わりに勉強へと打ち込んだ。あの医師のようになってみせる。それだけを胸に。
——しかしそれも挫折した。
絶対に落ちない自信があった。模試も十分に受かる判定をもらっていた。クラスの友人たちも、友平のことを羨望の眼差しで見ていた。なのに、だ。
人は転んだらまた歩き出せばいい。だがもし次も転んだら?
どうして転ぶのだろうか、歩くからである。どうしたら二度と転ばないのか、歩かなければいい。
挫折の味はそれほどまでに友平を苦しめる。どこへでも行くための足がどこにもいけない棒になる。
からっぽの心に虚無と嗚咽が音もなく流れ込んだ。
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