87:濁流

87:濁流


「面白えじゃねえか、【イグリスの黒薔薇】……いや、コボルド王さんよ」


 マシューの首を落として止めを刺したガイウスに声を掛けたのは、剣を失ったチャスである。

 その瞳には強い闘志の炎が一時揺らめいたが。群衆の中から「兄貴!」と、おそらくは身内が呼んだ声で冷静さを取り戻したのだろう。


「うおー、腕がー、さっき振り回された腕がー。折れたーような気がするー」


 大げさな仕草で自身の右肘を鷲掴みにすると、「痛えよー」と感情の篭もらぬ声を上げつつ木々の間へ後退。間もなくガイウスの視界から消えてしまった。

 おそらくは引き際だと心得たのだろう。ここに居る100名近い冒険者達と共に囲んでも、コボルド王を仕留めるのが困難だ……とチャスは判断したのである。


 そしてその認識は、群衆の一部とも共有された。腕が立つ者、経験の豊富な者ほどそれは顕著であったろう。


「……私も随分と色々な渾名を付けられたものだが」


 零すように、ガイウスが口を開く。

 先の打ち合いの壮絶さもあり、彼へ近接攻撃を仕掛ける意欲は冒険者達から失われていた。


「出来るだけ苦しませぬようにしていたら、【首狩りガイウス】などとも呼ばれたものでね」


 獣のような吐息。


「しかし、これ以上忙しいと配慮の余裕も無くなりそうだ。そうするとな」


 踏み出した一歩に反応して、人壁に亀裂が入る。


「きっと……痛いぞ?」


 ガイウス=ベルダラスは己の勇を誇ったことはない。むしろ、それしか出来ない自身を常に恥じている男である。

 だが、何が戦場の空気を支配するかについては、肌に染みて知っている人物でもあった。

 事実。歩き出した彼に対し、群衆は潮が引くように道を開けていくではないか。


 その中で。ただ一人だけが呆然と立ち尽くしていた。セリグマンだ。

 経験不足と波長のズレ。そして彼を支配したものが、この一人だけを波から取り残したのだろう。

 コボルド王はその眼前で立ち止まる。装具の整いや見た目から、この若者がワイアットの部下たる騎士であり、周囲の冒険者を指揮している存在であることは明らかだ。

 だからフォセが振りかぶられた時。群衆も、勿論セリグマン当人も、その刃の餌食にされると思ったのである。


 視線が交差する。

 だがそれは対等ではない。狼と震える子兎の瞳、そのものだ。


 ひゅん


 ……しかしガイウスの剣はセリグマンの前髪だけを切り落とすに終わった。

 脚から力の抜けた若い騎士が尻餅をつく瞬間であったため。すんでのところで回避出来たように取れなくもない。

 だが。


(見逃された……?)


 一瞥だけして歩き去るコボルド王。それに追従するゴーレム馬の後背に視線を吸い寄せられながら、セリグマンは自問した。


(どうして殺さなかった!? 指揮官の一人である私を討ち取ったほうが、連中には都合が良いだろうに。事実、枯れ川ではドーソンやハンフリーズを狙って仕留めたじゃないか)


「セリグマンさん! 大丈夫ですか!?」


 彼に駆け寄ってきた若手の戦士が、混乱する思考を遮った。

 他の冒険者達も。指示を待つようにセリグマンを見ている。


「あ、ああ。すまん。間一髪だった」


 平静を装い、言葉を連ねるセリグマン。


(そんな理由探しよりも、早く奴を追撃せねば)


 指示を飛ばすため、差し伸べられた手を掴み立ち上がろうとしたが。

 指に力が入らない。手が震えている。体が起こせぬ。汗が吹き出す。


(何故、立てんのだ)


 どこかを斬られていたのかと慌てて身体を擦るが、何もない。

 そしてこの時、彼はガイウス=ベルダラスの行動の意味を理解したのであった。


(俺を竦ませているのは傷ではなく、怖気だというのか)


 そう。

【イグリスの黒薔薇】は。この若騎士が恐れに染まったのだと、あの刹那で見抜いたのだ。

 それだけではない。ガイウスは敢えてセリグマンを生かすことによって、ここに残る戦力から積極性を奪ったのである。


 臆した将ほどの足枷は、存在しないのだから。



『ほれ急がんか木偶の坊! ぐずぐずしとるからじゃ! 時間がないぞ!』

「すいません、すいませんー!」

『嬢ちゃんからも早く行けと催促が……うわぉ!?』


 疾走するガイウスの脇を掠めた【マジック・ボルト】に驚いて、長老が声を上げる。


「ご老体、大丈夫ですか!?」


 枯れ川へ向かう彼等を狙うのは、警戒のために群衆に居なかった冒険者達だ。先程ガイウスが仕留め損ねた弓兵の残りも、その攻撃に加わっていた。

 セリグマン達の本隊を十分に引きつけ、足止めしたガイウス達は、サーシャリアの計画に間に合わせるべく枯れ川へと急いでおり。それを発見され、射撃を受けていたのである。


『平気じゃよ! それよりも、枯れ川じゃ!』


 ガイウスの髪を掴みながら前を見ていた老コボルドが叫ぶ。

 彼が指差す方向には、枯れ川……いや、今は【川】へと蘇りつつある、濁った流れが横たわっていた。


『すぐ水量が増えるぞ! 間に合わんくなる!』

「振り落とされぬよう気をつけて下さい! マイリー、しっかり付いてこいよ!」


 ガイウスはジグザクの回避運動を止めて、一直線に走り出す。

 飛来する矢の音を間近に聞きながら川へと到達した彼はそのまま速度を緩めず。足首まで達した流れを、水音を立てながら全力で渡りきった。

 マイリー号はその背後を守りつつ追走していたが、川に達したところでクロスボウのボルトを受けて左脚を砕かれ、そのまま川底へと転倒してしまったのだ。


「マイリー!?」

『おい、泥んこがやられたぞっ!』


 声無きいななきを上げたゴーレム馬を、濁流が飲み込んだ。

 一瞬立ち止まったガイウス達であったが。対岸からの射撃を受けたこともあり、即座の離脱を余儀なくされる。


 一方、標的を取り逃した冒険者達も。

 水量と勢いを増していく流れを前に、それ以上の追跡を断念せざるを得なかった。



 枯れ川が渇水した所以は、上流の湖から注ぎ込んでいた水を、盛り上がった土が堰き止めていたことにある。

 コボルド側は事前に工事を行い、流れを引き込む水路と堰を設けていたのだ。


 古来より、川や湖を軍事に利用した例は枚挙に暇がない。

 川を堰き止め作った水流をもって敵を押し流したり、湖を溢れさせて水没させたり、田畑に水を流して泥地を作り出すものがそれだ。

 戦史に精通したサーシャリアは周辺の地形を把握するにあたり、真っ先にこの枯れ川を使う策を思いついたのである。

 実行にあたり必要とされる連携と同期は、サーシャリアが構築した霊話戦術が可能とした。


 現在の湖の水位は、この枯れ川を堰き止めることによって確保されたものである。また、近日の雨で水量が十分に溜められていたのも幸いした。

 丸太やゴミも投げ込まれている。それは、長時間に渡って人の横断を妨げるだろう。


 こうして、湖から導かれた水は濁流となり。

 未だ130名以上残る冒険者本隊を戦場から分断するに至ったのである。

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