In the Flames of the Purgatory 63

 

   *

 

 舗装されていない獣道を歩いていると、まるで自分が五百年前のあの時に戻ったかの様な錯覚に囚われる。

 無意識のうちに余計な力が抜け、敵を探して油断無く周囲に視線を走らせながら、空いた手で帯びた長剣の柄を探し――そして剣を帯びてなどいないこと、周囲の植生が記憶にあるものとまったく違うものであることに、唐突に気づいて我に返るのだ。

 やがて木々の隙間が明るくなり、その向こうに開けた空間が見えてきて、アルカードは一度足を止めてから足を速めた――白樺の森を縦断する遊歩道に出たのだ。林縁に張りめぐらされた低い柵を乗り越えて一息ついたところで横手からこんにちはー、と声がかかり、そちらに視線を向ける。

「散歩ですか?」 大きなシベリアン・ハスキーを連れた雪村早苗が、こちらに向かって手を振っている。

「まあね」 うなずいてアルカードはその場にかがみこみ、でっかいハスキー犬に手を伸ばした――差し伸べた手に鼻面を近づけて匂いを嗅いでいる犬の頭に手を伸ばすと、ハスキー犬はそれに気づいて耳を寝かせた。頭上から手を伸ばされてもまったく警戒しないのは、人間に叩かれたりしていないからだろう。

「マトリョーシカだっけ? この子の名前」

「はい」 犬の頭を撫でてやりながらそう尋ねると、極上の笑顔を見せて早苗が大きくうなずいた。

「お気に入りなんだ?」

 立ち上がると、マトリョーシカが後肢で立ち上がってこちらの脚にしがみつく様にして飛びついてきた。

「人懐っこい奴だなあ」 しょっちゅう洗ってもらっているのか、ハスキーにしては毛並みが柔らかい。耳の後ろを掻いてもらうのが気持ちいいのか目を細めているマトリョーシカの青みがかった眼を見下ろして、アルカードは小さく笑った。

「人の入れ替わりが激しいですからね」 早苗がそんな返事を返してくる。彼女は綱を軽く引いて犬をアルカードから引き離そうとしている――だが大きくて力が強いので、なかなか引き離せないらしい。

「マトちゃん、ちょっと離れようよ」

 アルカードはひとしきり頭を撫でてやってから、マトリョーシカの前肢をそっと掴んで降ろしてやった。それでもまだ足元にまとわりついてくる落ち着きの無いハスキーの頭を撫でてやってから、歩き出す――早苗に合わせてちょっと歩調を落としながら、

「いつも生徒の子が散歩に連れ出してるの?」

「いえ、気が向いたときに気の向いた子が連れ出す感じですね。それとは別に食堂のおばちゃんが――」 そう言いかけたところで、早苗は足を止めた。彼女の視線を追って林縁に視線を投げると、宿舎近くの開豁地に出るあたりで生徒が数人、太い赤松の木を見上げている。

「あ、あきちゃんどうしたの?」 早苗がそう声をかけると、男女合わせて三人の生徒たちが一斉にこちらを振り向いた。

「さなちゃん――その人誰?」

「明日から勤務する講師の先生だって――それで、そっちはどうしたの?」

「あれだよ」 男子生徒のひとりが、見上げていた赤松の枝を指し示す。

 腕ほどの枝の先でニャーニャーと鳴き声をあげている仔猫の姿に気づいて、早苗が軽く口元を押さえた。

 生後二ヶ月経たないくらいかな――そんな見立てをしつつ、アルカードは赤松の根元で樹上を見上げていた三人のそばに歩み寄った。

 爪先とお腹、下顎だけが白い黒猫だ――見事な靴下だなと感心しつつ、とりあえず生徒たちに向かって片手を挙げた。

「はじめまして――明日から英語講師としてしばらく勤務するアルカード・ドラゴスです。よろしく」

「ムシャ孝太郎です」

 日本語が通じるのがわかったからか、男子生徒のひとりがちょっとほっとした表情でそう自己紹介をし頭を下げた。

「むしゃ?」 アルカードが軽く首をかしげると、

「武者です。落ち武者の武者なんですけど、わかりますか?」

 虚空に器用に裏返しで武者の漢字を書きながら、男子生徒がそう説明してくる。

「うん、わかるわかる。珍しい名前だね」

「初対面の人には必ずそう言われます」 苦笑気味の笑みを浮かべてそう答え、孝太郎はほかの生徒に視線を向けた。

「うちの学年の珍しい名字ランキングの二位ですね」

「そんなランキングがあるの? ちなみに一位は?」

八月一日はっさくです」 孝太郎の隣、外国人の血が入っているのか清潔感のある金髪を背中まで伸ばした碧眼の女子生徒が丁寧に頭を下げて、

八月一日はっさく夏樹」

「あ、君がそうなの?」

「はい」

 最後に先ほどあきちゃんと呼ばれた黒髪の女子生徒が、

「澤村明菜です。よろしくお願いします」 そう言ってから、彼女は再び頭上に視線を戻した。哀れっぽく鳴いている仔猫に視線を向け、

「どうしよう――用務員さんに脚立貸してもらおうか」

「あの高さじゃ脚立を使っても届かないよ」 明菜の言葉を否定して、孝太郎が軽くかぶりを振る。

「木登りは得意だけど――枝が細すぎて猫のところまで近づけないな。近づく前に折れる」

「そうみたいだね」

 アルカードは孝太郎の意見にうなずいて、周囲を見回した――手近に落ちていた比較的しっかりした折れた枝を拾い上げ、軽く曲げて状態を確認してから、

「まあよくあるんだよね。仔猫が高い所に登るだけ登って、降りられなくなるの」 そう言って、アルカードは手にした棒きれを軽く旋廻させた。

「はい、みんなちょっと下がっててくれる? 巻き添え喰うと危ないからね」

 枝から仔猫を叩き落とすつもりだと思ったのか、生徒たちがなにか言いかける――下がれと警告したのはただ単なるお義理で、別に今の立ち位置であれば問題にならないので、アルカードは気にせずそのまま地面を蹴った。木の幹を蹴って再び跳躍し、左脇に巻き込んだ棒きれを振るう。

 周りが止めに入る間も無く――鏡の様に滑らかな断面を見せて切断された枝が、幹からポロリと取れて落ちてくる。

 それを目にして驚愕の声をあげる生徒たちには頓着せずに、アルカードは着地するより早く手を伸ばして枝と一緒に落ちてきた仔猫の体をすくい取った。

 地面に着地するのと同時に、切断された枝がザンと音を立てて柔らかい土の上に落下する。

 足元に落下した枝の切断面を確認して自分の技量が衰えていないことに満足してから、アルカードは手にした棒きれを林の少し奥のほうに放り投げた――くるくると回転しながら飛んで行った棒きれは張り出していた枝に当たってぽきりとふたつに折れ、そのまま地面に落下して見えなくなった。

 続いて足元に落下した枝を拾い上げ、これも棒きれを林の奥のほうに適当に投げ棄てて、ついでに猫も逃がしてやる。生徒たちはしばらくぽかんとしていたが、それを見て我に返ったらしい。

 それにはかまわず、適当に肩をすくめて舗装路に出る――アルカードが猫の救助それをしたことで用が無くなったからか、生徒たちも彼に続いて舗装路に出てきた。

 皆私服なので外出でもするつもりでいたのだろう、女生徒ふたりはスカートの裾や靴の汚れを気にしている。

 アルカードが寮のほうではなく全然違うほうに歩き出したのに気づいて、早苗が声をかけてきた。

「寮はそっちじゃないですけど」

「ああ、知ってる。もう少し散策してみたくてね」 肩越しに振り返ってそう答えると、アルカードは適当に手を振ってから歩き去った。

 

   *

 

 水面に足を入れると、ちゃぷんと音を立てて漣が立った――しかしそれだけで、水が装甲板の隙間から衣装を濡らす気配は無い。腰まで水に浸かっても、水に浸かっている感覚があるのはその水面の部分だけだ――どう喩えればいいのか、水は水面に膜状に張っているだけで、水面の下側に水は存在しないのだ。

 壁に打ち込まれた丸太を何段か降りて完全に水面下まで降ってしまうと、やはり水は存在していなかった――頭上を見上げると、縦穴と先ほどの部屋の境目の部分に、まるで水で出来た天井の様に上下逆さに水がたゆたっている。

 装甲板の隙間から引き抜いた刺殺用の短剣を水面に差し込んで掻き回しているアルカードを見上げて、グリーンウッドが口を開いた。

「どうした」

「否、なんでもない」

 そう答えて、アルカードは短剣をしまい込んだ。縦穴の内周に螺旋階段状に打ち込まれた杭を踏んで、グリーンウッドとセアラの待っているあたりまで降りてゆく。

 何気無く壁に視線を向けると、見慣れない文字が刻まれた白亜色の石板が地肌が剥き出しになった壁に埋め込まれていた。

 周囲を見回してみると、別の場所にも同じ石板が埋め込まれている。どうも円形の竪穴の内壁の、同じ高さに四枚埋め込まれており、どうやらそれが縦穴の奥深くまで等間隔に続いている様だった。

「あれは?」

昇降装置リフトの駆動装置だ。高出力の電磁場を発生して、その反発で昇降装置を壁にぶつからない様に安定させるものだと思う」 アルカードが春の訪れとともに溶けかけた雪だるまみたいな顔をしているのを見て、グリーンウッドはそこで言葉を切った。

「駆動装置にはさっきアクセスを試みたが、反応が無い――すでに壊れているのか、動力源が死んでいるんだろう」

「じゃあ、あの肉団子は毎度毎度ここを昇り降りしてたのかね」

「あるいは一度降りてみて、なにも得るものが無かったから放置状態か、だな」

「そうは言っても、例の悪魔の降臨場とやらはこの下にあるんだろう?」

「それはそうなんだが」 グリーンウッドはそう答えてから、足を踏みはずして転落しかけたセアラの首根っこを掴んでステップ上に引き戻した。

「毎度毎度ここを昇り降りしていたのなら、ウォードがもう少し痩せているだろうよ」

「うわ、すっげえ説得力だな」 アルカードが侵入する前にグリーンウッドによって斬り臥せられていたウォード・グリーンウッドの肥満体を思い出し、アルカードはうなずいた。

「でも下に降りる用事が無いなら、別に研究施設をこんな辺鄙な離れ島に造る必要も無かったんじゃないか」

「下に降りる用事が出来たときは、吸血鬼にやらせていたのかもしれん――ウォードにこの縦穴の底まで杭を一本一本打ち込むなどという肉体労働が出来たとも思えんしな」

「そこは魔術で出来ないのか」

「どれだけ時間がかかると思う?」 グリーンウッドの返事に適当に肩をすくめ、

「俺ならともかく、普通の人間の魔術師にはそんな作業の間、魔術を連続して使い続けるのは無理だ」

 杭をなんらかの方法――重量軽減? それとも空中に浮遊させて?――で運びながらひとつひとつ壁に打ち込んでいく、その絵面を想像して、アルカードはうなずいた。

「確かに無理かもな」

 アルカードはそう答えてからグリーンウッドと、覚束無い足取りで彼についてゆくセアラの後ろからステップを降りつつ、

「でもよ、壊れてるんなら直せば済む話だろうに」

「おまえ、甲冑のストラップを交換するのと同じ感覚で言ってないか?」 グリーンウッドは肩をすくめて、

「自作の術式ならともかく、他人が魔術装置で運用するために組んだ術式を解析して組み直すのは大変なんだぞ――単純に物理的に壊れた可能性もあるしな」

「そんな簡単に壊れるものなのか? 魔術装置のたぐいは、基本的に耐久性が高いものだと思ってたが」

「ものによる。耐久性と一口に言っても、求められる『耐久性』の定義そのものが単純に安定した環境で長持ちすることだったり象が踏んでも壊れなかったりと、いろいろあるものだしな――それに、どんなに頑丈に造ったところで限界はあるものさ」

「ふむ」 アルカードはとりあえずはそれで納得して、縦穴の底に視線を落とした――頭上の部屋から水面越しに届く光では到底足りず、縦穴の奥は黒々としてまったく様子が窺えない。

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