St.Valentine's Day 第2話

「……綺麗だな」

 箱の中から現れた宝石のように艶やかなチョコレートの粒を、岡崎はキラキラした瞳で見つめた。


「これ……どうしたんだ、吉野?」

「ん?ああ。最近、ベリーのフレーバーの美味いチョコレートが手に入ったからさ。お前、喜ぶんじゃないかと思って。——まあ、とりあえず食べてみてくれ」

「へー……じゃ遠慮なく」


 岡崎は、いつになく幸せそうにふわりと微笑むと、白く華奢な指で一粒をつまみ、口に運ぶ。

 その様子を、吉野はじっと見つめる。


 かりっと音を立てて、その歯が粒を砕いた直後——岡崎の表情が、ベリーソースの強い酸味に敏感に反応した。

 美しい眉間が、淡く歪む。


「……んっ……」

 舌の上の甘美な刺激に、思わず微かな声が漏れた。


 口元を美しい指で覆い、瞳を閉じて——鮮烈なその味わいを、夢中で追いかけている。

 伏せられた細やかな睫毛が、微かに震える。

 全ての神経を舌へと集中させる、恍惚としたその表情。


 吉野は、その姿を間近でじっくりと堪能する。



 ああ——。

 想像以上だ。

 その反応。その表情、その声。

 ……あああ、すげえヤバい……。

 ジタバタと身悶えたい思いを、吉野は必死に押さえつける。


 感覚の奥をたまらない甘さで刺激する、岡崎の艶めく仕草。

 吉野の今までの努力は、まさにこの欲求を満たすために注がれていたのだ。


「すごい美味いな、これ。——ベリーソースの酸味が、たまらない」

 思わぬ強い刺激を味わった後の至福の微笑みで、岡崎はそう囁く。

 普段の硬い鋭さを一切脱ぎ捨てた、溶けそうな微笑。


 ——たまらないのは、俺の方だ。

 さっきから、そんなにも堪らない顔を見せられて——ああ、最高だ。

 喉まで出ているその思いをぐっと飲み込む。



「……気に入ったなら、良かった。——ここのタルト以上の満足度だろ?」

 岡崎へ食い入るように注いだ視線を、瞬時に通常モードへ切り替える。

 心の底を感づかれた日には、シャレにならない。

「——で、これは?」

 内心の満足感を胸の奥へ押し隠し——素っ気なく話をそらすように、吉野は岡崎から受け取った箱の中を見た。



✳︎



「まあ、味わってみろよ。……スイーツの概念がひっくり返るぞ」

 極上の美味を味わった岡崎は、冷静な表情に戻って吉野に勧める。

 これから、吉野の反応をしっかりと観察するのだ。ここで気を緩めるわけにはいかない。


 抑えられた甘味と、煙のような高い香りを伴う苦味。

 それが口の中いっぱいに広がる感覚は、煙草を好む人間にはたまらなく魅力的なはずだ。——そう思いつつ、岡崎は吉野の表情を見つめる。



 吉野は、白い煙のようなマーブル模様の入った薄いスクエア型のピースを、一枚口に運ぶ。


「……は……」

 スイーツとは思えないその深く渋い味わいに、吉野の感覚はやはり大きく翻弄されているようだ。


 空中に立ち上る煙を追うように——その視線は、ふわふわと柔らかな軌跡を描いて宙を漂い出す。

 いつもの爽やかに明瞭な吉野とは思えない、未経験の美味に浸る無防備な表情。


 複雑な香りの余韻を辿る夢心地の瞳は——ひとしきり空中を浮遊すると、やがて岡崎の前へふわりと舞い降りた。

 そして、その瞳の焦点が、ぎゅうっと強く岡崎を捉える。

 低い声で、呻くように呟いた。


「これは……初体験だ」


 吉野に不意に強く見つめられ、岡崎の心拍数が思わず跳ね上がる。


 初体験———。

 初体験のこいつは——

 こんな夢うつつの顔をして……こんなふうに、不意にぎゅっと相手を捕えるのだろうか。


「——最高に、俺好みだ」

 恍惚とした瞳で岡崎を捉えたまま、吉野はそう囁く。

 この瞬間、岡崎は不覚にも動揺を露わにした。


「——岡崎?

今日はそんなに飲んだか?頰が赤いぞ」



「……気のせいだ」


 自分でも慌てるほどの動揺を必死に押し隠しつつ、ふいと横を向いて頬杖をつき、岡崎はぶっきらぼうに答えた。



✳︎



 チェックの時間を延ばし、追加でふたつオーダーしたブランデーのロックを傾ける。美味なチョコレートも手伝って一層進む洋酒に、いつになく酔いが深まる。


「——これは、パリで手に入れたチョコレートだ」

「パリ?」

「ああ。この前出張でな。仕事の合間に探した。いろいろなフレーバーがあって、驚くぞ。これ以外にも、スパイスとか、日本酒やワサビ味のものとか。お前にも食べさせたかったよ。スイーツ嫌いが治るかもな」

「………」

「そうそう、お前の好きそうな面白いバーも、あちこちにたくさんあったっけ。あの界隈は、ぜひ時間をかけてゆっくり楽しみたい場所だな」


「……なあ」

「ん?」

「それさ……今度は俺と一緒に行きたい、って言ってんのか?」


「……はあ?

お前、なんでそうなる……」


「……違うのか?」


「…………

……どうしても、というなら——一緒に行ってやってもいい」


「——ほんとか?」

「ただし……条件がある」

「条件?何だよ」


「——お前が、彼女とキレイに別れたらな」

「……」

「今日のベリーのチョコも、彼女経由だろ。お前のことは、大体わかる。

彼女を差し置いて海外旅行なんかして、女からぶうぶう言われるのは御免だ」

「……お前は、ひとの苦労も知らないで……だいたいあのチョコは、俺がこの身と引き換えにだな……!」

「……は?」

「……いや」




 二人とも、渾身の本命チョコをお互いへ渡したことには、どうやら気づいていないらしい。



 ——そんなこんなで、週末のカクテルバーの夜は更けていく。

 禁断のフレーバーを、微かに濃くしながら。




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