山の件

七海ナム

第1話

  プロローグ


 11月に入ったというのに、月遅れの大型台風が近づいてきていた。関東に上陸するのはあと二、三日かかるらしく、その日はまだ風も吹かず、よく晴れていた。その金曜日の真昼であった。

 高い塀に囲まれた、洋風の家の鉄門の前に停まっていた、ダークブルーのスポーツカーが、排気音を高く鳴らして走り出した。

 ハンドルを握っているのは若い女性だった。

 七海詩歩だった。助手席には葉川治典が乗っていた。

 スポーツカーは紅葉山に向かっていた。

 紅葉山は神奈川県中部にある、標高190メートルの小高い山で、詩歩の家からは車で10分ほどしかかからない場所にある。

 ーー15分ばかり前、治典の携帯電話に、山上美幸からの着信が突然入った。治典が出ると、いきなり美幸は言った。紅葉山の山頂にある公園で、美幸と二人で紅葉山に来た、美幸がマネージャーを担当しているという新人の女優が、暴漢に襲われたと…。

「何だって!? 公園で、女優さんが、襲われただって!?」

「刃物でやられたみたいなの。血も、ちょっと出てる…」

「なっ、傷の具合は、ひどいのか?」

「わからない。けど、血は、そんなには出ていない。優奈ちゃん、かなりショックを受けてるけど、意識はしっかりしているわ」

「そうか…。美幸は犯行の瞬間を見なかったのか?」

「ええ。私が優奈ちゃんと離れている時に…」

「そうか。けど、犯人に乱暴されたりは?」

「いえ、そうじゃないわ。犯人はすぐに逃げたって優奈ちゃんは言うし、それは確かにそう。私が優奈ちゃんから離れていたのは、ほんの少しの間だったのよ。たぶん優奈ちゃんが私の名を呼んだかして、犯人は怖じ気づいて逃げたんだと思う」

「そうかもしれない。とにかく、すぐ向かう」

 美幸は今朝、優奈の希望にこたえて、美幸の運転する車で、東京から紅葉山まで出かけたのだということだった。

 紅葉山公園は、秋の紅葉と眺望が美しい公園である。治典は地元の人間なのでよく知っているし、何度も登ったこともあるが、全国的にはあまり知られた場所ではない。優奈が紅葉山公園に出かけることを希望したのは、美幸が公園のことを優奈に話したからだろう。その話の元は治典で、治典はひと月ほど前、美幸と電話で話をした時、どういう話の流れであったか、紅葉山公園の景色の見事さについて熱っぽく語ったのであった。ーーその公園で、新人の女優が暴漢に襲われるとは……。

 美幸との電話が切れた後、まもなくして再び着信音が鳴った。詩歩からの着信だった。詩歩も美幸から事件の連絡を受け、車で出発するところだから家まで来いと言う。詩歩の家は治典の家から自転車で数分の近所にある。治典は自宅を飛び出し、詩歩の家まで自転車を走らせた。門前に停まっていた詩歩のスポーツカーに乗り込み、紅葉山に向かったのだった。ーー

 治典と詩歩は小学校からの幼馴染みで、かつ今年の春まで地元の近くの同じ大学に通っていた同級生同士でもあった。

 それに美幸も大学の同級生で、彼女は東京都S区の出身。彼らは今春、大学を卒業し、美幸は渋谷にあるCHタレント事務所に就職し、新人女優のマネージャーを担当しているということは治典も詩歩も本人から聞いていた。

 治典は地元の駅前にある古書店の店員を、詩歩はネットカフェの店員を、それぞれ大学時代から引き続いて続けていた。美幸と優奈が紅葉山に出かけたのは二日間の連休が取れたからで、治典と詩歩の二人が今日、アルバイトが休みで、そろって自宅にいたのは不思議な偶然であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る