怖くない怪奇小説の書き方

雨音深

第1話 賽銭箱に一万円投げたら釣銭でてきた

 わたしの四方には石の壁。

 床も壁も天井も、無数の石で組み上げられており、

 圧倒的な圧力でわたしを押し包んでいる。

 光はない。物音ひとつなく、静謐と暗闇だけがあった。

 

 照らす明かりもないのに、何故それが見えるのだろう。

 目で見ているのではないのか。映像ではなく、私自身の抽象なのか。

 それは長い長い回廊であった。

 前も後ろも闇は深く、道行の先は何も見通せない。 

 そもそも、どちらが前でどちらが後ろなのかもわからない。

 

 石壁に触れてみた。

 その感触からは石壁がどれほどの時を刻んだものなのか、わからなかった。

 磨耗もせず朽ちてもおらず、かといって新しいとも感じられない。

 あえて表現するならば、時が止まってしまっているとでも言えばいいだろうか。

 

 時間の経過が知覚出来ない。ひどくあやふやな感覚。

 闇に溶け込みかけているような感触。自分自身の輪郭すら曖昧に思えた。

 おぼつかない足取りで回廊を歩む。

 わたしを捉えている重力も、どこか頼りなげだ。

 

 どれほど時が流れたのだろう?

 わたしはなぜ歩いているのか?

 どこへ向っているのか?

 わたしは・・・

 何かを思い出そうとした時、それは聞こえた。

 自らの足音さえ吸い込んでしまう闇の中に、音が響い


 ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ、

 

「心臓止まるかと思った・・・」


 机の上で、釣りたての鯵のごとく跳ね回る携帯を捕獲し、俺は深く息を吸い込んだ。そして思い切り吐き出す。山ほど溜め込んだ不満と一緒に。


「石塚ァ!てめぇ、どういうつもりだ!ゴラァ!」

「あら、センセ。だめですよ。そんな品のない大声出して。時間も時間ですから他の部屋のお客様にご迷惑ですよ」


 真夜中に電話をかけてくるお前の非常識さはどうなんだ、と嘆きつつも俺は手を止めない。この時間帯が俺にとって一番の稼ぎ時だからだ。昼間進まない分はここで一字でも多く稼いでおきたい。片手だけでキーボードを叩きながら


「お前、なんだよ、この部屋!言わすぞ、ゴラァ!」

「おい、なんだ?その言葉使いは。どうやらまだ躾が足りないようだな」

「あ、はい。すんません」

 

 二秒でしぼんだ。俺の戦意。


「センセ、こないだ言ってたじゃないですか。最近、ネタ探しに苦労してるって。だから色々手をまわして用意したんですよ」

 言葉に詰まる俺に、やや間を空けて石塚が言う。なんて絶妙な呼吸。


「相当ないわくつきらしいですよ。その部屋」


 お前は〇川淳二か。


 ここでちょっと状況を整理しよう。


 時は深夜、場所は場末のビジネスホテルの一室。俺は駆け出しのホラー作家で、締め切り前の原稿と格闘中である。窓がびっしり子供の手形で埋め尽くされるとか、備え付けのポットから真っ赤な液体が吹き出るとか、真夜中に呼んでもいないデリヘル嬢の幽霊に訪問されるとか、そんな噂が絶えない部屋に取材兼缶詰にされて、だ。


「ホラー書くにはうってつけの環境じゃないですか」

 

 のうのうと、のたまうのは担当編集の石塚だ。確かに有能な編集者だと思う。鳴かず飛ばずだったこの俺が、まがりなりにも作家として体裁を保てるようになったのは石塚の手腕によるところが大きい。こういう(余計な)心遣いもよくできる御仁だ。


「いや、でも俺、霊感ないし。こんな部屋用意してくれても意味ないと思うし」

「あー?なに?センセ、怖いの?」

「怖くないし。幽霊だとかそんなん、あるわけないし」

「ですよね。センセ、オカルトとか信じてないって言ってましたしね」


 そう。そんなものは現実にあるわけがない。俺は無神論者でリアリスト。非科学的なものは受け入れない主義だ。だからこそホラー作家として成立しているのだ。幽霊だの妖怪だの、そんなわけのわからないもんが実在してたら、ホラーなんて書けるわけないじゃないか。怖くて。


「あたりまえだ。そんな非科学的な・・・」

「ああ、そういえば、最新の量子学で、死後の世界が証明できるかもしれない、とかなんとか、そんな話もあるみたいですけど」

「え?そうなの?」

 

 声がうわずってしまった。携帯の向こう側で蛇のような笑みを浮かべる石塚の姿が思い浮かぶ。


「筆が進みそうですねぇ」

「・・・チッ、嫁入遅いきおくれが」

「ああ?なんだと?聞こえたぞ。あたしがこの手で臨死体験させてやろうか?」

 

 俺は締め切りを破らない。破ればどんな目に合わされることか。俺の担当編集者はどんな怪奇現象よりも恐ろしい存在であった。


 いろいろと思うところはあるのだけれど、しかし確かに、石塚の采配は正解だったようだ。今日でこの部屋に宿泊するのは五泊目だが、原稿が進む進む。この分であれば、明日にでもここからオサラバできそうだ。そのくらい俺は必死にキーボードを叩きまくった。ここから解放されたい一心で。ああ、帰りたい。なぜなら既におかしな現象が頻発しているからである。

 

 まずチェックインからして験が悪かった。フロントで受け取ったカードキーで入室できなかったのだ。何度カードリーダにカードを突き刺してもうんともすんとも言わない。面倒臭いな、と思いつつフロントでカードを交換してもらって再挑戦するも、結果は同じ。ドアの前で途方に暮れていたところに掃除のおばさんが通りがかった。


「どれどれ・・・」

 おばさん、一発開錠に成功してどや顔で

「ちょっとコツがね」

 なにそれ?ホテルで部屋に入室するのにコツがいるって、どんなホテルだよ。そんなホテル聞いたことないよ?あるわけないよね?


 さらに部屋に入ってからも様子がおかしかった。荷物を解き、缶コーヒーで一息入れたところ、尿意を催したわけだが、なぜかトイレに鍵がかかっていた。普通のビジネスホテルの普通のトイレである。ユニットバスでバスタブの横に便器がついてるよくあるアレだ。なんで鍵かかってるの?中に誰かいるの?


 とりあえずフロントに電話すると5分も待たずに客室担当者が飛んできた。マスターキーで開錠してくれたが、ドアを開ける彼の横顔が、心なし緊張に強張っているのを俺は見逃さなかった。


 バスルームの中は・・・無人だった。換気扇の音だけが空しく響く。ここで血まみれのナニか、そのような生モノでも転がっていたら、悲鳴と共に事件が始まったのだろうが、七三分けのホテルマンとオっさんの間に変な空気が漂っただけである。


「いやぁ、掃除のおばちゃんが鍵かけちゃったのかも、ですね。間違って」

 どんな間違い方で掃除中、バスルームに鍵かけるわけ?どんな状況?昔のボタン式の鍵ならいざ知らず、そんなわけないでしょうが、と死ぬほど突っ込みたかったけれどやめた。世の中には知らない方がいいことってあるよね?


 そんな感じで細かくボディブローを刻まれまくった。しかし・・・地味だ。地味すぎる。地味すぎて執筆にはまったく参考にならなかったが、ボディーへの攻撃は後から効いてくるものだ。蓄積されたダメージは確実に俺を追い込んでいく。俺の精神を。地味な積み重ねが、ほんとに怖い。


 ちなみに俺には霊感がない・・・と思う。いわゆる幽霊じみた変なものが見えたり声が聞こえたりなんてのが、まるっきりないのだから、そうなのだろう。そういったものを体感しないから、怖いと思うわけもないはずなのだが、それでも怖いものは怖い。ああ、なんて不条理なんだよ。人間の心理ってヤツは。


 その結果、俺はこの部屋に滞在中、一度もカーテンを開けなかった。だってそうだろう?どうするよ?窓が手形だらけだったら。いや、手形くらいで済めばいい方かもしれない。窓の外にナニかいたらどうするよ?ここ、5階だよ?だから俺はカーテンを開けなかった。毎晩、何度となく窓をノックされても、俺はカーテンを開けなかったんだ。


 そんなわけで過去に例を見ないほど原稿は進んだ。そりゃもう、必死だった。石塚との通話を終えた後も、俺は順調にキーボードを叩き続け、気がつけば時計の針が三時を指そうかといった時刻になっていた。


「・・・一息入れるか」


 備え付け冷蔵庫の缶コーヒーと煙草で一服。俺は宙に漂い、消えてゆく紫煙をぼーっと眺めながら、この部屋が喫煙可でよかったとか、どうでもいいことを考えていた。


 そういえば今夜は静かだ。窓のノックも聞こえない。つけてもいないTVの電源が勝手にオンになったり、触ってもいないのに洗面台の蛇口が全開になったりもしなかった。それが当たり前のことだと思えないほど、その時の俺は何かが麻痺してしまっていた。


 だが、そんな平穏は、煙草一本吸い終わりもしないうちに終わりを迎えた。気のせい。気のせい。そんな儚い希望をぶち壊してそれは鳴り続けた。

 

 誰かがノックしている。


 窓ではなく、ドアだ。石塚か?いや、いくらなんでもそれはないだろう。来客だろうがホテルのスタッフだろうが、こんな時間に部屋を訪れるのであれば事前に内線で知らせてくるだろう。では・・・誰が?


 普段の俺なら即座にフロントに通報するか、シーツを引っかぶってだんまりを決め込んでいただろう。たぶんそれが正解だったに違いない。


 だが俺はもう知っていた。この時間にフロントへ電話をしたところで、受話器からは変なうめき声しか聞こえないのだ。わかってんだよ。もう既に経験済みなんだよ。昨日も、一昨日もそうだったからな。


 では、さっさとベッドに潜り込んでシカトしておけばよかったわけだが、なぜか俺はそうしなかった。前述の通り、俺はなにかが麻痺していたのだ。ノック音に誘われるまま、俺は真夜中の歓迎すべからざる来客を迎い入れてしまった。


「どちらさん?」


 部屋の前に若い女が立っていた。まだ春先だというのに、ショートパンツから健康的なふとももを露にしており、寒くないのだろうかと余計な心配。アイドルのナントカとかいう娘に似ているようだが、そのナントカの名前が思い出せなかった。おっさんだからか?なかなか扇情的な光景ではあるけれども、俺の脳内はある噂のことでいっぱいで、お色気どころではなかった。


 呼びもしていないのに深夜に訪れる、デリヘル嬢の幽霊の噂。部屋に招き入れてしまった客は、無事に朝を迎えられることはないという。具体的に何が起きるのかは、パターンが色々あってはっきりしないが、その幽霊の撃退方法については、答えが共通していた。


 今時の若者は知らないと思うが、その昔、一世を風靡した口裂け女なんていう都市伝説があり、彼女を撃退するのが「ポマード」という呪文だった。その結果、街角で小学生の群れが、ポマード!ポマード!と連呼するなどという、今から考えれば大変シュールな光景が繰り広げられたそうな。まったくもって意味がわからん。まぁ、そんなキーワードに似た撃退呪文があるわけだ。それが・・・


「あの・・・チェンジでお願いします」

「死ね!」


 クリティカルヒット!鉄拳が俺の鳩尾を深くえぐり、俺はそのまま闇に沈んだ。


「・・・うう、ん、フォトショしょく・・・にん・・・はっ!」


 俺は安物の固いベッドの上で目を覚ました。見知らぬ天井・・・いや知ってた。五泊目だもの。よく見知った、あきらかに変な形の染みがある、無個性なクロス張りの天井だもの。あれ?ゆうべとちょっと染みの形が違うくない?色も濃くなってない?絶対、気のせいだけど。


「目が覚めたかや?脆弱な人の子よ」


 なんだよ、お前は異界の住人か。中二病全開な台詞の主は先刻、俺を一撃で倒した女であった。どうやら夢や幻ではなかったらしい。


「デリヘル嬢の幽霊さんですか?」

「・・・よほどこのコブシが気に入ったようじゃな」


 ベッドの脇で正拳を握りこむ女。幽霊にしては存在感がありすぎる。だからといってそれが人かというと、そんな気配が感じられない。なんといえばいいのか。古い大木とか、苔生した大岩とか、そんなものに対峙したような感じがする。


「じゃあ、どちらさん?来客の予定なんてないはずだけど?」


 正体がなんであれ、殴られたということは物体として実在するということだ。さわれる。さわられる。で、あれば恐れる必要もないだろう。


「まったく・・・」


 若い女は備え付けの冷蔵庫から、缶ビールとミネラルウォーターを取り出し、その片方を俺に放って寄越した。なんで俺には水?喉を鳴らして、うまそうにビールを飲み干しながら椅子に腰掛ける。


「うまいっ。やはりビールは麒麟児のラガーに限るのう」


 俺は胡散臭げな眼差しを隠そうともせず、もう一度女に尋ねる。


「んで、何者なんだよ、あんた」

「いやな、今時には珍しい、殊勝にも賽銭をはずんでくれた御仁がおったので、さーびすに来たのじゃ」

「やっぱりデ」


 女が投げた缶が顔面に命中して、俺の言葉は遮られた。


「お主、ここに来る前にお社を参ったであろうが。忘れたのかや?」


 おお、そうだった。すっかり忘れていたのだが、このホテルに至る道すがら、小さな神社を見つけお参りをしたのだった。俺は無神論者でありながら初詣をし、クリスマスを祝う、ある意味、節操のない典型的な日本人である。


「正月でもないのに一万円は奮発しすぎじゃ。ビビリめ」


 び、びびってねーし!あそこはマジやばいとか事前情報あったとか関係ないし!元取るためにちゃんと一時間くらい拝んだし!


「まぁ、賽銭は願いが叶ったことの礼として奉ずるのが本来。このままでは返金せねばならなくなるでの。こうして出張った次第じゃ」

「自称神という電波け」


 二本目の缶が再び顔面に命中した。


「わちきは神ではない。お主ら人間が古来より、護法やら天狗やらと呼ぶ存在じゃ。あの社には世話になっておるでな。祭神の代理として来ておる。御使いというやつじゃな」


 ちょっと待て。神でも天狗でも、成り切り電波ちゃんなんて、そんな理解不能な話は後回しだ。お賽銭がなんだって?お礼?なんで俺が万札奮発したこと知ってるんだ?それに・・・


「返金ってどういうことだよ?」

「お主は無病息災、家内安全、交通安全、商売繁盛、その他もろもろ、ずいぶん欲張って祈願しとったが、このままではひとつも叶えられぬのじゃ。それどころか、近いうちに死ぬ」


 なんだろう。新手の詐欺か?宗教の勧誘か?

 そんなものがこんな夜中にやってくるか?

 俺が神社でお参りしたことも知ってるのはなんでだ?

 あそこから俺のことを監視していたのか?


 いや、あの神社は本当に小さくて、参拝客も俺だけだったし、大体そんな面倒な真似するだろうか?疑問がぐるぐる頭の中をエンドレス再生されている。わけがわからない。


 大体――死ぬってなんだよ?


「ここはな、長居してはいかん場所なのじゃ。人の言葉では霊道と呼ばれるもの、それがこの部屋を通っておる。」


 女は部屋の備品のコーヒーカップを手に取り、ポットからお湯を注いだ。それはお湯のはずだった。俺が補給したのだから間違いない。だがポットから注がれているのは、どす黒く赤い液体だった。カップから飛び散る液体が、テーブルクロスを赤く染めてゆく。


「霊道は、人の体に悪い影響を与えるものが数多く流れ、澱んでおる。長居すれば健康を害し、悪くすれば死んでしまうじゃろう。そうならないように人除けの仕掛けがされておるんじゃが――


 お主、よくもまあ、こんな薄気味悪い部屋に長逗留しているもんじゃの。肝が据わっておるのか無神経なのか、ほんにあきれたヤツじゃ」


 女が誰かに合図でもするかのように片手を振った。にわかに窓からノックの音。消えてたテレビは砂の嵐が点滅し、バスルームから水が噴出す音がする。


「ふ、ふん!この程度で俺が動ずるものですか!どんなトリックを使ってるのか知らんが、ぜ、絶対暴いてみせるんだからねっ!」


 動じてる。語尾が変だ。


「ならばお主に眼を与えよう。人には見えぬものが見えるように」


 再び女が手を振った瞬間、俺の両目に鋭い痛みが走った。反射的に瞬きをする。痛みはすぐに引いたのだが、同時に血の気も引いていった。俺の視界の変化によって。

 

 宙を舞い踊る蝶の羽は人間の耳だった。その脇を蛇の骨がうねくりながら通過し、天井からぶら下がった巨大な頭蓋骨の眼窩に潜り込んでゆく。


 足元を見れば一つ目の鶏、顔が鼻だけの犬、甲冑姿の牛が、飛び跳ねながら行進している。大きなものから小さなものまで、この世に存在しえぬであろう奇怪な者達が、数え切れぬほど集まり、列を成し、ある者は上から、またある者は下から、壁の中から、床から、天井から、列は波打ち、また回転し、或いは螺旋を描き、どこかからどこかへと、果てしなく行軍してゆく。


 列から迷い出た、たんぽぽの胞子は手の平ほどのサイズで、その綿毛は線虫のように細かに蠕動していた。そいつはゆらゆら揺れながら俺の腹部に着床し、同時に俺の体に溶け込んでゆく。皮膚の表面がぐねぐねと波打つ。


 肌を舐めるざらついた感触に俺は悲鳴すら上げることが出来ず、喉から壊れた笛のような奇妙な音を漏らすだけだった。次々と流れ出てくる汗が眼に入り、視界がぼやけて来る。にじんだ汗は血の色をしていた。


「百鬼夜行よ。見ものじゃろう?そうして体に悪いものがどんどん溜まっていってしまうのじゃ。これでも逃げんかのう」


「うわあああああああっ!」


 今度こそ俺は絶叫した。悲鳴はテンプレで平凡なものだった。そんなもんにボキャブラリーないし。そうして俺は、そのまま全力疾走でいわくつきの部屋から逃走したのだった。

 

 明け方。どこをどうやって帰ってきたのかわからない。が、気付けば俺は自分の部屋にいた。


「・・・うう、ん、めんつゆおかわり・・・はっ!」


 どうやら居間の床にへたり込んだまま、眠りこけていたらしい。膝がズキズキ痛んだ。よだれが床まで伝っている。


「汚いのう。何をやっているのじゃ、お主は」

「うおわあっ!」


 思わぬところで背後から声をかけられ、俺は跳ね上がった。聞き覚えのある声と口調。ちくしょう、夢落ちにしようと思っていたのに。


「なんでお前がここにいるんだ?」


 自称天狗は、冷蔵庫から勝手に取り出したであろうビールをぐびぐびやっている。ムカついたので取り上げると飛び跳ねながら抗議してきた。


「ああっ、返せ!返せー!それはお神酒じゃ!かえーしてー!」


 天狗は思ったより背が小さかった。平均より背の高い俺が高く掲げたビールには、到底手が届かない。ぴょんぴょんと跳ね回るが空しい努力だ。


「なんでここにいるか、話せば返してやろう」

「ばか者!お主が忘れた荷物を持って来てやったのじゃ!この罰当たりが!」


 言われてみてよく周りを見渡せば、テーブルの上にホテルに置きっぱなしのはずの俺のカバンがあった。PCもその横に置いてある。


「あの、ぱそこんとやらがなければ仕事が出来ぬのじゃろう?」

「あー・・・」


 俺は天狗にビールを渡した。再び嬉しそうに飲み始める。


「・・・礼は言わんのかえ?」

「あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す!」


 冷蔵庫からビールを取り出し、俺も飲み始めた。原稿上がってからにしようとここ数日、我慢していたのだが、もはやバカバカしい。こうもうまそうに目の前で飲まれて我慢できるか。


「飲んだら帰れよ。天狗だかなんだか知らんが、関わるのは御免こうむる」

「いやいや、そう邪険にするな。お主に提案があるのじゃ」

「提案?」


 天狗は、ずうずうしくもまた勝手に冷蔵庫からビールを取り出し、おかわりしている。プルトップの開封時に「ぷしゅう」と言うのが決まりらしい。開ける度にやっている。


「お主、あのお社に守護祈願してくれんか?そうじゃな、300万円くらいで」

「生々しい話だな。新手の詐欺かよ」

「昨夜の件も、詐欺で片付けられるかえ?わちきの霊験はあらたかぞよ」


 確かに、この天狗娘が今ここにいるということは、昨夜の出来事は夢ではなかったわけで、あの時の様子から考えればインチキ、眉唾だとか詐欺だとは言えない気がする。かといって、何をしたのか、されたのかがよくわからない。そもそも守護祈願ってなに?


「実はのう、あのお社は、このご時勢のせいか経済的にひっ迫しておっての。神主も不在で、このままでは取り壊されてしまうやもしれぬのじゃ。祭神も今はお隠れなさっているのじゃが、わちきは、厚く恩受けし身ゆえ、なんとかしてやりとうてのう・・・」


 少し寂しげな、遠い眼をして天狗娘は言う。雰囲気はあるけどビール飲むのは忘れない。惜しい。


「そこでじゃ!」


 めっちゃ指差してる。超ドヤ顔だし。


「お主をこの霊験あらたかな大天狗の那智様が、あらゆる災厄、悪鬼悪霊、魑魅魍魎から守護してやろうというのじゃ!契約金300万で!どうじゃ、お得じゃろう?見たところ中々のまんしょんに住んどるようじゃし、もうすぐ、文庫本が出版されるんじゃろ?羽振りもよさそうじゃ」


「いや、なにがお得か、さっぱりわからん。なんで俺がそんな契約しなけりゃならんの?」


 ちっちっちのポーズとか、はじめて見たわ。片腕組で人差し指を左右に振るやつ。今時、本当にする奴がいるとは。昭和か。


「わかっとらんのう。昨夜のような出来事が、これっきりだと思うのかえ?お主は望む望まぬに関係なく、関わることになるのじゃ。そういう星巡りになっておる」


 そこで俺の携帯が鳴った。恐る恐る着信表示を見る。石塚だ。


「なんのお誘いかの?想像できようが?」


 天狗はにやりと笑った。




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