第55話馬車でのひととき

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王妃の元へ向かうその日は、空全体を覆っている絹のような薄雲から蒼天が透け、淡い水色が広がっていた――この季節、大陸の北部に住む者にとってはこれが快晴だった。


 馬車の窓から見える空と、流れていく新緑の景色を交互に見ながら、いずみは口元を綻ばせる。


(晴れてくれて良かった……眺めているだけで、心が軽くなっていく気がするわ)


 ずっと城内に居続け、限られた場所しか出入りしていなかった分、山や草木ばかりの他愛のない景色が輝いて見える。


 次に外出できる日がいつになるか分からない。もしかすると二度と来ないかもしれない。

 これが外の見納めになっても後悔しないよう、目と心に今日という日を焼き付けたかった。


「エレーナ、嬉しそうだな」


 名前を呼ばれて、いずみは体と顔を正面に向き直す。

 向かい側に座っていたイヴァンが、眩しそうな目をしながら微笑を浮かべ、こちらを見つめていた。


「あ……は、はい。遊びに行く訳じゃないから、浮かれてはいけないと思っているのですが……嬉しくて仕方がありません」


 口を動かすごとに頬が熱くなってきて、いずみはわずかに俯く。


 てっきりイヴァンはルカと、自分はトトと乗り合わすものだとばかり思っていた。

 だがイヴァンに「たまにはルカ以外がいい」と指名され、こうして同乗することになってしまった。


 今まで温室で二人きりになることはあっても、ここまで狭い空間で共に過ごしたことはない。

 思ったよりも距離が近くて、恥ずかしさでまともにイヴァンの顔が見られなかった。


 いずみがモジモジしていると、イヴァンが小さく唸った。


「ワガママを言って済まなかったな。俺と一緒だと気が抜けずに疲れがひどくなるだろうから、迷惑をかけるとは思っていたが――」


 弾かれたようにいずみは頭を上げ、首を大きく横に振った。


「いえ、そんなことは! 私がイヴァン様とご一緒できるなんて夢みたいで、すごく、すごく嬉しいです」


 いずみがにこりと微笑んで見つめ返すと、イヴァンは「それならよかった」と息をつき、ゆっくりと背もたれに寄りかかった。


「せっかくの機会だ、いくつかエレーナに聞きたいことがある……ただ俺の好奇心で知りたいだけだ、言いたくないことは言わなくても構わんからな」


 一体なにを聞きたいのだろうと、いずみは心の中で首を傾げながらコクリと頷く。

 それを見てイヴァンは頷き返すと、少し身を前に乗り出した。


「エレーナという名は偽名だそうだな。本当の名は何と言うんだ?」


 新たな名をつけられてから一度も口にしていない、水月ですら口に出して呼んだことがない、本当の名前。

 胸が詰まりそうになりながら、いずみは口を開いた。


「……いずみ、と申します」


「そうか。バルディグでは聞かない、どこか不思議で優しい響きがする名だな。エレーナよりも、その名のほうがお前に似合っていると思うぞ、いずみ」

 

 イヴァンの言葉に、いずみの目が大きく開かれる。


 急に目頭が熱くなり、瞬く間に視界がぼやけていく。

 涙が溢れて、瞼が少しでも動けば流れてしまう。泣けばイヴァンに無用な心配をかけさせてしまう。


 そう頭で分かっていも、目を潤ませずにはいられなかった。


「ありがとうございます、イヴァン様……本当の名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて……今まで気づきませんでした」


 何度か指で涙を拭い、どうにか視界をはっきりさせると、虚を突かれたように目を丸くしたイヴァンの顔があった。

 いずみと視線が合うと、彼は眼差しを柔らかくして微笑む。


「喜んでもらえて何よりだ。せっかくの機会だ、これから二人きりの時にはその名を呼ばせてもらう。構わんな?」


 本当の名前を知ってもらえただけでも嬉しいのに、これからも呼んで頂けるなんて……。

 声が詰まってなかなか言葉が話せず、代わりにいずみは何度も頷いて気持ちを伝える。


 イヴァンは口元に手を当てると、こちらを興味深そうに見据えた。


「事情があるとはいえ、誕生祝いの件といい名前の件といい、俺が今まで見てきた者たちとはやはり違うな。ここへ来る前は一体どういう生い立ちだったのだ?」


 深呼吸をして感極まった胸中を鎮めると、いずみはイヴァンを見返した。


「物心がついた頃から一族の知識を大人たちから学んで、その合間に他の子供たちと近くの森や丘で遊ぶ生活を送っていました。妹のみなもが生まれてからは、いつも一緒で……隠れ里の外へ出たのは数えるほどしかありませんでしたが幸せでした」


「ほう、妹がいるのか。一度見てみたいものだ、きっとお前に似て――」


 話の途中、イヴァンはハッとなって言葉を止める。


「……いずみの仲間や身内は、ナウム以外は殺されたのだったな。済まない」


 気まずそうに眉間を寄せたイヴァンを見て、いずみは口を開きかける。だが、すぐに思いとどまる。


 今この馬車は、御者に変装したキリルが動かしている。もしかすると中の会話を聞いているかもしれない。

 一族の生き残りがいると分かれば、放っておかないのは目に見えていた。


 いずみは僅かに腰を上げて席に浅く座り直し、イヴァンとの距離を縮めた。


「イヴァン様、少し手の平をお借りしてもいいですか?」


「……? ああ、別に構わないが」


 小首を傾げながら、イヴァンが右手を広げて差し出す。

 その大きな手を取り、いずみは人差し指で文字を綴っていった。


『実を言うと、私は追手に捕まる前に妹を逃しました。無事なのか、どこにいるかは分かりませんが、きっと生き延びています』


 いずみが文字を書き上げて顔を上げると、イヴァンが目を見張っていた。

 それから微笑を浮かべ、こちらの頭をくしゃりと撫でた。伝わってくる手の重みが、「良かったな」と言ってくれているような気がする。


 スッと手を離すと同時に、イヴァンは再び椅子へ深く腰かけた。


「どんな内容でも構わないから、もう少し隠れ里の思い出を教えてもらえるか? 俺は戦場へ行く以外でバルディグを離れる機会が少ないから、国外の話を聞き知る機会は貴重なんだ。それが貴族ではない民の話なら尚更な」


 イヴァンの口は真面目な言葉を紡いでいるが、目は期待と好奇心が溢れている。

 話の流れを考えれば、どんな妹なのかを知りたいのだろう。


 心置きなくみなものことを語ってもいい――そう思った途端、胸の奥へ大切に仕舞っていた思い出が溢れ出す。


「はい、分かりました! ……思い返すと、学ぶ時でも、遊ぶ時でも、寝る時でも、常に妹と一緒にいました。里の男の子たちよりも元気があって、負けん気が強くて、いつも『いずみ姉さんを守るんだ』って――」


 言葉にすればするほど隠れ里の思い出が鮮明になり、輝き始める。


 もう戻れない日常……ここへ来た当初は、思い出すほどに苦しくなり、胸の中が絶望で暗くなっていた。

 けれど今は、この現状から抜け出せるかもしれないという希望と重なり、戻れない日々を愛おしく思う。


 思い出しても苦しくはない。むしろ心の奥に明かりが灯る。


 一度口にし始めると、言いたいことが次から次へと出てしまう。

 そんないずみへイヴァンは温かな眼差しを送りながら、長くなっていく話を嬉しそうに聞いていた。

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