A Sweet Trick of Halloween(後編)

A Sweet Trick of Halloween(後編)第1話

「……はあああ……ど〜〜〜〜しよう……」


 半端でなく大きなため息とともにがっとテーブルに突っ伏し、片桐は力なく呟いた。


「ねえ。そういう無駄な言動、私嫌いなのよね。時間がもったいない気がして。

進捗聞こうと思って飲みに誘ったけど、なんかめんどくさくなってきたー」


 その向かい側で頬杖をつき、ナナミはやれやれといったため息をつく。



 岡崎と会って約1週間後、9月下旬の金曜の夜。

 片桐は、ナナミに声を掛けれらて、以前二人で飲んだ居酒屋に来ていた。


「……そうですよね。すみません。

今日は誘ってもらってすごく嬉しいです……この苦しみを吐き出す場所がどこにもなかったので」

「だから、私はそのゴミ箱になるのがやだっていってんの!」

 そうぼやきながら、ナナミは自分のビールのジョッキをぐっと呷る。



 岡崎と会って以降、片桐は底知れぬ恐怖に悩まされていた。

 あの夜偶然岡崎に出会い、とにかく計画を実行に移すことには成功したものの……

 酔いが覚め、いつもの自分を取り戻した途端、酒の勢いで出現した別人格の自分がやったことのあまりの大胆不敵さに、思わず青くなって頭を抱えた。


 確かに、あれは自分が頭で準備していた計画だ。彼らの関係をより固めるためには、そういう手が最も有効だと思えた。

 だが……

 実際にやってみて初めてことの重大さに気づく、という場合も往々にしてあるものだ。しかも、安全圏から踏み出すことを極度に恐れる通常モードの自分からは、あんな危険で挑戦的な言動、どう考えても正気の沙汰とは思えない。



 万一、自分の計画のせいで彼ら二人の関係が悪化したり、破綻したりしたら……リナへの恋が実るどころか、自分はとんでもない怨みを買うことになる。

 ——リナと、あの超ハイスペックな男二人から。



「あ〜〜〜〜〜〜〜どーしようほんとに!!!!」

「だから毎回うるさいって!!

とにかく岡崎さんに接触して、リナに恋するあなたの思いをちゃんと伝えたんでしょ?やっちゃったものは仕方ないじゃない」


「…………まあ……そうですが……」


 リナへの恋心っていうか……実際は、岡崎に告ってきたんだけどな。

 ナナミには当然、その辺の詳しい話はできない。

 特に、あの二人が恋仲だという事実は、リナからも固く口止めされているのだ。


「で、その計画、今はどういう段階なのよ?」

「……結果待ちです。

この前会った時、岡崎さんに少し時間を欲しいと言われて。

なので、約ひと月後の10月末をとりあえず期限にしました。——その間に何らかの反応をもらえない時は、会社に押しかけますとか言っちゃったんですよね僕……

あーー怖っ!まるでヤクザだ!!」

 そんなふうにわたわたと狼狽する片桐の様子に、ナナミはふっと優しく微笑む。

「……まあ、リナとあのハイスペック二人の関係性は詳しく話せないって言うなら、私もそこは流しとくけどさ。

いつも自信なさそうに安全な場所ばっかり歩いてるイメージのあなたがそういう行動に出るって、すごくいいと私は思うわ。

本当に大切なものは、そうやって苦労して勝ち取らなきゃ」


「…………

そう……ですよね……

ナナミさん、ありがとうございます。そう言ってもらえると、僕も自分のやったことを少しは認める気になります」

「それに、結果だってこれからでしょー?なんでこの段階で、計画ミスったって決めちゃうのよ?

多分岡崎さんも、いろいろちゃんと考えてくれそうな気がするし。

やることやったんだから、あとはくよくよせず待ってればいいのよ」


「……はあ〜……。

ナナミさんって、マジ男前ですね……惚れます」

「——そういうことを軽々しく言ってんじゃないわよ」


 キラキラした眼差しを向けてそんなことを呟く片桐に、ナナミは思わずふんと横を向いた。





✳︎





 片桐とナナミがそうして飲んだ、同じ日の夜。

 吉野は、自室の机で頭を抱えていた。



 1週間前の、あの夜——

 そのまま浴室へ向かいシャワーを浴びている間に、岡崎は帰ったようだった。


 たとえそのまま部屋で一緒にいたとしても、お互い何も話すことなどなできなかっただろうし……そういう結果は、仕方のないことに思えた。



 岡崎とお互いの部屋の鍵を渡し合ったのが、5月の初め。

 それから、4ヶ月が過ぎている。


 その間……吉野には、お互いの関係が恋人として近づいた実感が、ほぼ持てなかった。


 週末に待ち合わせて一緒に過ごす時間などは、自然に持てるようになった。

 酷い喧嘩をするわけでもなく、なんということもなく穏やかに過ぎる時間は、それなりに楽しく、幸せだ。



 けれど……


 自分たちの関係は——何か変わっただろうか?


 交換した鍵も、結局何となくまだ一度も使えておらず——



 これ……結局は、幼馴染で親友っていうこれまでの状況と、ほぼ何も変わってないんじゃないか?

 目に見えないあいつの壁を、取り払うことができないまま——

 いつまで経っても、深く踏み込むことのできないまま。


 そうした、何か焦れるように心に積もっていく感情を……

 あの日、片桐の件によって大きく刺激される形になった。



「恋人」という関係で、もっと強く結び合いたい。

 吉野の中で、次第に抑えがたく膨らんでいたそんな欲求を——あの夜は、どうしても止めることができなかった。



 岡崎が、そういう関わりに誰よりも慎重で——

 しかも、心に傷の残るような経験を過去にしていることを、知っていたのに。


「少しずつ」——と。

 岡崎が強くそう望んでいたことを、誰よりも知っているのに。


 俺はあの時、応えられずにいたあいつに、苛立ち紛れに背を向けた——




 そんな自分の失敗を、吉野は今、唐突に目の前に突きつけられた気がしていた。



『しばらく、考える時間が欲しい』



 岡崎から、今スマホに届いたメッセージだった。


 そのたった一言に……今更、嵐のように激しい後悔が襲ってくる。




 考えるって……何を。

 片桐に、何と答えるかを?


 それとも……俺と恋人の関係でいることを、考え直したい……そういう意味か?




 今すぐ、岡崎に確認したかった。


 けれど——

 スマホを取ろうとした瞬間、ぐわぐわと乱れる感情に思わず指が止まる。




 今、この電話口で……もし、あいつとの関係が、本当に切れかかるのだとしたら……


 あいつの冷えた声に、俺は何と言うんだ?


「ごめん」と繰り返せば、何かが好転するのか?




 俺は、繊細なあいつを、恐らく酷く傷つけた。 

 あいつを一番わかってやらなければいけない俺が——あんなにも冷ややかに、突き放した。

 少しずつ進もう……そう約束した俺を信じて、一緒にここまで歩いてきた、あいつを。



 けれど……


 好きな相手の心も身体も、全て欲しい。

 この腕の中に。


 ——そう望むのは、間違いなのか?





「————……」




 スマホを握ったまま、吉野は深く俯いた。





✳︎





 短いメッセージを吉野へ送った、数日後の夜。

 帰宅した岡崎のスマホに、着信音が鳴った。




『————晶』


「……ん」


 スマホの奥の吉野の声を、岡崎は随分長く聴いていないような思いで受け取った。



『……あのメッセージさ……意味が、よくわかんなくて。

考えたい、って……何をだよ?』



 そのたどたどしいような言葉から、この電話をするまでに吉野も散々何かを考えていたことが、なんとなく伝わってくる。




「——それは……いろいろだ」



『————』



「——片桐からは、10月中に何らかの返事を聞きたい、と言われてる。

それまでには……お前にも、ちゃんと俺なりの答えを用意する」



『————俺が、お前の気持ちを傷つけた。

……悪かった』


「違う。

これは——俺自身の問題だ。

……自分で、少し考えたい。


だから、時間をくれ」



『……わかった。


でもな……

俺は、絶対にお前を手放したくない。

——俺は、そういう気持ちでいる。


それだけは——知っててほしい』



「……ん。


——じゃあな」



 そんな、必要最低限の言葉のやり取りを終え……岡崎はふっと一つ息を吐くと、スマホを机に置く。


 そして——今聴いた、いろいろな思いのごちゃ混ぜになったような吉野の低い声を、もう一度思い返す。



 どんなふうにすれ違っても、いつも自分のことを何よりも大切に想ってくれる男だ。


 失いたくない。

 ——それは、自分も全く同じだ。




 恋という関係になれば、いずれ身体を許し合う。

 ……多分、それこそが、恋が実るということ。


 頭では、そう知っているのに。

 ——そのことへの違和感をどうしても取り払えない自分がいることは、昔から感じていた。



 想う誰かを、自分の側へ引き寄せたい。

 ——そういう欲求が、とても希薄なのだ。

 まして、心も身体も全てその相手へ投げ出し、我を忘れたような自分を晒すなど……そんな事態は、自分からは想像もできないような遠くかけ離れたことに思えた。



 高校時代、クラスメイトの女子と部屋で過ごしたあの時も——

 本当ならば、美しい異性を腕の中へ抱きしめたいと、むしろ自分から強く欲しても良かったはずだ。

 なのに……

 全くその気の起こらない自分が、逆に彼女から強引に求められる形になり……

 結局、そういう行為に対し、強い嫌悪感と恐怖感が自分の中に生まれただけだった。


 その時の、理性を失った彼女の目。

 そんな相手に自分をくまなく晒すのだと思った瞬間の、底知れぬ恐怖。


 ——そういう経験も、記憶から拭うことができない。




 幼馴染で親友のはずのあいつに対する気持ちに、いつしか恋が混じったこと……そして、その思いが次第に大きくなることに気づかされた時には、何が何だかさっぱりわからなかったが……


 そうなのだから、認めざるを得ない。

 ……今は、はっきりとそう感じる。


 ——この気持ちは、本当だ。



 これまで、誰にも抱いたことのなかった気持ち。

 側にいたいと……その温かさを、もっと感じたいと求める気持ち。




 けれど——

 それ以上近づこうと思う度に、身体が竦む。


 恐ろしくて——

 自分には無理だ、と。



 あいつの側にいて……冷えた場所に自分を隔離し続けるのが、だんだん辛くなっているくせに。

 自分自身を明け渡してしまうことが、怖くてたまらないのだ。



 わかっている。

 あいつを、ずっと我慢させていることを。


 けれど——あいつは、無理に要求することは決してない。



 俺は、そんなあいつに、甘えている。




 でも——

 あいつにとっては……俺が腕から逃げている限り、恋が実った幸せを味わうことは、きっとできない。



 それでも手放したくないと言ってくれるあいつに、いつまで甘えるのか?


 そういうあいつが、いつまで自分の側にいてくれるのか——



 今回のようなすれ違いが、やがて頻繁になり……ある日、あいつがふと俺から離れていくとしたら——



 俺は、耐えられるか?





「————」



 岡崎は、思わず固く目を閉じた。


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