第58話 南国で戦士は束の間の癒しを得る

 その日、グラキエア沖合に近づいた帝国沿岸航路を行く廻船商人は、ギャセリック水軍を表す、黒地に白い十字を染め抜いた大きな旗を掲げる軍船を見て肝を冷やした。


 すわ、港のすぐ手前で海賊行為か。しかし、緊張とは裏腹に軍船は民間商船を避けると、風を捉えて島影の無い遠洋へと流れていった。


 呆気にとられながらも、商船は目的地グラキエアへと進んだが、そこで再び驚くことになる。

 港の入口で炎と白煙を上げている、軍船と思しき船影が水面に没しつつあったからである。

 港からは警戒を呼び掛ける小船やカヌーが出て、入港を阻まれた格好の商船たちに取り付く。安全な入港が確保できた正午ごろまで、港の手前では順番を待つ船でごった返すこととなった。


 だが、漸く入港を果たした商人や漁師たちは、検閲や警邏を務める帝国兵守備隊、そして島を治める総督府が、謎の壊滅状態に陥っていることを知り、三度驚くこととなるのであった。



 

 操舵手は恐怖に震えながらも、自身の役割を果たすべく舵を操る。その背中には鋭く刺さる一つの視線があった。


「イシドールの奴には、係累がおったな? 副官どの」

「はっ!……娘が一人、まだ成人前ですが……」

「ふむ。その者に父親の死を伝えねばならんのは、心苦しいことだな」


 声音にはそんな心情がこれっぽっちも込められていないことを、その場にいた誰もが理解していた。

 この船の客分にしてギャセリック本国直轄の大水軍の将、ホーメルは今、目下の所取り残されたイシドールの部下たちを取りまとめる役割を担っていた。


 彼の役目は、死亡したイシドールの支配していた島を後継者に正式に継承させ、その後見人を務めることとなった。


 さもなくば、イシドールの支配地域では主導権を握るべく、彼の部下と一族とが内輪で争い、酷く乱れるやもしれないからである。


 それを放置すれば、いずれギャセリック全域、そして本国にも影響を与えかねない。そのような不和の根は摘み取っておくに限る。


 堂々たる海の将軍は逆らい難い権威を備え、号令した。


「私は太守イシドールより、この船の暫定的な指揮権限を与えられている。太守の死を目の当たりにした今、私はお前たちを故郷へ返す義務がある。進路を南へ。太守の島へ向けろ」


「はっ! 取舵一杯!」

「とーりかーじ!」


 操舵で船が軋む。沖の風を帆が捉え、船は舳先を南へ向けながら進んでいく。

 ホーメルの耳に風切り音が聞こえた。


「む……」


 その音の主をホーメルは知っている。彼は帆の上にある見張り台を見上げた。

 そこから大柄な男がするすると、蛇が巻き付いているように音もなく降りてきた。


「ご苦労であった」


 傅いた大男を労い、ホーメルは彼を下がらせた。

 大男……濃緑の肌を厚い布で覆った男は、前と同じように甲板の端、水樽の間に蹲って休む。

 その手には、奇妙な道具が握られていた。新月間近の細い月にも似た円弧の棒に、海風を受けて震える細い糸が張ってある。


 男は糸を摘み、静かに引く。びぃぃぃん、と空気を震わせて鳴った。



 

 ヨン・レイ・ハジャールは心地よいまどろみから目覚め、籐編みの弾む寝台から起きた。

 そこから見える窓に寄って外を見た。今日もグラキエアは快晴だ。昨晩まで降っていた雨が嘘のようである。


 だが、その雨によって長らく染みついていた血の臭いも流れ落ちたと見えた。庭にある溜め池の水も澄んでいる。吹き込む風も爽やかだ。


(いい場所だ……)


 何度見ても心奪われる景色だった。

 あれほどの惨事が嘘のようである。だが、嘘でもなんでもなく、現実の出来事であった。

 先日、密かに作らせた軍船で逃げようとしたイシドールとその一派を追い詰め、辛くも打ち倒したヨン・レイは、燃えながら没する船の上で死を迎えつつあった。


 激しく傾斜し、転覆を免れられないとなった船から飛び降りた彼女の背後で、軍船は崩壊しながら沈んでいった。


 そのままではヨン・レイも魚の餌になるべく沈むところだったが、既に靄も晴れ、何事かと港の住人たちが小船やカヌーで軍船の近くまで来ていたことが幸いした。


 残念ながら彼らが水面から引き揚げた者の多くは亡くなっていたが、そのうちの一人は生存者、すなわちヨン・レイの救出に成功したのである。


 その一人というのが、中々泣かせる。


「ヨン・レイさん。起きました? もう市場はけちゃいましたよ」


 私室にしている元ラディケインの部屋へイグラーシが様子を見に来て声を掛けた。


「って、なんで裸なんですか!?」

「ああ、イグラーシ。おはよう」

「おはようじゃないです! 何か着て下さいよ!」

「何色気づいてるのさ。君に見られたって私は何とも思わんよ」

「……それ、ちょっと酷いや」


 少年のプライドを傷つけてしまったりしつつ、ヨン・レイは着替えた。


「よしと。ほら、もう着替えたから。壁ばっかり見ないでこっちを見なよ」

「本当ですか?」

「……まったく。私なんかの、一体何がいいのさ?」


 ヨン・レイは自分が美人だとは思ったことがない。オークとしては痩せぎすだし、帝国人としては大柄すぎる。何より養母が魔性の美しさを持った少女であり、日々彼女と暮らしていたために自分の外見に対してかなり辛口に見ている。


 一方、イグラーシから見れば彼女は鮮烈に印象に残った初めての異性、それも年上の女性だ。偶々であるがその裸体をはじめて見て以来、彼の脳裏にはその光景が焼き付いて離れないのだ。


 何せ、ヨン・レイがギャセリックの海賊共と戦うために出ていった後、心配になってこっそり自分もグラキエアへ追いかけていったくらいである。


 そして港の前で不審な軍船が漂流し、遂に沈没しようとした時に殺到した小船やカヌーの先頭にいたのがイグラーシだった。


「きっとあの船にヨン・レイさんがいるんだな、ってことがすぐわかったよ」


 と、助け出したヨン・レイへ得意げに彼は語った。



 ヨン・レイにとって真の困難は、この救出の後から始まった。

 港の入口は巨大な軍船が塞いでいて、外から来た船の入港を妨げている。

 街と港の治安を維持するための守備隊は、壊滅状態。

 政治の中枢である総督府は首無しの死体が無造作に積まれた無惨な有様、と、島は混乱の極みにあった。


 この隙を付いてギャセリックの水軍がやってこなかったのは本当に運のいいことだった、と言わざるを得ない。


 ともかく、この混乱を鎮めるための協力者を集めなければいけなかった。

 ヨン・レイは、守備隊の生き残りをハンスを中心に再編させつつ、イグラーシを伝手に街の市民から有志を募った。


 その際、総督府に入る時に使ったキュレニックスの紹介状が役に立った。

 風変わりな見てくれの旅人の正体が、音に聞こえた本土の名士、元老院議員キュレニックスの縁故の貴族であると伝わったため、協力はすぐに取り付けることが出来た。


 丸一日掛け、非常事態を切り抜けるための体勢を作り上げたヨン・レイは、陣頭指揮を執っていた場で気を失ってしまった。


 無尽蔵の体力を宿しているかに見えるオークの肉体でも、切り合い、傷つき、波に揉まれ、その後の煩雑な活動で限界を迎えてしまったのである……。




 それから数日。グラキエアは表面的には平和を取り戻したかに見える。

 だが薄皮の一枚下で、住民は不安を感じているに違いない。今、ギャセリックの海賊に襲われでもしたらひとたまりもないのだから。


「早く増援が来てくれんものかな。こちとら酒を呑む暇もないほど忙しいぞ」


 報告を持ってきたハンスが愚痴を零していた。

 体力を回復させた後、ヨン・レイはキュレニックス宛てに長大な報告書を書き送った。上陸してから島で起こった全ての出来事、その背景にあった事物、知る限りのことを書き綴り、急ぎ新たな総督と守備隊を送ってくれることを頼む内容だった。


「恐らく今頃、帝都では元老院が喧々諤々の議論を戦わせているはずさ。予算と兵をかき集め、此方へ送る算段を整えるために」


「新しい守備隊が来たら、俺たちはどうなるんだろうな」

「合流を望む者は合流、復帰困難な者は除隊、と言ったところだろうね。あんたはどうするんだ? ハンス」


「俺は……」ハンスは口ごもった。

「あと二年、兵役期間が残っているけど、この状態なら特別に退役が許可されるかもしれない。私から口添えしてもいいよ」


「……元はと言えば、締まり屋のラディケインとゲールの野郎がしでかしたことです。それに気づけなかった俺らにも責任がある。最後までお勤めは果たしますよ」


 くたびれた口調だが、確かな意思を込めて、帝国兵ハンスは言った。



 ハンスの報告の後、ヨン・レイは街の市民や往来の商人の有力者と懇談を持った。

 彼らの懸念は、この異常事態に対して何か特別な賦役……ありていに言えば特別税や徴収があるのではないか、ということだった。


 これに対してヨン・レイは明確な回答をすることは出来なかった。今の彼女の立場は非常に不安定、かつ限定的なものだった。非常時に非合法な方法で島を統制している身である。下手をすればこれを機会に島を奪取したと討伐軍を差し向けられる可能性さえある。


 だからこそ、後で余計なことをしていたとみられる行動は出来なかった。ただし、物入りであることは事実だった。


 そこでヨン・レイが目を付けたのは、ラディケインが作らせた新たな港である。

 街から少し離れた位置にあるが、元より大型軍船を泊めるための設備なので商船を泊めておくのも余裕だし、街から離れている故に警備もしやすく、不安になった住民が略奪を働いたりもしずらい。


 商品を街に運び込むのには不便だが、安全のためには致し方がない、ということで、商人はそちらで荷下ろしをすることを了承した。


 一方で、街の富裕層である帝国市民には有志による自警団を組織してもらった。

 彼らには港の復興や軍港の警備などによって穴の開いた街の治安維持に一役買ってもらう。

 負担の大きい役割だったが、意外にも市民からは好評を博し、多数の人が自警団に志願してくれた。

 というのも、彼らは隣り合って暮らす非市民権保有の南海人が重税に喘ぐ中、総督の権力を恐れて見て見ぬふりをした負い目があったので、これを機会に街の住民としての義務を果たすこととしたのだ。


 市民権を持つ彼らは、この島では少数派であり、権力で守られていた身だ。身を守る権力が一時的に減じた現在、身をもって他の者らに必要とされる存在とならねば、反って身の危険があったのである。


 なにせ、グラキエアは大きいとはいえ、島である。悪意を持たれ、攻撃されれば逃げ場はないのだから……。



 

 そのように、日、一日と非常時を乗り越えつつ、便りを待っていたヨン・レイの元へ、快速船で本土からの手紙が届いた。


 手紙ばかりではない、帝国元老院の名の下に集積された様々な物資が送り届けられた。

 ただ、その中には新たな総督や新たな守備隊が入っていないだけである。

 どういうことかと思い、ヨン・レイは受け取った手紙を開いた。これまた、自分が書いたものと同じように長い手紙であった。書いたのはキュレニックスらしい。見慣れた文字

である。



『手紙は受け取った。子細な報告を送り頂き、誠に有難う。

 こちらも複数の方面から、君の送った情報が真実と判断した。

 その結果、元老院は当案件を迅速に処理するべく討議を行い、以下のように決定した。

 一、元老院は皇帝の承認によって、国庫から金貨五千枚を特別予算として計上し、以下の物品をグラキエアへ輸送するものである……

 二、元老院は皇帝の承認によって、元老院から任期三年の南方属州総督を選出し、グラキエアへ派遣するものである。

 三、二を履行するまでの間、グラキエアの暫定統治権をヨン・レイ・ハジャールに与える。期間は一か月。もし、それより期間が延びるようであるならば、その都度、元老院は統治権をヨン・レイ・ハジャールに与えるものである。

 四、三の付則事項。ヨン・レイ・ハジャールは臨時代理総督として以下の権限を持つものである……

 また、以下の権限を持たないものである……

 五、三の付則事項。ヨン・レイ・ハジャールは三を付与された証として、同封した証書とブローチを常時身に着けるものである。もし、これに違反した事実が発覚した場合、ヨン・レイ・ハジャールは帝国と元老院の命令に反した咎で刑罰を受けるものである……』



 ブローチ、と聞いてヨン・レイの頭の片隅に引っかかるものがあった。

 そして書類の束には、確かに別紙が重ねて封じられていた。上質の羊皮紙に美麗な字で書かれた、『臨時代理総督』を任ずる証書である。


 そして同封されていたブローチを取り、彼女は驚き、しげしげと見た。

 それはヨン・レイが任務を受け取る際、キュレニックス・マグヌスに託した自身のブローチであった。

 何故これを、と思いながら、何か手掛かりがないかと手紙を読み返すうちに、手紙の裏面に文字が書かれていることに気付く。


 手紙の裏には細い、目立たない字で簡潔にこう書かれていた。



『君は依頼を果たした 故にこれを返す 

 束の間の休みを愉しみたまえ キュレニックス』



 表の文字と同じ筆跡で書かれた私信を見て、ヨン・レイは得も言われぬ満足感を覚えた。


(どうやら閣下のご依頼に沿うことが出来たようだ)


 わが身を知るものの意を守って戦い得たことに対する、戦士の満足感だった。


「ヨン・レイさん。もう皆さん集まってますよ」


 様子を見に来たイグラーシ少年が姿を現す。

 それを見て、ヨン・レイは頷いた。


「うん。すぐ行くよ。……なに、顔を真っ赤にして」


 彼女を見た多感な少年がしどろもどろしていた。


「だって今、すごくいい笑顔で僕を見たから……」


 俯くように言った少年にぷっ、と噴き出してしまう。


「変な子。待ってて」


 ヨン・レイは手元に帰ってきたブローチを新しいマントの肩口に付ける。

 見晴らすグラキエアの街と海を一瞥し、与えられた新たな任務をこなすべく、自室を後にした。


 

 帝国領土南端部にある島、グラキエア。最盛期には何百もの船が行き交った島は名物があった。

 往時に建てられた総督府。港を照らす大灯台。

 隣国ギャセリックの陰謀を経たこの島に、新たな名物が加わることとなった。

 後に街の名士の一人に数えられるようになったハンスの声かけで集められた資金によって建てられた、簡素な碑である。


 街の片隅に建てられたその碑には、島の危機に奔走した一人の騎士を記念した文言と、その者が残していった盾が埋め込まれている。


 その立派な盾には、滞在中騎士が身に着けていたブローチと同じ紋様が刻まれ、街の住民たちを今も見守っている。


 即ち『剣・斧・鞭』の紋章である……。

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