第54話キリルの代理

「キリル様、入ってもよろしいですか?」


 ……嫌なヤツが来やがった。

 声が聞こえた瞬間、水月の背に悪寒が走る。思わず顔を歪めて扉へ視線を送った。


「構わん、入れ」


 キリルが了承すると音もなく扉が開き、グインが部屋へ足を踏み入れた。


「失礼しますよ。今度の件でお話が……」


 扉を閉じながら、グインは水月を横目で見やる。込み入った話でもしたいのか、席を外せという気配がした。


 なるべくこの男には関わりたくなくて、水月は「じゃあオレはこれで」と踵を返そうとした。が、


「出て行く必要はない。お前にも関係のある話だ、黙ってここで聞いていろ」


 キリルに引き止められて、思わず水月は目を見張る。

 意外なのは自分だけではないらしく、グインの顔からいつもの微笑が消え、小首を傾げた。


「ナウムに関係があるとは、どういうことですか?」


「俺は別の任務につくことになった。だから俺の代わりを小僧にやってもらう」


 まだ返事してねぇだろうが……勝手に決めやがって。


 水月がこめかみを引きつらせていると、グインは小さく吹き出した。


「貴方の代わりを任せるなんて、余程ナウムのことを買っていらっしゃるんですね。でも、本当にいいんですか? 私と二人きりの任務に就かせるなんて、美味しいエサをちらつかせるようなことをして……」


 そう言って、グインが水月へ流し目を送る。

 彼の瞳がほの暗く妖しい光を帯びた瞬間、水月は総毛立ち、咄嗟に後ずさった。


「こ、こんなヤツと二人きりの任務なんて、オレは廃人確定じゃねーか! キリル、考え直せ。どう考えてもオレみたいな出来の悪い小僧よりも、他の優秀な部下に頼んだ方が間違いないだろ」


 いくらここへ来た時よりも強くなったとはいえ、まだまだ未熟なのは自覚している。グインのことを抜きにしても、自分ではキリルの代理は荷が重すぎる。


 十分キリルも分かっているはずなのに……と水月が困惑の目を向けていると、キリルは真っ直ぐな目でこちらを見据えた。


「いいや。グインとの任務に関して言えば、お前が一番の適任者だ」


「なっ……!? そ、そう思う根拠はなんだよ?」


「俺が動かすことができる者の中で、一番グインが成長を待ち望んでいる人間がお前だからだ」


 さらりとキリルに断言され、水月は目を丸くする。それからガクリと頭を垂れた。


(成長……そういえば、前にそんなこと言ってたな。だが、気まぐれなグインのことだから、明日にでも考えが変わるなんてことも……)


 わずかに顔を傾けてグインを見ると、彼は満面の笑みを浮かべていた。


「ふふ、キリル様のおっしゃられる通りですよ。熟れれば美味しい実だと分かっているのに、わざわざ熟す前に採るなんて馬鹿な話です。それに――」


 どこか楽しげに語っていたグインの声が、ぷつりと途絶える。

 刹那の静寂の後、グインは軽く瞼を閉じ、珍しく笑みを消した。


「――君は色々と特別なんですよ。キリル様にとっても、私にとっても」


 初めて見るグインの様子を、水月は訝しげに眺める。


 確かに自分はいずみを縛る人質でもあり、グインが一番いたぶりたい人間に近い者でもある。今さら言わなくても分かりきっていることだ。

 ただ、どうもそれだけではない理由が含まれているように思えた。


 グインに真意を訪ねようとした時、キリルが冷ややかにこちらを一瞥した。


「任務に関係のない話など時間の無駄だ。グインの戯言にいちいち反応せず黙って聞いていろ……同じことを二度も言わせるな」


 表情も声の調子も普段通りだが、キリルから苛立ちの気配が滲み出ている。ここでわざと挑発して口を開けば、拳ではなく剣撃が飛んでくる気がした。 


 水月は口を固く閉じて小刻みに頷く。

 それを見たグインが、肩をすくめて苦笑した。


「分かりました、今は本題に専念しましょう。でも、用事がない時にナウムと雑談するぐらいは許して下さいね」


 クスクスと茶化すように話すグインへ、キリルが無言で睨みつける。

 これ以上は冗談では済まないと察したのか、グインは小さく息をついてから「密偵からの報告で――」と話し出す。


 グインの真意を聞きたいような、聞きたくないような……複雑な思いを胸に抱えながら、水月は二人の話を聞き漏らすまいと耳を傾けた。

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