Dance with Midians 11

 

   *

 

「アルカード……アルカード? ねえ、聞いてる?」 耳元で何度か呼びかけられ、アルカードはようやく我に返った。

 我を取り戻せば、そこはもはや星々と満月を戴くカルカッタの夜空の下でもなく、魔術で引き起こされた爆発によって活火山の火口のごとき様相を呈する寺院の跡でもない――眼前にかつては兄であった仇敵の姿は無く、まだ若かったのちの友の姿も無い。

 気づけばそこは警察署の署内で、視界に入ってくるのは切れかけた蛍光燈に照らし出された白い壁だけだった。無論彼自身も甲冑で全身を鎧った手負いの有様でもなく、着慣れたジャケットを着て壁にもたれて立っている。

 視線をめぐらせると、アンは若干不服そうな表情でこちらを睨みつけている。

「やっと目が覚めた? 刑事さんが来たわよって言ったの、聞こえてなかったのかしら」

 その言葉に、アルカードは壁の角から身を乗り出して警察署の正面玄関のほうを見遣った。硝子製の正面玄関の向こうで覆面パトカーらしいメタリックグレーのセダンがエンジンを温めており、そのかたわらに風祭が立っている。

「ああ、すまん」 アルカードは短く答えて、幻想を追い払うとするかの様にかぶりを振った。

 その返答にアンが小さく嘆息して、

「とりあえずは気分を落ち着けて。わよ」

 その言葉に、アルカードはアンに視線を向けた――彼女の瞳に映り込んだ自分の顔の中で、両目が深紅に輝いている。

 どうやら思ったよりも気分が昂っていたらしい――平静を取り戻そうと一度深呼吸して、アルカードは壁から身を離した。

「まったく、こっちが呼んでも返事もしないし――女の子の言葉を無視してると、もてないわよ?」

「知らん。どうでもいい」 無愛想に答えて、適当に手を振る――そうだ、女などどうでもいい。

「……貴方、なんだか今ピリピリしてない?」

 いつもだったらもう少しノリのいい反応を返すのに、とアンが言ってくる――たしかにそうだ、と胸中で納得しながら、アルカードはうなずいた。

「そうかもしれんな――少し昔のことを思い出してたもんでな」

「……それ、わたしも知ってること?」 眉をひそめてそう尋ねてくるアンに、アルカードは首を振った。

「否、もっと昔の話だ――ずいぶんと昔のな」

 そう答えて、アルカードは歩き出した。警察署の正面玄関を開けると、隙間から外の冷気が一気に流れ込んできた。

 少しばかり左腕が痺れているのを自覚して、舌打ちする。

 指に力が入らない――拳を作ろうとしても、指が言うことを聞かない。

 憤怒の火星Mars of Wrathを見下ろして、アルカードは再び小さく舌打ちした。

 憤怒の火星Mars of Wrath――欠損した左腕を補うために義肢として接合した憤怒の火星Mars of Wrathは照射範囲にある物体すべてを分子レベルで破壊する波動を発する『炮台タレット』と射撃体勢に入った使用者を守るための自動防御システムとしての触手、そしてそれらが正確に標的に狙いを定められる様にするための照準装置としての高性能複合センサーからなっている。

 自動防御システムは銀行で指先だけを刃物状に変化させて強盗犯の腕もろともショットガンのレシーヴァーを切断した様に、腕の基本形状を崩さずに部分的に変形させることで射撃モードに入らなくても使うことが出来る。光源を一切必要とせずに肉眼の視界外を確認することの出来る複合センサー群も、死角を補うという意味で極めて有用なものだ――その代わり大量のリアルタイム情報を処理することになるため、脳にはかなり大きな負荷がかかるのだが。

 だが同時に、憤怒の火星Mars of Wrathの自動防御システムは稼働させるとすさまじい勢いで魔力を喰い潰す――アルカードの左腕の義手として接合された憤怒の火星Mars of Wrathは一種の筋電義手の様なもので、回路パスを通してアルカードの霊体と接続されており、ファイヤースパウンの魔術師たちが『霊体の波紋』と呼ぶ一種の脳波の様なものを感知することで制御されている。

 義手としての機能やその原型である自動防御システムの触手は『霊体の波紋』によって自分の意思で制御することが出来、これが義手としての運用を可能にしている――煉獄炮フォマルハウト・フレアと呼ばれる『炮台タレット』を稼働させ、波動を照射するための魔力や複合センサー群を稼働させるための動力はアルカードの霊体から直接供給されるから影響は無いし、普通に義手としているぶんには魔力の消費量よりも量のほうが多いために行動不能に陥る様なリスクは無い。だが自動防御システムを起動してしまうと、それがごく短時間の間に大量の魔力を喰い潰してしまう。

 を起こすと左腕が完全に動かなくなり、十全の状態に機能を回復するまでには二週間以上かかる。今は電池切れとまではいかないものの、が低下して反応が遅くなり握力が低下しているのだ――バッテリーの電圧が低下すると車や自動二輪のスターターモーターの回転が弱くなり、あるいは電池が消耗してきた懐中電燈の光が弱くなるのと、まあ似た様なものだ。右手に比べて反応が悪く、力も入らない――おそらく握力は半分以下まで落ちているだろう。

 回路パスを通して大量の魔力が供給されるときに感じる強烈な激痛がすでに治まりつつあることに安堵して、アルカードは表情を変えぬまま胸中でだけ息を吐いた。もっと長引くことを覚悟していたが、これならそれほど問題にはならなさそうだ。

 とりあえず手袋を失くしてしまったのが痛い――左右でそれぞれ長さの異なる手袋をつけているのだが、両手セットの手袋を買って片方ずつつけているので、また新しくワンセット買わなければならない。

 そこまで考えてから、彼は小さく毒づいた。郵便局で手袋を回収してくるのを忘れていた。手袋自体は人差し指を長さ一メートルほどの刃のついた鈎爪に変化させた際に裂けて失っているのだが、その残骸を回収してくるのを忘れていたのだ。

 まあ、回収し損ねたものをどうこう言っても仕方無い。今頃、現場にやってきた警察官たちによって回収されているだろう。出来れば回収しておきたいが、し損ねたらし損ねたでだからどうだというほどのものでもない。

 風祭が後部座席のドアを開けてくれたので、アルカードはアンに乗る様に促してから自分は反対側に廻り込んだ。

「お住まい、硲南でしたね?」 助手席に乗り込みながら、風祭がそう尋ねてくる。ハンドルを握っているのは、彼よりもだいぶ若い刑事だった。

「ええ、二丁目の三です」 アルカードがそう答えると、若い刑事がサイドブレーキをはずしてセレクターをDレンジに入れた。

 クリーピングでゆっくりと動き出したセダンのハンドルを素早く切りながら、若い刑事がウィンカーを点燈させる。

「パトカーってオートマなんですか」 覆面パトカーの無線機材を物珍しげに見ながら、アンがそんな言葉を口にする。

「マニュアルミッションばかりだと思ってました」

「ええ、今はオートマ限定免許しか持ってない奴も多いもんでね――おっさんはオートマの扱いがよくわからないんで、若い者任せになってます」 そう答えてから、風祭はちょっと考えて、

「……というのが建前で、実際のところはパトカーのベースになる車にマニュアルミッションの仕様が無いんですよ――少なくともこの車種はね。実のところ、日本の車のメーカーにはパトカーの専用グレードってのがあるんですが、この車は入札で購入したものなんで」

「そんなのあるんですか――パトカー専用グレード?」

「ええ、そこらのディーラーでカタログをくれるわけじゃないんですが。そういう専用グレードだとマニュアルミッションつきの車もあるんですけどね――ただ、覆面仕様のパトカーは今のところ、トヨタのクラウンしかありません。パンダに比べても数が少ないもんで」 パンダというのは白黒に塗装された普通のパトカーのことだろう――若い女が相手だからかよくしゃべる風祭から視線をはずして、アルカードは窓の外に視線を向けた。話好きの風祭の相手は、アンに任せておけばいいだろう。

 いざ覆面パトカーが動き出してしまうと、運転手や風祭と会話しているのはアンだけで、アルカードはまるで口を利かなかった――時折運転手とアンが不思議そうな視線を向けてくるのはわかっていたが、それは気にしない。

 久しぶりに古い記憶を思い出したものだ。胸中でつぶやいて、苦笑する。

 グリゴラシュ・ドラゴスとは数年前にフィレンツェで殺り合ったのが最後だが、結局決着はつかずじまいで、彼は今なおどこかに身をひそめている。

 まだたがいに若かったあのころ、彼のかかえ込んでいたゆがみに気づけていれば、彼らの関係は違うものになっていたのだろうか――

 小さく溜め息をついて、アルカードはかぶりを振って思考を止めた。

 考えるだけ時間の無駄だ――現実は変わらない。

 覆面パトカーは駐車場敷地の北側に停車していたが、運転手の若い刑事は駐車場内で転回して東側の開口部から出るつもりの様だった。彼らがいる深川中央警察署の駐車場には国道に面した北側と硲方面から国道を南北に貫く幹線市道に面した東側の二方向から出入りが出来るのだが、北側から出るととんでもない回り道になるのだ。

 この街は深川と硲を含む合計七つの自治体の合併により出来たもので、警察署は旧深川町と旧硲町をちょうど南北に分断する国道の南側に面している。

 国道は上り線と下り線の間に高速道路の高架があるために往路と復路が完全に分断されているのだが、警察署はその道を東西に分断する、深川中央交差点――正しい呼称は深川中央警察署前なのだが、そう呼んでいる人を見たことが無い――の南西の角に建っている。アルカードが郵便局に行くのに通った、小雪と合流した硲西の交差点から続く幹線市道の延長だ。そのため、深川中央警察署は国道と市道、その両方に面していることになる。

 国道は往路と復路が効果をはさんで南北に分かれているので、車線を上から見るとカタカナの『キ』の字に似ている。

 警察署から縦棒をはさんで反対側、右下の角には大型トラックに対応した大手のガソリンスタンドが建っており、その南側の並びに事件の現場になった郵便局がある。警察署の西側の並びには消防署や、硲西の交差点東側の日本家屋に住む一族が経営する大きな総合病院が建っている――近隣多数の不動産を有する大地主でもあり、硲西の交差点のところにあったコンビニエンスストアの北向かいの機械化された駐車場も彼らの経営だ。

 キの字の一番上の左右、交差点の北側にはキの字の右上と左上を渡り廊下で連結した巨大なショッピングセンターが建っており、左上、つまり北西側はJRの駅と一体になっている。

 アルカードやアンの住むアパートに向かうためには、警察署の敷地の北側から出ると国道を東側に向かう必要がある――のだが、高架があるために直接東行きの車線に出ることは出来ない。

 そのため、一度西へ向かってから適当な信号で転回して引き返す必要がある――最初の信号は転回禁止なので、一番近い信号はふたつめになるが。信号の間隔がかなり離れているため、かなりの回り道になる――消防車が高架下を抜けて東行きの車線に出るための開口部が設けられているのだが、比較的速度域の高い二車線の国道なので緊急時以外に道路を突っ切ってそこに入るのは勇気がいる。交差点自体がかなり大規模なために、交差点を抜けた時点での通行車輌の速度もかなり上がっており、結果速度域が高くなりがちだからだ。

 東側の出入り口は信号との位置関係が悪く、ちょうど停止線の真横に開口部がくる――なので、こちらから南側の車線に出るのは少々忍耐が必要になる。この時間帯だと北行きの車線がふさがりがちで、それに邪魔されて南行きの車線に入れないからだ――それでも遠回りするより幾分かましだが。

 幸いなことに北行きの車線には信号待ちの車輌が止まっておらず、そのためすんなりと南北に走る市道に出ることが出来た。

 覆面パトカーを車道に出したところで、運転している若い刑事がアンと風祭の会話に加わった――どうも会話の内容からすると、パトカーファンが昂じて警官になった口らしい。

 幹線市道を南に下ると、信号のある小さな交差点と尾奈川の支流を跨ぐ橋をひとつ越えてすぐに住宅地になる。国道をはさんで北側――旧深川町――はベッドタウンとして再開発されており、そのために比較的新しい住宅が多く、埋設ガス管も整備されている。

 国道をはさんで南側――旧硲町――は上下水道は整備されているもののガス管は通っていないので、みんなプロパンガスを使用していた。アルカード個人の意見としては災害で埋設配管が破れて供給が止まることが無いので、これはこれでありだと思っているが。

 ちょうど高架道路で南北が区切られている様な風情になるが、再開発の始まった北側と違って、この近くは戦前に建てられた様な比較的古い家がそのまま残っているものも多い――といっても、第二次世界大戦中の空襲で焼けた家も多いそうだが。

 電柱に取りつけられた街燈が、道路を薄暗く照らし出していた――『スクールゾーン』という標示とともに、神経過敏なまでに大量のミラーが角という角に取りつけられている。

 もう六年くらい前の話だが、市役所が(特に当時の市長が)住民の再三の要請にもかかわらず設置費用をケチっていたために、当時はまだカーブミラーも街燈も無かった。状況が変わったのは四年と少し前の話で、当の市長が当時小学校に入ったばかりの少女を曲がり角で撥ね、重傷を負わせるという事故を起こしたのだ。

 当時の市長は公設の図書館と市民病院を財政難と施設老朽化を理由に閉鎖したりして評価が低かったうえに、自分自身が再三退けてきたカーブミラーが設置されていれば事故を防げていたということもあって、住民投票によるリコールの形で辞職に追い込まれた――直後の内部告発で発覚した、市の予算の使い込みで直後に逮捕されたこともあるのだが。

 その直後に暫定的に就任した市長代理が、内部告発を行った張本人なのだが――市長の着服も事実なのだが、実は自分自身の着服の罪まで着せて市長を告発したことが一週間後につまびらかになり、結果二週間の間に市の指導者が二度入れ替わることとなった。

 ちなみにさらなる新市長は予算使い込み問題と市の裏金にきっちり片をつけ、図書館と市民病院を建て替えて(老朽化そのものは事実だった)売却された医療器材を取り戻す様に話をつけて、カーブミラーや標識をきっちり整備したということで、それなりに評価されて現在二選目だ――残念ながら街を縄張りにする暴力団の対策に関しては、今ひとつというところだったが。

「ええと、二の三ていうとそこのコンビニの向こうでしたっけ」

 左手に大きな日本家屋、右手には手前に電動ゲートつきの有料駐車場、向こう側にコンビニのある丁字型交差点――硲西の信号で車を止めて、若い刑事がそんなことを口にする。

「たしかもうちょっと行ったら洋食屋があったはず――あ、そこがお勤め先ですか」

「はい、そうです――住んでるアパートはすぐ裏手にありますから、近くで降ろしてもらえれば」

「わかりました」

 アンの返答に、若い警官がそう返事をする。彼は覆面パトカーをしばらく走らせて三角公園の前を通過し、しばらく進んでから細い丁字路になった交差点の角にある駐車場の前で車を止めた。 元は住宅地用の敷地の一部を使っているので、かなり広い駐車場だ。

「ここで大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとうございます」 そう返事をして、アルカードは駐車場を手で示した。

「ここの駐車場全部俺が借りてるんで、よかったら空きスペースを転回に使ってください」

「助かります」

 五台駐車可能な駐車場の一番向こう側には、シャッターつきのバイクガレージが置いてある――道具や部品が増えすぎて、すでにガレージではなく物置と化しているが。

 ガレージの横にはローバーMGF――かなり古い車なのだが、持ち主であるフリドリッヒが気に入って乗っているのだ――、その横にジープが駐車され、空きスペースをひとつはさんで一番端にはアスファルトの上に転がされたコンクリートの塊に車体をチェーンで固縛されカバーをかけられたオートバイが一台止まっている。

「じゃあ、あのジープもバイクもローバーも貴方のですか」 空きスペースと駐車場幅を確認するために駐車場を確認しながら、若い刑事がそんな質問を口にする。

「MGFは違いますけどね」 アルカードがそう答えると、彼は興味津々といった口調で、

「バイクはなんですか?」 彼はそんな質問を口にしながら駐車場に対して車体を斜めにして、駐車場の空きスペースに覆面パトカーをバックで入れ始めた。

「DucatiのS2Rです」

「へえ」 覆面パトカーを完全に停止させた若い刑事が、アルカードの返答にカバー越しに車体が見えるとでもいう様にまじまじとオートバイを凝視する。

「いいなぁ、これほしいんですよ。いくらぐらいしました?」

「イタリアで直接買ってきたものなんで、日本円だとなんとも」 アルカードはそう答えて、アンに続いて車から降りた。

「一リッターのがもうじき出る予定なんで、買い替えようか迷ってるんですけどね」

 アルカードが返事をすると、若い刑事はうらやましげにオートバイとアルカードを見比べながら、

「もし買い替えられる様でしたら、これ俺に譲ってくださいません?」 車内から名刺を差し出しながら声をかけてくる若い刑事に、アルカードはうなずいた。受け取った名刺の内容を確認しながら、

「いいですよ――でも期待はしないでくださいね、俺ちょこちょこ壊しちまうもんで」

「ええ、買い替えるまで無事だったら是非」 という返答に、アルカードはうなずいた。

「わかりました。では刑事さん、風祭さんも、どうもありがとうございました――またなにか確認事項でもあったら、連絡をください。仕事中は携帯は持ってませんので、つながらない様なら店に電話をいただければ」

「そうします――こちらこそ、長時間つきあっていただいてありがとうございました。では」

 風祭がそう言って会釈し、若い刑事が車を発進させる。もと来た道を引き返して逝く覆面パトカーを見送って、アルカードは踵を返した。

 アンを促し、塀に設けられた扉を開ける――扉は駐車場から直接アパートの敷地内に出るためのもので、アパートの住人たちからはていのいい勝手口として利用されている。もっともアパートの玄関は建物の反対側なので、ちょっとした距離の短縮にしかならないのだが。

 最初に目に入ってきたのは、アルカードが育てているハバネロだった。

 正面の明かりがついているのは、アルカードの部屋だ――すでにメタルギアソリッドには飽きたのか、テレビの前のソファに並んで腰かけたエレオノーラとフリドリッヒが自分の部屋の部屋から持ってきたものと思しいゲームを遊んでいるのが、大きな掃き出し窓の向こうで丸見えになっている。ゲームのパッケージからすると、プレイステーション2版のソニック・ザ・ヘッジホッグだ。

 アルカードはふたりの姿を見てふうと溜め息をつくと、右拳の甲で窓硝子を軽く小突いた。 それでこちらに気づいたのか、エレオノーラがフリドリッヒに声を掛けてから立ち上がり、こちらに歩いてきて窓を開けた。

「お帰り。ずいぶん遅かったのね――あら、アンも一緒?」

「ああ。途中で一緒になった――ちょっとトラブルに巻き込まれてな」

「ふうん。それはともかく、晩御飯出来てるわよ。作りすぎたから、アンもどう?」

 アンがアルカードに視線を向けてきたので、アルカードは好きにしろ、と言う様に肩をすくめてみせた――他人の家の食材だからなのか計量する能力に欠けているのか知らないが、エレオノーラは食事を作りすぎる傾向がある。

 それを承知の上でやらせたので、アルカードはその点については特に指摘しなかった――それに、アンは警察署で自分が誘っている。

「じゃあ、わたしも戴いていくわ。ちょっと荷物を置いてくるわね」

 その言葉に、用意をするためにエレオノールがキッチンに歩いていく――普段アルカードが食事に使っているテーブルに、三人ぶんの食器が並んでいるのが見えた。おそらく、彼が帰ってくるのを待っていたのだろう。

 エレオノーラに窓を閉めるよう手振りで指示をして、玄関に廻り込むために歩き出す――自分の部屋だからといっても、窓から入る様な真似はしない。

 建物を廻り込んで共用廊下側へと歩いていくと、共用廊下の下に部屋の玄関と同じ壁に設けられた郵便受けが視界に入ってきた。それと一緒に、アパートの屋号のプレートも掲示されている――シャングリシーヌ硲。

 切れかけてちかちかとまたたいている共用廊下の蛍光燈を見上げて、アルカードは軽く首をかしげた――出発前は問題無かったのだがここ数日の間に寿命がきたらしい。あとで交換しよう。

 彼は郵便受けの蓋を開けて中身を確認してから、101という部屋番号の打たれた扉に歩み寄った。

 このアパートには外国人が多い。というか、趣旨からして外国人しかいない。

 持ち主は社会主義政権時代のルーマニア、ニコラエ・チャウシェスクの圧政から逃れ、夫人の親族を頼って日本にやってきたルーマニア出身の老夫婦――皮肉なことに彼ら夫婦は、かの独裁者と同姓なのだが――だ。

 難民認定を受けて日本で腰を落ちつけるまでに相当苦労したせいか、苦労している海外からの留学生の滞在の支援になればと外国人向けのアパートを始めたのだ――圧政者に兄を殺されて逃げ延びた彼ら夫婦と留学生では境遇が違うが、彼ら夫婦には自分たちが祖国を救えなかったのは勉強をしていなかったからだと考えている節があるらしい。

 普通の国ならそれでいいだろうが、圧政者がのさばっている状況で必要なのは、まず弾圧に抵抗しうるだけの武力だ――のさばる圧政者を打破したところで、はじめて勉学が役に立つ。

 彼ら老夫婦が営む料理店のアルバイト従業員の寮としての側面もあり、今のところ店子全員が従業員だった。

 アルカードは老夫婦から委託される形で、アパートの管理の様な仕事を任されている――ちょくちょくが入るので、万全とまではいかないが。

 とはいえ、偽装の立場を作るのにはちょうどいい――老夫婦としては、おそらくそのつもりで彼をここに引き留めたわけではないのだろうが。アンが隣の自分の部屋に歩いていくのを見送って、アルカードは自室の玄関を開けた。

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