マイクの向こうの草原

ワッショイよしだ

5日前

9月、早朝。

軽音楽部の部室で、僕は姿勢を正して直立する。

ヘッドホンをかける。

目をつぶる。

顎はひき、肩から腹にかけて脱力し、重心はへその下あたりに。

両足の裏をしっかり床につけ、ゆっくりと、声をだす。

僕の15センチ前にはマイクが置いてある。

これが、一番きれいに声を拾える距離らしい。

……。

普通はマイクの距離まで気にしないだろう。

普通なら。

……僕の声は普通でなく、汚い。

常に鼻が詰まっているように伸びがなく、ヘンな雑音がたくさん混ざっている。

だからこそ、そういう『良い声』に対する努力や意識が必要なのだ。

さらに、大事なのはマイクの距離だけではない。

マイクのずっと先に目標を定めることも、響く声の為に必要な意識なのだ。

現実世界のマイクの先にはすぐ部室の壁がある。防音用のコルク材で、そこには歴代部員のライブ録音CDが無節操に留められている。

現実はそうだ。

だが僕は空想世界をイメージする。

壁の向こうに広大な草原が広がっているのをイメージして、その広々とした空間に行き渡るような声をイメージする。

誰もいない大草原。雲一つない空。

凹凸のない、キレイな地平線の見える世界。

大草原と大空の間を、僕のまっすぐな声がぐるぐる巡って、そして消えていく。

遠くへと声が広がって消えていくイメージ。

それこそが美しい声を出すために重要なことなのだ。

「……いまの録音、良い感じだったかも」

思わず独り言つぶやいて、僕がゆっくりと瞼を開くと――


「なんか遠くない? マイクの位置」


異様にハスキーで、雑音まじりの、低い声。

瞼を開くと、僕の15センチ先には、マイクではなく女の子がいた。


「……なに、そんな、転げ回るほど驚くこと?」

「そりゃ驚くよ! いつからいたんだよ! てか誰だよ!」

大量の破損アンプの山に背中を預けたまま、僕は叫んだ。

「あれ、さっきの声と、しゃべり声と全然ちがうね」

と、彼女は眉を上げて言った。「今の方が良いよ、断然」

「余計なお世話だな……」

僕は立ち上がって、改めて彼女を見る。背は高くも低くもない。ちょっと毛先の自由なショートカットに、少し太い眉、眠たそうな目。ごく少量のそばかすの乗った小さな鼻に、感情の読めないまっすぐ水平な唇。

制服はちゃんと着ているように見えて、シャツの一番上のボタンは外していて、首もとのリボンが少しだらしなく伸びている。

そんな普通な外見の印象を吹き飛ばす、身震いするようなその声色。

彼女は、横にどかしたマイクをツンツンとつつきながら、

「マイクは齧り付いてナンボでしょ。そんな、ツマラン歌い方して楽しいの?」

と、言った。

「な……失礼では……」

「そうかしら」

「そりゃそうだろいきなりツマランて! てかマイクの距離は15センチが一番いいの! まっすぐ声が入って高音と低音のバランスも良くなって息もあまり入らなくて良いことしかない!」

「ふーん」

今度はいつの間にか僕の持っていたはずのバンドスコアをぱらぱらやっている。

「……ちょっと待って、それ僕らのバンドスコアじゃんぁあおおああああ!!?」

彼女はスコアを捲る手を止め、頁をびりびりと破り始めた。

「やっぱりいい声出すじゃん」

「あーあー!! 何すんだよ!!」

「いいね~それでマイクに食いつけば最高ッ」

スコアを破り終わった彼女は、ぐッ、と親指を立てた。

「ぐッ、じゃないよ! これ軽音部共用だぞ! どうすんだよ、弁償してくれよ、コレ……」

すっかり紙吹雪と化したバンドスコアをかき集めていると、彼女はしゃがんで僕の顔をのぞき込んで言った。

「君の名前、なんていうの」

「……こんなひどいことする人に名乗る名前は――」

「な、ま、え」一文字ずつ、ゆっくりはっきりと彼女は言った。「お、し、え、て」

「……宮本浩、だよ。1年生」

「ミヤ、って呼べばいいのね」呼んでくれなんて一言も言ってない。「私は原田陽世。2年」あんたの名前も聞いてない。「って、え、2年生……?」

「そうよ。これからは敬語使うこと。あと呼び名は『ヒヨさん』でいいよ」

「……あの、名前とか呼び方とかどうでもいいんですけど……邪魔しないでくれますか? ここ、一応軽音楽部の部室なんで」

「そんなこと言っていいのかな? 私も軽音楽部なんですけどー」

「! ……マジっすか!?」

「正確には軽音楽部『だった』ね。君が来た頃にはもう居なかったよ」

「……」

いちいち人の背後に回り込むような口ぶりに腹が立つ。

僕は先に立ち上がって紙吹雪をゴミ箱に放り込み、長い溜息をついた。

「なによ、急にため息なんかついちゃって」

「誰のせいだと……もう、とりあえず、出ていってくれます? 練習の最中ですから」

「練習、ねえ。本番でもそんな感じで歌うの?」

「当然じゃないですか。だってこの距離が、一番声が綺麗に出る、歌い方な、な……何ですかちょっと……?」

ヒヨさんは立ち上がって、僕の目の前に近づいた。

そこから、グッと首を前に伸ばす。

顔と顔との距離が縮まる。

「ちょっと待った! 近いですって! 殴るんですか? 暴力沙汰は――」

「かみつけ、マイクに!」

と、ヒヨさんは叫んで、俺の鼻にかみついた。

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