The Evil Castle 3

 

   *

 

 外気温が低いうえ風速冷却と表面に附着した雪のせいで冷え切った馬鎧が冷たいのだろう、跨った立派な栗毛の馬が苦しげに嘶きを漏らす――全身を鎧う甲冑の装甲板は完全に冷え切っており、指先は凍え力が入らない。それなりに防寒を整えたアルカードでもそうなのだ、体表にじかに馬鎧を着けた馬の負担は彼の比ではあるまい。

 展開した『帷子』は外気温の影響こそ遮断するものの、雨粒や雪といったものの附着は防げない――そのため、風速冷却や外気温による冷え込みは防げても雪の粒が肌や装甲板の上で溶けるときに熱を奪うのを防ぐことは出来ない。

 装甲板を通じて熱が奪われていくことで徐々に冷えてかじかんでいく右手を手綱から離し、懐に隠した温石に触れる――手袋の上からなので暖まるのは遅かったが、熱した石は帯びた熱を徐々に指先に伝えてきた。

 両手とも憤怒の火星Mars of Wrathにしておくべきだったか――耳や鼻を保護するために頭に巻いた布が緩んできたのに舌打ちを漏らし、アルカードは左手を外套の合わせ目から出した。雪の積もった外套のフードを払いのけ、指先で布を捻って締め直す。再びフードをかぶると、フードの内側に入り込んだ雪が首筋に触れた。

 グリゴラシュとの戦闘で失った左腕の代わりに義手として接合した魔術兵装ディヴァイス憤怒の火星Mars of Wrathは身を切る様な風の冷たさを寒さではなく、あくまでも周囲の外気温度という情報の形で使用者の脳に淡々と伝えてきている。

 外気温はマテリウス温度――魔術師たちが用いる独自の温度単位――で九百三十度。アンデルス・セルシウスが一七四二年に考案した、人間の間でよく使われている温度単位――セルシウス温度に強引に換算するなら百十二度に相当する(※)。

 正面から吹きつけてくる風に乗って飛んできた雪が目に入ってくるので、目を開けているのも難しい。

 ロイヤルクラシックの高度視覚のほとんどは温度の低い環境では役に立たず、高感度視界も光源が乏しいためにいささか暗い――この低温下では、真祖の高度視覚も盲同然だ。胸中でつぶやいてから、アルカードは嘆息して高度視覚を解除した。

 領主の居城に通じる道は、切り立った崖を切り拓いて造られた山道だった――無論ほかの道もあるのだろうが、途中の兵站拠点にいた兵士どもや子供たちの父親から聞き出したとおりなら、あの村から直接出向くにはこの道が最短らしい。

 これが晴れていればそれなりの絶景なのだろうが、この状況ではいつ崖から足を踏みはずすかのほうが問題だった――崖下から吹き上げてくる風が悪天候の強風と相まって複雑な気流を形成し、以前から積もっていたものらしい粉雪を螺旋を描きながら巻き上げている。

 周囲を吹き荒れる強風はすぐ横の崖下から吹き上げてくる風によって正面から横殴り、あるいは背後へと、うねる様にころころと方向を変えており、それに乗って吹きつけてくる吹雪が常に集中を散漫にさせるうえ、白くガスがかかってろくに視程が利かない。

 よくもこんなところに城を建てる気になったもんだ――否、防衛拠点としては向いているのかもしれないが、領主の居城としては不便すぎるだろう。

 そんなことを考えながら頭を包む布をちょいちょいと引っ張って、頭の右半分にくっついた雪を振り払う――たったそれだけの動作だというのに、悪魔の外殻を加工して作られた真っ黒な甲冑の装甲板は手を引っ込めたときには湿気を含んだ大粒の雪で真っ白になっていた。

 手首を振って雪を払い落としてから、外套の中に手を引っ込める――温石をもっと大量に用意しておくべきだったかもしれない。

 そんなことを考えながら軽率にこの山道に踏み込んだことに後悔の念をいだき始めたとき、視線の先に弱々しい橙の明かりを見つけて、アルカードは目を細めた。

 近づいていくにつれて、そこだけ洞穴の様に深く掘られた穴の中に設けられた掘っ立て小屋と、その小屋の窓から漏れる光がはっきりと見て取れる――警衛所のたぐいなのだろうか。

 おそらく普段から風が強いので小屋の耐風性を高めるためだろう、小屋は完全に穴の中に入り込んでいる。それは同時に、小屋の中から直接道を見張るのが難しいということでもあるのだが。

 この天候では誰も来るまいということか、小屋の外に出ている者は誰もいなかった。

 もちっとやる気出せ。

 胸中でつぶやいて、アルカードは小さく嘆息した。

 膚を切る様な冷たい風が吹き抜け、露出した目元をかすめた風が激痛にも似た感覚を残す。

 外套から剥き出しになっていたために雪に曝されて冷え切った甲冑が鎧下越しに容赦無く体温を奪っていくのにも頓着せぬまま、アルカードはそれまで跨っていた馬の背からひらりと飛び降りた。

 さてどうしたものか。

 別に放っておいてもいいが、あの村の様な傍若無人を行う兵士どもの片棒担ぎのたぐいならば生かしておくだけの値打ちも無いだろう――それに中では火が焚かれている様だったので、掘っ立て小屋を無傷で制圧すれば暖が取れる。

 俄然やる気が高まるのを感じつつ、窓に近づいて内部の様子を窺う――小屋に近づくと、風の音に混じって人の話し声が聞こえてきた。

「今日攫ってきてた女、あれはよかったよな」

「ああ、あの女やりてえなあ――ひとりふたりくらい、ここに置いてってくれりゃいいのに」

「そうか? 俺はもっと子供がいいが。ほれ、どこかの家に十歳くらいの子供がふたりいただろう」

「おまえ……十歳やそこらじゃ出てるもんも出てないだろうに」

「馬鹿、それがいいんだよ。それに子供は締まりがいいぞ?」

 うん、皆殺しにしよう。

 胸中でつぶやいて、アルカードは装甲の上から腰回りに括りつけた雑嚢の中に手を突っ込んだ。中にぎっしり詰まっていた小指の先ほどの大きさの鉛玉を数個掴み出し、小屋を廻り込んで出入り口に接近する。

 扉を開け閉めしたときに風が入らない様にだろう、小屋の出入り口は洞穴の内側に向けて設置されている――いきなり蹴破ってもよかったのだが、それをすると扉が壊れて暖を取れなくなる。

 別の手で行くか。胸中でつぶやいて、アルカードは太腿を鎧う装甲の隙間に仕込んでいた鞘から刺殺用の鎧徹アーマーピアッサーを引き抜いた。

 同時に、右目だけ高度視覚に切り替える――右目の視界だけが赤外線を探知する青い視界に変わり、壁越しに熱源が蠢いているのが赤と黄色の塊として映り込んでいる。

 さっきの会話から判断する限り、声は五種類――最低五人。

 中央にある絶えず揺らめく様に動いている大きな熱源は、おそらく焚火だろう――こんな小さな掘っ立て小屋に、わざわざ暖炉やストーブなどの本格的な火を扱う機器を用意するとは思えない。

 壁際には小さな熱源がふたつ――おそらく照明器具か。

 そして人影。全部で五人、全員男。

 ごん、と鎧徹アーマーピアッサーを保持した左手の甲で扉を小突く――同時に右目の視界の中で、壁越しに透視している赤と黄色で描かれた人影が動きを見せた。

 そのうちのひとりが、なにやら言葉を交わしながらこちらに近づいてくる――会話の内容から察するに、物音が侵入者の立てたものとは微塵も思っていない。

 油の切れた蝶番の軋み音とともに扉が開き、顔を出した兵士が扉の前でかがみ込んだアルカードの姿を目にして硬直する。

 咄嗟の対応が取れていない――訓練が足りない。

 アルカードは剥き出しになった兵士の首に、逆手で保持した鎧徹アーマーピアッサーを正面から突き立てた――気道と頸動脈を引き裂いた針の様に細い刃の鋒がうなじから飛び出し、一度だけ噴水の様に血が噴き出す。顔の半分を濡らす血糊を気に留めず、アルカードはぐったりと弛緩した敵兵の体を楯にする様に誇示しながら小屋の中へと踏み込んだ。

 小屋には床は無く、剥き出しになった地面に直接薪が積まれて火が焚かれており、鍋を吊るすための三脚が置かれている――放射冷却への対策のつもりなのだろう、焚火を囲む様にして置かれた長椅子の前、ちょうど足を置くあたりに角材が寝かされている。おそらくそれに足を置いて、直接足を地面に置かない様にするのだろう。

 兵士たちはひとりを覗いて全員椅子に座っており、残る一名は壁際に置かれていた寝台の上で寝そべっている。いずれも体勢が悪い。制圧は容易だ。

 アルカードは楯にした敵兵の体越しに右手を突き出すと、保持していた鉛玉を指先で弾き飛ばした。

 銃弾のそれに似た破裂音とともに、座っていた敵兵のうち奥にいた兵士が眉間から赤いものを噴出させながら着弾の衝撃で上体を仰け反らせる。

 続いて残る敵兵が反応するいとまも無く、アルカードは続けて椅子に座っていたふたりの兵士の頭部めがけて指弾を撃ち込んだ。

 ぱぁん、という破裂音とともに正確にこめかみを撃ち抜かれた兵士ふたりが横殴りの衝撃で椅子から転げ落ち、その物音で目を覚ましたらしい兵士が寝台の上で身を起こしかけ――後頭部から撃ち込まれた指弾に頭蓋を粉砕されて、そのまま再び寝台の上に横倒しになった。

 小屋の制圧が終わったところで、アルカードは五人の兵士の屍を小屋の外へと運び出した。死体に囲まれて一時の休息などごめんこうむりたい。

 横穴の奥の雪の吹き溜まりに兵士たちの死体を放り棄て――そのうち雪に埋もれて見えなくなるだろう――、再び小屋の中に取って返す。

 アルカードはまず頭を覆っていた布を取り去り、ついで雪まみれになった外套を脱いだ。一インチ近い厚みの雪がくっついた外套を目にしてぎょっとしつつ、外套をバタバタ振って雪を払い落とす。

 出入り口の横の壁に外套や帽子を引っ掛けておくためのフックがあったのでそこに外套を引っ掛け、三脚のてっぺんに引っ掛ける様にして頭を覆っていた布を炎の上に翳してから、アルカードは椅子のひとつに腰を下ろした。焚火の前で腰を落ち着けると、煌々と燃える炎が放射する熱が凍えた体にじわりと沁み込んでくる。

 雨粒や雪を防いでくれないので決して万能とはいえない『帷子』だが、周囲から取り込んだ熱を外に逃がさないので、周りに熱源がある場合の体温の回復は格段に早くなる。

 人心地ついたところで、アルカードは懐に手を入れてそれまで懐に収めていた温石を取り出した。

 温度を調整するための布にくるんであった石を、焚火の上に放り出す――原始的な携帯暖房器具の一種なのだが、ちょっと数が足りなかった。

 部屋の中に漂う血臭を意識から締め出して両脚を鎧う装甲一面にべったりとくっついた雪を払い落とし、炎に手を翳す――手甲の装甲板にくっついていた雪の結晶が焚火の熱で急速に溶けて、魔術製法を施された装甲の表面を伝い落ちていく。

 軽く息を吸って――次の瞬間ごうっという音とともに室内に熱風が起こった。

 周囲の気温を上げると同時に風を起こし、熱風を浴びせることで対象を乾燥させる精霊魔術の一種だ――グリーンウッド家の精霊魔術は基本的に複数の魔術を組み合わせて望んだ効果を作り出すので、その場の即興アドリブで作る魔術も多い。そのためすべての魔術に名前がつけられているわけではなく、この魔術もその例に漏れない。

 あまり風を強くすると焚き火の火が消えたり大量の火の粉が舞ったりするので、風の強さはそこそこ――風に煽られて炎が揺れ、外套がバサバサと揺れた。

 いつだったかあの遺跡でグリーンウッドが見せた様な、一瞬で濡れた衣服が乾燥するほどの熱風ではない――だが数十秒も経過するころには、濡れた衣服は完全に乾燥していた。

 とりあえず、吹雪が多少なりとも収まるまではここにいることにしよう――正直に言うと、強行軍で疲労していたことは否めない。

 それに――正直に言えば、今の体調コンディションで同様の強行軍を続けるのは自殺行為だ。

 低体温症の治療は、通常まず深体温を上げることから始めなければならない。それをせずにいきなり風呂などに漬け込むと、血液が体表に集中するのと同時に冷たい血液が心臓に大量に戻ってより深刻な状態になる。

 そのため、本来であれば濡れた衣服を着替えさせて体を乾かし、温かい飲み物などの摂取によって体内から先に温める必要がある。

 無論アルカードの場合はそこまで深刻なものではないが、この先吹雪がいつまで続くかわからないので強行軍は避けたい――目的地にたどり着けても、十全に戦闘を行える体調コンディションを保っていなければ意味が無い。

 まずはいったんここで休息をとり、体温を完全に回復させる。その間に吹雪が多少なりとも収まってくれれば御の字だ。

 熱の放射で暖められた空気が肌に触れる感触が心地よく、アルカードはそのまま少しだけ体の力を抜いた。


※……

 セルシウス温度、いわゆる摂氏温度は現在では水の凝固点を零度、沸点を百度としていますが、考案された当時は現代式とは逆に沸点を零度、凝固点を百度として、温度が下がれば下がるほど数字が増えていく形式をとっていました。百十二度はマイナス十二度です。また当時のセルシウス温度は沸点から凝固点までの目盛りを百等分していたため、マイナス一度以上および百一度以下の温度は存在しません。したがって、アルカードの摂氏表現はあくまで便宜的なものです。

 ちなみにこの沸点をゼロとして低温側に伸びていく温度表記はセルシウスの死後、翌一七四四年に改められ、凝固点をゼロとし高温側に伸びていく形式になりました。

 セルシウス温度は一九四八年、第九回国際度量衝会議開催の折に現代式に改められ、正式に『ケルビンで表した熱力学温度の値から二百七十三・一五を減じたもの』となりました。

 マテリウス温度は魔術師たちが考案した独自の温度単位で、熱力学温度と同じく絶対零度をゼロとします。ただし単位であるマテリウス度が表す間隔は熱力学温度やセルシウス度とは異なり、マテリウス度の一度がセルシウス度における〇・二八度に相当します。

 したがってマテリウス温度の九百三十度は二百六十ケルビン、前述のとおり現代式のセルシウス温度に直すとマイナス十二度です。

 なお、セルシウス温度をセルシウス温度と呼ぶのは正しくは誤りです。

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