St.Valentine's Day
St.Valentine's Day 第1話
「……違う」
今日も、出会うことができなかった。
吉野は一つため息をつく。
一月下旬の夜の街。その息はほのかに白く立ち上る。
仕事帰りや週末の時間を使って、これまでに何件回っただろう。この近辺の思い浮かぶ店は、一通り当たったはずなのに。
「あの味……あの酸味なんだよな」
味覚の記憶を辿り、ひとり呟く。
吉野は、彼女から去年のバレンタインデーにもらったチョコレートの味を思い出していた。
その彼女とは、2ヶ月ほど前に別れている。
チョコレートを噛み割ると口中に溢れ出す、ベリーのソース。
あれは、クランベリーとかラズベリーとか……?ストロベリーの味わいとは違う気がした。
とにかく、酸味がとても強く、鮮烈な味わいが口いっぱいに広がった。
思い出すだけで、唾液腺が刺激される。
あのチョコレートが欲しい。どうしても。
けれど、どこの店へ行っても、同じ味の品は見つからない。
彼女にもらった時は、店名やショコラティエの名前なんかは確認しなかった。彼女が何か言っていたかもしれないが——綺麗に忘れている。
困った。
吉野はビジネスバッグを自室の机へ無造作に置いてコートを脱ぐと、椅子の背に寄りかかり、しばし思案する。
天井を仰ぎつつ、長い指でネクタイを解く。
煙草を咥え、火をつけた。
ふう……っと、煙を吹き上げて、その行方を見つめる。
「あ〜〜〜。仕方ないか」
そう言って姿勢を戻すと、スマホのアドレスの画面を開けた。
その週末、金曜の夜。
吉野は、会社近くのカクテルバーで元彼女と会っていた。
「久しぶり、リナ」
「一体何の用よ?」
元彼女——リナは、不機嫌な表情を露わにして無愛想に答える。
当たり前だ。つい2か月前、この超ハイスペックなイケメンに一方的に振られたのだから。
リナは、近くのビルに勤めるOLだ。
人形のように整った容姿に、柔らかく波打つロングの髪。すらりとメリハリのある身体。勝気なところがまた魅力的だ。
——こんなにかわいい子、なんで振ったんだっけ?……ああ、思い出した。浮気かなんかしつこく疑われて、面倒くさくなったんだ。
吉野は何となくそんなことを考える。
「……悪かったな」
「何が?」
「いや……なんか一方的で、申し訳なかったかなと」
「用件を言ってくれる?こういうふうに呼び出されるのだって、本当はまっぴらなんだから」
リナはフンと横を向き、怒りを隠さない。
「あのさ……どうしても知りたいことがあって。
去年のバレンタインデーにお前がくれたチョコレート——どこで手に入れたのか、教えてくれないか?あのベリーのフレーバー、すごい美味かったから……忘れられなくて」
リナはきつい眼差しで吉野を見ると、信じられないという顔をする。
「……は?それ聞いてどうするの?
どうせ今の彼女かなんかにプレゼントでもするんでしょ。そんなこと、なんで私が手伝わなきゃならないのよ!?」
ああ、やっぱりめんどくせえ……という内心はひた隠しにして、吉野は努めて下手に出る。
「今は付き合ってるやつなんかいないし、好きな子もいない。
ただ——男のくせにイチゴのスイーツが異常に好きな幼馴染がいてさ。そいつに食わせてやろうかと」
「……幼馴染?」
その答えに、リナも少し肩透かしを食らったような顔になる。
どうやら、女子に渡すつもりではないのは確かなようだ。
「——じゃあ、教えてあげる。
あれは、ベルギーでショコラティエをやってる私の叔父が作ったものよ。彼にお願いして、特別に手に入れたの。……日本では、あの味は手に入らないわ」
「え……マジか……?」
吉野は、いつになく困惑した顔を見せる。
こんな真剣に思い悩む顔は、多分見たことがない。
リナの征服欲が、不意にむくむくと頭をもたげる。
「……そんなに、あのチョコが欲しいの?」
「ああ、是非とも欲しい!
リナ、できたらもう一度、その叔父さんに頼んでもらえないか?
お礼はしっかりさせてもらうからさ。人気のフレンチでも、お前の好物のヴィンテージワインでも、何でも」
懇願するような眼差しで、吉野はリナを見つめる。
「……ふうん。いつになく必死ね。
じゃあいいわ。叔父に頼んであげる。
お礼なんかはいらない。——その代わり」
リナは、最高にいい思いつきが浮かんだかのように、綺麗にグロスの塗られた唇を輝かせて、艶やかに微笑む。
「もう一度、ヨリを戻したい。あなたと」
「………え?」
吉野は、一瞬怯む。
そういう交換条件か。——どうしたものか。
「——まあ、いいか」
「……え?ほんとに!?」
自分で言っておきながら、リナはびっくりしたような顔をして高い声を上げる。
まさか、こんなに簡単にOKが出るとは思っていなかったようだ。
——まあ、今付き合ってる子がいるわけじゃないし。
それで、あの最高に美味いベリーのチョコレートが手に入るなら。
ハイテンションではしゃぐリナにちらっと微笑むと、吉野は頬杖をついて窓の外を見ながら、ふうっと煙草の煙を吐いた。
✳︎
その頃。
岡崎は、パリにいた。
出張である。
仕事をこなしつつ、彼はあるものを探していた。
金曜に帰国する予定を1日遅らせてまで、街を探して歩いた。
土曜の昼下がり。
彼は、あるチョコレート専門店で、とうとう希望に適うものを探し出した。
それは、スモークしたような香りのする、不思議なフレーバーのチョコレートだ。
パリには、日本では味わえない、さまざまなフレーバーのチョコレートがある。ナッツや酒、フルーツなどの、はっと目の覚めるような味わい。いかにもフランスらしいエスプリの効いた品々。
それでも、この煙のように香るチョコレートは、どの店でも出会えなかった。
口に入れると、甘みというよりも、ほろ苦い香りと味わいがふわりと広がる。
——これは、あいつが好きな味だ。間違いない。
スイーツ嫌いで煙草ばかり吸ってる男だが、この味にはきっと驚くはずだ。
華奢な眼鏡の奥の岡崎の瞳が、いつになくはっきりとした感情を漂わせて輝く。
無理やり時間を作って、やっと手に入れたフレーバー。
鋭利で端麗な無表情をわずかに綻ばせ、岡崎はその味わいを満足げに噛み締めた。
✳︎
それから2週間後の、金曜の夜。
吉野と岡崎は、行きつけのカクテルバーでゆったりと寛ぐ時間を過ごしていた。
目まぐるしい仕事を離れ、煩わしさを全て忘れる。ネクタイを緩めて、気のおけない親友と酒と会話を心ゆくまで楽しむ。お互いにとって、何よりも貴重な時間だ。
「……そういや、今度の火曜、バレンタインデーだな」
「あーー、毎年困るやつな……岡崎、いつもどうしてる?」
「俺は全部食べる。山のようなチョコレートに囲まれて幸せだ。少しも困らない」
「羨ましいな。甘いものがダメな俺は片付けるのに一苦労だ」
吉野も岡崎も、それぞれの社内でその名を轟かせる美貌と能力を誇っている。女子がこぞって渡しに来るチョコレートが、毎年両手で持ちきれないほどだ。
「本命からのチョコは貰えそうか?」
「本命って、誰だよ」
「……俺に聞くなよ」
お互いに、全く興味関心を感じさせないやり取りを交わす。
「ん……そろそろチェックにするか。
——でも、今日はストロベリータルトは抜きだぞ、岡崎」
吉野がニッと微笑み、そんなことを言い出す。
「それはいいが——お前も、今日は煙草吸うなよ?」
岡崎も、悪戯っぽい目で吉野を見る。
そして、これ以外のタイミングはないというように——二人ほぼ同時に、お互いのビジネスバッグから美しい小箱を取り出した。
「——なんだよ?それ」
「……俺にか?」
お互いの品物を受け取る。
そして、二人同時に、この上なく美しく結ばれたリボンに指をかけた。
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