三章:変化の兆し

第31話花束の礼と頼まれ事

 いずみが朝食を終えて外へ出ると、久しぶりの蒼天が広がっていた。

 ふう、と感嘆の息を吐いてから、小さく身を震わせる。朝の好天は見るだけなら爽快だったが、普段よりも冷え込みが厳しく、寒さで鼻や耳が痛くなってしまう。


 まだ本格的な冬には入っていない上に、充分厚着をしているのにこの寒さ。

 もう少し日が経ったらと想像するだけで、体の芯が冷えていく気がした。


 早く温室に入ろうと、いずみは小走りに庭園を駆け抜けていく。

 息を軽く切らしながら温室の扉を潜る頃には、早まる鼓動に合わせて体が温まっていた。


 何度か深呼吸して息を整えてから、隅にある用具箱からじょうろを取り出し、中に水を汲む。

 薬草たちに水を与えてから奥の植物たちにも与えていると――。


 ――キィィィ。扉がゆっくりと開く音がした。


「おお、やっぱり今日もここに居たか」


 聞き覚えのある低い声。

 まさかと思いつついずみが振り向くと、イヴァンが口元に微笑を浮かべてこちらへ近づいて来ていた。


 初めてここで顔を合わせたのは数日前で、そう簡単に会うことははないと思っていたのに……。


 もう怖くはなかったが、緊張して体が強ばってしまう。

 いずみは息を呑み込んでから、硬くなっていた口を開いた。


「お、おはようございます、イヴァン様」


 いずみのぎこちない態度にイヴァンは訝しがることはなく、「おはよう」とにこやかに答えてくれた。


「エレーナ、会えて良かったぞ。この間の花束の礼を言いたくてな……ありがとう。今までの見舞いの中で、一番母に喜んでもらえた」


 勝手に温室の花を切ってしまって大丈夫だろうかと、ずっと心に引っかかっていただけに、その言葉を聞けてこちらも嬉しくなってくる。


 いずみは満面の笑みを浮かべてイヴァンを見上げた。


「王妃様に少しでも喜んで頂けて光栄です。もっと上手に作れると良かったのですが……」


「あれだけ作れるなら立派なものだ。母も草花だけでよくここまで作れるものだと感心していたぞ」


 イヴァンに穏やかな眼差しで見つめられ、いずみの頬に熱が集まっていく。

 あまり褒められると恥ずかしくて、ここから逃げ出したくなってしまう。

 

 視線を下げて、いずみが照れ隠しに指で頬を掻いていると、


「それで花束の礼をしたいのだが、何か欲しい物はあるか? あまり贅沢な物は応えられんが、出来る限りエレーナの希望に沿いたい」


 イヴァンの問いかけを耳に入れた瞬間、いずみは即座に首を横に振った。


「私はイヴァン様と王妃様に喜んで頂けただけで充分です。他には何もいりません」


 こちらの慌てた声に驚いたのか、イヴァンの目が丸くなり、眉間に皺を寄せて困った色を浮かべた。


「まさか、そう即答されるとは思わなかったな……エレーナ、急かさないから何が欲しいか考えてくれ。今すぐ言わずとも、また後日に言ってもらっても構わんぞ。若い娘なら、きれいな服や髪飾りとか欲しい物はたくさんあるんじゃないか?」


「いえ……あの、私は本当に何も欲しくありません。今まであまり物が欲しいと思ったことはありませんし、それに――」


 ふと今までのことが頭をよぎり、急に胸の奥から痛みが突き上げてくる。

 命を落とした両親や仲間たちが次々と脳裏に浮かんでは消える。


 最後に残ったのは、自分を守ろうと覚悟を決めてくれた、大切な妹の顔だった。


 思わず涙が込み上げそうになり、いずみはわずかに俯いて唇を噛んだ。


「――私が心から求めるものは、もう手に入れられないものばかりですから……」


 一瞬、その場の時が固まる。

 しかしすぐにイヴァンが小さく唸り、口を開いた。


「無理を言って済まなかったな。エレーナが何もいらないと言うならそうしよう。だが、気が変わったらいつでも言ってくれ」


 相手の気を悪くする訳にはいかないと、いずみは再びイヴァンに視線を戻して「ありがとうございます」と微笑んだ。


 どこか安堵したような息をついてから、イヴァンも笑みを浮かべ直した。


「ところでエレーナ、朝はいつもここに来ているのか?」


「はい。温室の薬草の手入れと、その日に必要な薬草を採取しています」


「そうか、それは都合がいいな。実はこれからもエレーナに見舞いの花束を作ってもらいとい思っているんだ。引き受けてくれるか?」


 ……本当に私の花束なんかで良いのかしら?

 いずみは何度か瞬いてから、受け入れていいものか頭を働かせる。


 なるべく自分は必要以上に人と顔を合わせないようにして、こちらの素性に気付かれないようにした方がいいと水月に言われている。


 しかし、王子から直々に頼まれたことを断ってもいいものだろうかと悩んでしまう。

 それに病に苦しむ人の体だけでなく、心を癒すことも大切だ。

 

 どんな人であっても、全力を尽くして相手を癒すことが久遠の花の役目だと教えられてきた。

 己の保身のために拒んでしまえば、一族の志を失ってしまうような気がした。


 正体に気付かれないよう接していけば、きっと大丈夫。

 そう自分に心の中で言い聞かせてから、いずみは大きく頷いた。


「分かりました。少しでも王妃様とイヴァン様に喜んでもらえるように頑張って作ります」


 こちらの答えを聞いて、イヴァンの目が柔らかく細まった。


「ありがとう、そう言ってもらえて良かったぞ。早速だが、今から作ってもらえないか?」


 にっこり笑って「はい」と返事をしてから、いずみは踵を返して奥の花壇へ向かう。


 前に使った物はなるべく避けようと考えつつ、辺りを見渡して草花を物色する。

 いくつか目星をつけてから、手にしていたハサミで丁寧に切り取っていく。


 花束が半分ほど仕上がったところで、また温室の扉が開く音がした。


 いずみが顔を上げると、扉の前で立ち尽くす水月の姿があった。

 イヴァンを見て驚いたのか、いつになく目が見開いてもり、体も強張っている。


 訝しそうにイヴァンが小さく唸ると、水月に近づいていった。

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