In the Flames of the Purgatory 1

 

   1

 

 暑苦しいな――胸中でつぶやいて、アルカードはパタパタと顔を手で煽いだ。

 『門』から顕現した巨大な悪魔が前肢を地につけるたびに肢が触れた周囲の地面を熔岩に変え、尻尾が撫でた岩壁は瞬時に熔岩と化して流れ落ちる。口から吐き出す炎は燃焼の原理が異なるのか可燃物がなにも無いというのに消える様子も無く、巨大な空洞のほうぼうを燃やし続けていた。

 熔融してオレンジ色に輝く熔岩と周囲の岩を燃やし続ける炎によって大空洞は昼間のごとく明るく照らし出され、明かりには不自由しない――炎の燃える原理が異なるためか、これだけそこかしこで炎が燃え盛っていれば当然心配しなければならない呼吸困難が起こらないのはありがたい材料ではあった。

「ふん」 軽く鼻を鳴らし、かたわらに立っている魔術師が右足を引いて構え直す。

 眼前に聳え立っているのは、漆黒の獣毛に覆われた巨体の怪物だった――頭部は嘴にびっしりと犬の様な牙列が密生した梟の様な姿で、ただし両目だけが人間のものに酷似している。

 胴体は――ほどもあるということを除けば――狼のそれに似ているが後肢は無く、胴体の後ろ半分は半人半蛇の怪物ラミアの様にそのまま蛇の尻尾になっている。尻尾は非常に長大で、この島にやってくるために乗った帆船の索具の総延長よりも長いだろう。この地下大空洞を三周してもまだ余りそうなほどの長い尾だ。

 序列第七位の侯爵にしてデーモンロードの中でももっとも強靭な肉体を持つとされる悪魔、アモン――であるらしい。本人?の申告によれば、だが。

 まあ確かに、多少はしぶとかったけどな――すでに襤褸雑巾のごとき有様になったデーモンロードは片目を潰され片肢を切断されて全身に無数の切り傷を受け、獣毛が焦げて落ちたその下には肉が炭化するほどの深い火傷を負っている。腹を引き裂かれた傷口からは、内臓や腸がこぼれ落ちていた。

 別名は照明あかり不要いらずだな――胸中でつぶやいて、アルカードはぎゃあぎゃあと頭の中に直接響く絶叫をあげる魔具の柄を握り直した。

「おのれ――おのれええええッ!」 すでにぼろぼろになったアモンが、すさまじい絶叫をあげる――アルカードが手にした塵灰滅の剣Asher Dustの絶叫同様に、その叫び声は頭の中にじかに響いていた。

「うっせぇな、なんだこりゃ? 喉笛は掻っ捌いてやったってのに」

 顔を顰めてこぼしたぼやきに、

霊声ダイレクト・ヴォイスだ」

 かたわらに立っていた魔術師が、そんな返事を返してくる。

発する声を、聞いているのさ」

 という返事に、アルカードは再び魔術師からアモンへと視線を戻した。

「ふうん――で、アレどうするんだ? 闇黒体アウゴエイデスとかいうのも潰したし、もうこれ以上は遊べなさそうだが」

 そんな問いを投げかけて、アルカードはぞんざいな仕草で肩越しに背後を示した――魔術師が構築した防御結界、無敵の楯インヴィンシブル・シールドの中から、小柄な金髪の少女がこちらを見つめている。

「そろそろあのちんちくりんも出してやらねえとな」

「だな」 魔術師がそう返事をしたとき、アモンが前に出た――蛇の様に体をくねらせて周囲に劫火を撒き散らしながら、ふたりのかたわらを通り過ぎて背後の少女へと襲いかかる。

「どういうつもりだ?」

「さてな」 消耗した魔力を魔術師見習いの少女を喰らって補おうという心算はらか――あるいは人質にとれるとでも思ったのか。

「餌? 喰いでが無さそうだが」 魔術師の返事にそう意見を述べると、魔術師は適当に首をすくめた。

「奴らは人間とは違う――おまえたち吸血鬼ともな」

「どういうふうに?」

 魔術師たちの言うには、受肉した霊体が肉体へ受けた損傷は霊体に受けた損傷とイコールであるらしい。別に物理的な攻撃で霊体に損傷が及ぶわけではないのだが、霊的な効果を持つ物理攻撃――といったほうが正しいが――を受けると、霊体と肉体の同じ箇所が損傷するのだ。

 翼をもげば飛べなくなり、脚を引きちぎれば立てなくなる。喉笛を引き裂いてやったのにまだしゃべれているのは、霊体には声帯に該当する器官は無く思念を飛ばしているからだろう。

 重要なのは、肉体を棄てても霊体に同じだけの損傷を受けたままになるということだった。すなわちこのまま攻撃を続けて完全にとどめを刺せば、肉体もろとも霊体を破壊されてアモンは死ぬ。

 そうなる前に肉体を棄てて退却すれば、助かるだろう――その前に少しでも力を補っておく必要があるのだ。筐体を棄てるのとは違って、肉体の衰弱は霊体にもそのまま反映される。逃げおおせることは出来ても、肉体がそのざまであるのと同じ襤褸雑巾の状態で魔界へと逃げ帰ることになるのだ。

「連中の序列は純粋な力関係だ。たまたまつながった『門』から意気揚々と人間世界に出向いたと思ったらズタボロに痛めつけられて逃げ帰ったとなれば、魔界でどんな目に遭うかわかったものじゃない。近い序列の者に殺されて位階を奪われたり――あるいは弱ったところで取るに足らん下級悪魔に群らがられて、喰い殺されるなどということもあり得る」

「おお、怖い怖い」 アルカードは適当に首をすくめ、

「殺伐とした生活だなあ、それ。犬を飼うなり趣味を持つなりして、心の平穏を追い求める人生もとい魔生を追求してもいいだろうに。狩猟とか帆船模型とか」

「狩猟なら年がら年中やってるさ――あいつらはちまちましたものは嫌いだから、帆船模型なんぞ与えても三日で投げ出すだろう」

 だいたい奴らの指は、お世辞にも細かな作業に向いているとは言えんしな――魔術師がそう付け加える。そりゃあまあそうだ。アモンの前肢とか、そもそも物を持てる構造ではないし。

「じゃあ、犬は? 猫でもいいけど」

「残念なことだが、犬が餌になって終わりだろうな。まあ今回は――」

「ああ、まあ今回は――」

「――犬餌だがな」

 綺麗に声をそろえて、ふたりはそろって背後を振り返った。

 アモンの目的は、結局わからない――少女に襲いかかって喰おうとしたのか、それとも人質か、あるいは本来の目的は縦穴を通って外に出ることか。

 縦穴から外に出る、あるいは魔界へ逃げ帰るなら、色気を出して喰いでも無さそうな小娘に襲いかかったりせずにさっさとそうすべきだった――目先の餌に執着して、優先すべき行動を見失うなど。

 どうせ走るなら彼らに背を向け、自分の背後にぽっかりと口を開けた現世と魔界をつなぐ穴――あるいは少女の向こうにある地上に通じる縦穴へと駆け込むべきだった。アモンには取りうる選択肢があったにもかかわらず――選択を誤ったがためにゼロになった。

 ふたりが会話を終えて悠然と背後を振り返ったときには、アモンの巨体は岩壁に抑えつけられていた。岩盤を削り出して作った大空洞の壁がアモンの体が触れるなり超自然の炎によって燃え上がり、瞬時に熔岩となって地面に流れ落ちていく。

「岩でも燃える炎か――あれ使えねえかな」

「『ゲヘナの火』をか? 使えないかというのは?」

「岩に火がつくんなら、野営のときに薪を集めなくていいだろ」

野営ビバークのために焚き火の火種に利用するつもりなら、やめたほうがいい」

 魔術師はそう返事をして岩壁で燃え盛る炎に視線を向け、

「あれは我々のいるこの『層』にある炎とは異なる原理で燃える、ゲヘナの火と呼ばれるものだ――普通の火はもちろん魔術で作った火とも違って、水の中でも燃えるし空気が無くても消えない。我々が認識する可燃物――可燃性ガスや油、薪などの燃料も必要無い。あの炎には鉱物はもちろん金属も含めて、この『層』に常温で固体として存在する物質すべてを可燃物として燃焼させる性質がある。魔術で作った炎は燃料は必要無いが空気は必要だし、だから水中で火を熾すことは出来ないんだが」

「ああ、だから便利だと思ったんだが」

「おまえ、ゲヘナの火あれ燠火おきびを種火にして持ち歩くことを想定しているだろう? 残念だが空気を遮断しても火勢が弱まらないから、そういう目的には使えないぞ。それにゲヘナの火は、鍋も燃やすからな――調理に使うことすら出来んし、ゲヘナの火は薪から地面の土そのものに燃え移る。薪に火をつけて焚き火にして寝て起きたら、周りの地面が燃えて大火事になっている可能性もある」

 そう言われてみると、確かに岩壁を燃やす炎が徐々に大きくなっている様な気がしないでもない。

「たとえば、川の中に放り込んだとする。水の中でも火が消えないから川底の石に燃え移って、しまいには川ごと炎上させて干上がらせた挙句に周囲に燃え広がることになるわけだ――海でも同じだ。極論すればどこかの大陸にゲヘナの火を放つとその大陸を焼け野原にしながら海底にも燃え広がり、最終的に別の大陸に燃え移ることもある」

「見たことあるのか?」

「無い。わざわざ試す気にもならん――だが、島と島の間でそれをやるところは見たことがある」 かたわらの魔術師がそう返答を返し、アルカードはそうかとうなずいてアモンに視線を戻した。

「さっきのおまえの言い方だと、水の流れる川の底で石や砂は燃えるが水は燃えない様な言い方だったが――水そのものは燃えないのか?」

「厳密に言うと、液体のまま燃える可燃性の液体というのは存在しないんだが」 魔術師はそう言ってからちょっと考えて、

「ゲヘナの火は常温で液体のままの物質を燃やす性質は持っていない。ほかの『層』ではどうだか知らんがな。例外は水銀だ――金属だからなのかほかに理由があるのか、とにかくゲヘナの火は水銀だけは燃やす性質がある」

 アルカードはその返事にうなずいて、

「ちなみに、消火の手段は?」

「物理的には、無い――たとえば魔術の炎は空気を遮断する以外の方法で消火出来ないが、なにか可燃物に燃え移った炎は普通の炎だ。だから水をかけるなり、砂をかけるなりして消すことが出来る。だがゲヘナの火には現世の炎と違って、水なり砂なりのものが無いんだ。問題になるのは、魔術の炎と違ってゲヘナの火は燃え移ってもゲヘナの火のままなことでな――火災になっても消火が出来ん。扱いが面倒だから、焚き火にするには使いにくい――この『層』においてゲヘナの火を消すには古代語魔術エンシェント・ロウ、もしくは竜言語魔術ドラゴンロアーによる干渉が必要だ」

「なるほど」

「あとは燃料になっている物体を空気が凍結するほどの低温まで冷却することで、消火することが出来る――こちら側の手段でそれを再現することが出来るのは、精霊魔術だけだがな。おまえがさっきが涌いてきたときに火を消した方法がそれにあたる」 付け加えられた魔術師の言葉に、アルカードは納得してうなずいた。火というのはつけることよりも、消すことのほうが重要だ。つけた火が管理をしくじって燃え広がれば、当然自分も巻き込むことになるからだ。

 火の大きさを調整し、いつでも消せる様に管理することが重要になるわけだ――アルカードの知る消火の手段、水や砂をかける消火方法が使えないうえに焚き火を置いた土や石にまで燃え広がるとなると、アルカードには管理が出来ない。

「まあ確かに、不測の事態にすんなり消せないほうが問題だな」

「だろう? 野営ビバークはもちろん、砦の焼き討ちにも使えんよ」 魔術師がそう返事をしてくる。

「まあ、塁壁まで燃やして熔かしちまうんじゃなぁ――火が消せなけりゃ破壊は出来ても奪取は出来ないしな」

「そういうことだ。砦ごと焼き払って破壊するのが目的ならともかく、制圧して奪取するとなるとなんの役にも立たん」

 と、ふたりがそんな感じで暢気に話している視線の先で――

 アモンにはなにをされたのかもわからなかっただろう――アモンがどの様な算段を立てていたにせよ、その算段通りには進まなかった。

 そしてもはや、あらがうことすらもままならない。突如として大空洞に姿を現した二体の巨大な獣によって、地面に抑えつけられていたからだ。

 かたわらにいる魔術師の左腕が、大きく膨れ上がって伸びている――どれくらい大きいのかというと、手首から先が膨張して最終的には直径が彼らの身長の六倍近くにまで達していたからだ。

 魔術師が無造作に手首を引き抜くと、彼の手首から先が膨れ上がって形成された巨大な翼を備えた犬――彼の言を借りるなら、アモンと同じデーモンロードの一体グラシア・ラボラス――が、アモンの頭を地面に押さえつけて凄絶な咆哮をあげた。

「仲良く半分こか」 もう一体はまるで夕日を背にしたときの様に長く伸びたアルカードの影の中から姿を現した、ほどもある巨大な狼だった。尻尾は半ばから喰いちぎられた様に失われ、ごわごわした獣毛は黒く濡れている。狼王クールトーはアモンに触れた肢が燃え上がるのにもかまわず、アモンの下肢の動きを押さえつけていた。

「お、おまえ、グラシア・ラボラスだと! なんのつもりだ、人間ごときに与したのか!」 アモンの叫びを無視してグラシア・ラボラスがクールトーに向かってすさまじい咆哮を発すると、クールトーもまた同様に凄絶な咆哮をあげた。

 獲物を渡すまいと威嚇しているのか、それとも合図とそれに対する返事だったのか。いずれにせよ、二頭の巨獣たちはそれぞれアモンの上半身と下半身にかぶりついた。

「やっ……やめろ、やめろぉぉッ!」

 頭を丸ごと咥え込まれたアモンが、ひとつひとつが大剣ほどもある巨大な牙が喰い込んでくる感触に前肢をばたつかせる――長大な尻尾もまたばたばたと周囲を撃ち据えたが、長すぎて逆に役に立たなかった。

 脳裏に響く悲鳴じみた叫び声が途切れるのに前後して、二頭の巨獣がたがいに奪い合う様に引っ張っていた巨大な悪魔の体をふたつに喰いちぎった。

 それでもまだ悲鳴は続き、尻尾も切断された蛸の触手の様にじたばたと蠢いている――だがグラシア・ラボラスの鋭い牙で頭部や胸部を噛み砕かれるころには悲鳴は途切れ、尻尾の動きも止まっていた。

 咀嚼した獲物を飲み込んだグラシア・ラボラスとクールトーが、いずれもこちらに向けて凄絶な咆哮をあげる――役目を終えた使い魔たちはグラシア・ラボラスは魔術師の体の中へと、クールトーはアルカードの影の中に沈み込む様にしてそれぞれ姿を消した。

「やったか?」

「否、最後の瞬間に霊体と肉体が分離した――ギリギリのところで、向こう側に逃げ出した様だ」

「はっ」 アルカードは鼻を鳴らし、

「なぁぁにが『このアモンの力、思い知るがいい!』だよ――締まりのねえ野郎だ」

 魔術師の解除した防御結界から、金髪の少女が姿を見せている。アルカードは空間に穿たれた黒々とした穴へと視線を転じ、

「で、あとはどうするんだ? あの穴をふさいで帰るのか?」

 その質問に、魔術師が手を伸ばして近づいてきた金髪の少女の肩を引き寄せた。

「ああ。ふさぐのは俺とこいつでやるから、おまえは奴らの相手を頼む」

 全身をクチクラの外殻で覆った甲虫の様な下級悪魔が、次々と穴の中から這い出して来ている――アルカードは小さく嘆息して、手にした魔具を軽く振り抜いた。

「はいよ」

 

   *

 

 天候はあまりいいとは言えない――航空高度では雨雲より高い位置になるので気にならないが、地上はかなり曇っている。そういえば天気予報も、札幌に雨の予測を出していた――無論雪よりはましだが。

 そんなことを考えつつ機内で開封したコカ・コーラの烏龍茶『ファン』のペットボトルの蓋を元に戻して立ち上がり、頭上の荷物入れからナイロン製のアリスパックを引っ張り出す。

 前の座席の裏のネットの中に入れてあった冊子――半分は通販カタログだが――の内容が面白かったので、アルカードはそれをアリスパックの中に入れてからアリスパックを肩に引っ掛けた。どうせテイクフリーだ。

 すでに八割がたの乗客が降りていった機内で座席の間の狭い通路を通り抜け、アルカードは悠然と歩を進めていった。

 すでにほとんどの人が機内から降りたために閑散とした搭乗橋ボーディング・ブリッジを、車椅子に乗った女性とその車椅子を押している若い女性の後ろについて歩いていく。

 搭乗橋ボーディング・ブリッジの通路の端に近い位置を歩くアルカードの脇を通り抜けて、同じ様にいくらか乗降ラッシュが終わるのを待っていた乗客数人が足早にアルカードを追い抜いていった。別段それに合わせて足を早めようとも思わずに、ターミナルビルへと足を踏み入れる。どうせ機内預かりの荷物の受け取り場で足止めを喰うのだから、急いだところで時間の無駄だ。

 降機後の順路は決まっているので、それに逆らわずに歩いていく――エレベーターのボタンを押している車椅子の女性たちを横目に階段を降りると、国内線手荷物受取所の壁に設置された掲示板に先ほどまで乗っていた飛行機の便名が表示されたところだった。

 ANA065便、羽田空港発新千歳空港行き。

 U字型のベルトコンベアの周りには、すでに同じ機に搭乗した乗客が集まっている――アルカードがのんびりと機内で荷物をまとめている間に、狭苦しい通路で意味も無く押し合い圧し合いしながら我先にと出て行った人々だ。

 急いで出たところで混み合うだけなので、アルカードは機内からすぐに出ることなど考えもしなかった――急いで降りようがのんびり降りようが機内預かりの荷物を受け取る必要がある人はどのみちみんなここで足止めを喰うのだから、急ぐことに意味など無いと思うのだが。

 ちらほらとこちらに視線を向けている者がいるのは、アルカードが手荷物検査を受けずに出発ロビーに入るところを横で見ていた者たちだろう――アルカードは基本的に、外交官特権を使わないと飛行機に乗れない。アルカードの左腕はただの流動する金属の塊で、したがってエックス線などの金属探知機や透視装置スキャナーを通ったときに人間の腕とは違う影が映るからだ。そのためアルカードは普段は陸路か海路が多く、飛行機を利用することはあまり無い。

 もっとも、普段アルカードが飛行機を避けるのには必ず外交官特権でごり押ししなければならないという理由のほかに、飛行機は突発事態に対処が難しいという理由もある――仮に機長と副操縦士、その両方の身になにかあったとしても、アルカードは事態に対処出来る。陸は自動車、空は航空機、水上なら船、水の中なら潜水艦。ひとりで動かせる乗り物ならば、彼はひととおり操縦出来る。

 実際にボーイングのジャンボ機がハイジャックに遭ったとき、犯人を始末してから負傷した操縦士たちの代わりに空港に着陸させた実績もある――が、機体に穴を空けられたらどうしようもない。航空高度で吸血鬼に襲撃され墜落に至ったとしてもアルカードはひとりだけ生き延びるだろうが、ほかの乗客たちは絶対に助からない。

 だから、アルカードは物事を楽観視したことは無い――今回吸血鬼の襲撃を受けなかったのはただ単なる僥倖でしかないのだと、彼はそう思っている。

 大使館側で手配した航空機が午後一番出発の便だったから、吸血鬼が乗客に紛れ込んで一緒の便に乗り込んでいる確率はいくらか抑えられただろう。だが直射日光をじかに浴びない日陰を伝ってくれば日中に活動出来ないわけではないし、その可能性は決して否定出来ない。やろうと思えば、日中に飛行機に乗ることが出来ないわけではないのだ。それはもうきのと雅三さんのごとく、あからさまに不審者然とした挙動になるだろうが。

 だから、アルカードは四六時中襲撃を警戒して行動している。

 どんなに油断しても、アルカードが敗れることはおそらく無い――やってきた刺客がロイヤルクラシック本人、もしくはその『剣』でもない限りは。だが譬え相手が吹けば飛ぶ様な雑魚であろうと、アルカードが気を抜けば確実に余計な巻き添えが出るのだ。

 そんなわけでアルカードはお世辞にも上機嫌とは言えない気分で手近な柱にもたれかかり、荷物が出てくるのを待っていた。電光掲示板に便名は表示されていたが、案の定ベルトコンベアはまだ動いていない。じきに荷物を載せて回転し始めるだろう。

 目星をつけたコンベアが自分の荷物を扱っているものであることだけを確認してから、アルカードはベルトコンベアの周りに集まる人々をよそに柱に体重を預けてポーチから携帯電話を取り出した。

 電源ボタンを長押しすると、しばらくしてそれまでシャットダウンしていた携帯電話が起動した。液晶ディスプレイに光が燈り、やがて待受け画面が表示される――パスワードを入力してロックを解除し、メールのボタンを押しっぱなしにしてメールの問い合わせ機能を起動させてから、アルカードは携帯電話を折りたたんでウエストポーチに押し込んだ。あとは放っておけば、電源を切っていた間にサーバーに届いたメールを勝手にダウンロードしてくれる。

 しばらくたってからようやっとコンベアが動き始め、ちらほらと乗客の荷物が姿を見せ始める。それがわかったのは憤怒の火星Mars of Wrath視覚――三次元俯瞰視界3Dオーバールッキング・ビュアーを使って、天井に近い位置からコンベアを見下ろしているからだった。肉眼の視界ではコンベアの周りに群がった利用客たちに遮られて、コンベアの様子は窺えない。

 同乗していた乗客たちが自分のものであろう荷物を手に取り、手元の番号と照らし合わせながら取り上げていく。

 その光景から視線をはずし、アルカードは足元に置いてあったアリスパックに視線を落とした。どのみち三次元俯瞰視界3Dオーバールッキング・ビュアーでコンベアの様子はいるのだ。どうせ人だかりしか見えない肉眼でコンベアの様子を注視している必要も無い。

 こんな場所で置き引きがいるとも思えないが――到着ロビーから出るために、機内預かりの荷物の番号と引き換え券の番号の合致を確認する人員を突破しなければならないからだ――、一応ショルダーストラップに足を通して、アリスパックを持ち去ろうとしたらすぐにわかる様にしてある。もちろん置き忘れを防止するのにも有効だ。

 アリスパックのそばに立てていた烏龍茶のペットボトルを取り上げてキャップを開けて口をつけ、アルカードは七割がた飲み干したボトルの残りを一気に飲み乾した。手荷物受取場にはゴミ箱が見当たらなかったので、再びバックパックのそばに立てて置いておく。

 まだコンベア周りの人が減る様子は無い――ボーイング747-400は五百以上の客席を用意することが出来るのだ。それだけの人数が荷物待ちをしているのだから、人だかりは簡単には減らないだろう――すでに目的地には到着しているので、アルカードとしては別に焦るつもりは無かった。

 今日の予定は任地になる学園に到着し、そこの理事長に接触することだけだ。すでに目的地近隣には到着しているので、多少時間を喰ったところでかまいはしない。

 あとは公共交通機関を使って目星をつけたレンタカー会社まで移動し、そこで適当な当面の移動手段あしを調達する。それに乗って目的の学園まで行けば、それで今日の予定は終わりだ。

 アルカードはウエストポーチのファスナーを引いて、中からKENWOOD製の音楽プレイヤーを取り出した。

 ストラップを首にかけ、プレイヤーの電源を入れて、イヤホンを耳に押し込む。

 SUM41のNo Reasonが途中からレジューム再生され始めたので頭出しボタンを押して最初から再生し直してから、アルカードは両手で逆の腕の肘を掴む様にして腕を組んだ。

 コンベアを囲んでいる人々の中に参加する気は無かった――どのみち荷物が出てくるには数分かかる。コンベアの周りに張りついて待っていることに意味は無い。

 手持無沙汰を自覚しながら、アルカードは嘆息した――少し気分が悪い。

 飲み物がほしかったが手持ちの飲料は飲み尽くしてしまったし、買うところも無い。飴玉を用意してあったが、そんなものを口にしようものなら余計に喉が渇く。結果耐えるしかない。

 もう少し飲み物を持ち込んでおくべきだったか――ゴミ箱も自販機も無い荷物受取所を見回して少し後悔しながら、アルカードは小さく息を吐いた。荷物受取上から出てしまえば正面にローソンがあるのだが、一度出てしまうと再入場出来ないのですぐに行くわけにもいかない。

 アルカードは溜め息をついて、足元の『イーグル』のA-3バックパックを見下ろした――愛用品のバックパックの中には、リンゴ味のキャンディのパッケージが入っている。

 飛行機の中で耳が痛くなるのは、機内の気圧が低下した際に鼓膜の外側と内側で気圧の差が生じるためだ――航空機の内部は圧力調整を行わなければ気圧が低下することで生じる呼吸困難と、熱伝導の媒体が失われて空調が効かなくなるために、あらかじめ与圧され加温されている。

 ただ、与圧はどうしても地上よりは低くなる――ただでさえ乏しい空気を掻き集めて室内に流し込んでいるのだからそれは仕方無いし、機体内外の気圧差が大きくなればなるほど機体が要求される剛性は高くなる。

 与圧は〇・七から〇・八気圧程度で、頭蓋骨の内外で気圧に差が生じる。その気圧差で鼓膜が外側に膨張し、耳が痛くなるのだ――唾を飲み込むだけである程度改善を見るのだが、そのため飴玉を舐めているだけである程度ましになる。

 そこで飛行機に乗る前に、空港のコンビニで飲料と一緒にキャンディを買ったのだが――糖分のせいでひどく喉が渇く。せめて、あと二本――コンビニで飴玉と一緒に十分な量の飲み物を買うことに気が回らなかったのは失敗だった。胸中でつぶやいて、アルカードは本日何度目かになる溜め息をついた。

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