第27話痛む体を引きずって
水月がキリルの屋敷を出たのは、日が完全に沈みきった頃だった。
まだ雪は降っていないが、夜空から吹きつけられる風は凍てついている。まだ訓練が終わったばかりの熱い体に、寒さが痛いほどしみた。
足を一歩動かす度に全身へ痛みが走り、固く閉じた口から唸る声が漏れ出てくる。
しかしできる限り歩みを早め、水月は城下街の裏通りに入っていった。
ただでさえ国が荒れて人々の心も荒んでいる。ゴロツキも多い。
襲われる危険性もあったが、ここを使ったほうが早く城へ戻ることができる。
自分の帰りを待っているいずみを心配させたくなかった。
民家や店から溢れる明かりは少なく、闇に慣れた目でも先はよく見えない。
体が倒れないよう壁に手をついて支えながら、水月は黙々と歩き続けた。
少し疲れて、フウと息をつく。それでも足を止めることはなかった。
(早く戻らねぇと、いずみに心配かけちまう。こんな痛みなんか大したことはねぇ。アイツの痛みに比べれば……)
きっとここへ来たばかりの頃なら、歩くどころか立ち上がることすらできなかった。
一応キリルの訓練を受けて体が鍛えられているのだと、否が応にも実感する。
水月は忌々しく眉間に皺を寄せて、小さく舌打ちした。
(……感謝はしねぇからな、キリル。テメーが里を襲わなかったら、こんな辛い思いしなくてもよかったんだよ。テメーのせいで――)
心の中でキリルを責めれば責めるほど、水月の胸奥が沈んでいく。
隠れ里を襲撃したキリルたちが悪いのは当然だが、さっさと自分が死んでいれば、この状況を回避できたかもしれない。
すべてをキリルに責任転嫁している自分が、あまりに矮小な弱い人間に思えてならなかった。
疲れきった体と罪悪感で重くなった心を引きずって、どうにか城の前にたどり着く。
ぐるりと迂回して使用人が出入りする裏口へ向かうと、見張りに立っていた兵士がこちらに気づいた。
「こんな遅くまでどこに行ってたんだ……って、何があったんだよナウム? そんなに傷だらけになって」
ヒョロリとした細い体躯の彼は、歳が三つしか違わないということで、知り合ってすぐに親しくなった人間だった。
見知った顔に少し安堵しながら、水月は笑みを浮かべて兵士に近づいた。
「森で薬草を採っていたら、山の斜面で転んじまったんだよ。カッコ悪ぃから、他のヤツらには言うんじゃねーぞ」
兵士は目を丸くしてから小さく吹き出した。
「お前、また転んだのか? ここに来てからしょっちゅう転んでるな。大丈夫なのか?」
キリルに訓練していることを言うなと釘を刺されているので、傷について聞かれたら毎度「転んだんだよ」と言って誤魔化している。
そのせいで、どうも城で顔見知りになった人間からは、しっかりしているのか抜けているのか分からないヤツと思われているようだった。
情けなく見られることに抵抗はあるが、抜け目のある人間のほうが気を許してもらえる。情報を集めるには好都合だった。
水月は肩をすくめて照れ臭そうに笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。エレーナに薬塗ってもらって休めばすぐに治る」
「妹さんも大変だな、こんな生傷の絶えない兄貴がいて。あんまり心配させるなよ……さ、はやく顔見せに行ってやれよ」
そう言うと兵士は裏口を顎で差し、水月へ行くように促した。
「ああ、ありがとな」
軽く手を振って裏口をくぐると、水月は足早に薬師たちの部屋へと向かう。
足音を立てないようにしつつ、気配を殺し、素早く移動する――キリルから教えられた歩き方。
より多くの経験を積まなければ、キリルを追い越すことはできない。
だから日頃から練習し、この動きが自然にできるよう練習していた。
少しは成果が出てきているようで、下働きの人間とすれ違っても気付かれない頻度は上がっていた。
部屋の扉の前にたどり着いた途端、水月の体から力が抜けそうになる。
今日もどうにか戻ってこられたという安堵感に、思わず口元が緩んだ。
(さあ、少しでも元気そうに見せないとな)
痛みが走る体に「もう少しの辛抱だ」と言い聞かせてから、ゆっくりと扉を開いた。
既に人気がなくなった部屋の中央に、ぼんやりとした蝋燭の明かりと、作業台に突っ伏している人影が見える。
薄暗くてここからは顔は見えないが、すぐに体躯からいずみなのだと分かった。
(待ちくたびれて寝ちまったか……悪いことしたな)
己の不甲斐なさに大きなため息を吐き出しながら、水月は静かに近づいていく。
いずみの穏やかな寝顔が視界に入り、どくんと鼓動が高鳴る。
派手さはないが、透明感のある品が良い顔立ち。その外観のままの心根。
里にいた頃から気になる存在だった。
人の裏を読もうとする自分とは正反対の、人の良心を信じて疑わない少女。
世の中を甘く見ていると思いながらも、その甘さが愛おしかった。
本音を言えば、成人になったらいずみを嫁にもらい、自分も久遠の花か守り葉になれたらいいと昔から思っていた。
実際に隠れ里へ出入りしている商人が久遠の花や守り葉と夫婦になるため、一族に必要な知識を学び、一族と同じ能力を身に宿した者が少なからずいる。決して叶わない夢ではなかった。
けれど、今の状況を自分が作ってしまった以上、この望みを形にする訳にはいかない。
欲する気持ちをを押し殺して、いずみの味方であり続ける――それが自分なりの贖罪だった。
一度深呼吸して波打つ心を鎮めると、水月はいずみの肩を叩いた。
「こんな所で寝てると体壊しちまうぞ、エレーナ」
身じろぎしてから、いずみがゆっくりと瞼を開ける。
眠そうに何度か瞬きした後、ハッと息を引いて体を起こすと、真っ先に水月を見上げた。
しばらく息を止めてこちらを見続けてから、ホッとした息を吐くとともに優しく微笑んだ。
「よかった、無事に戻ってきてくれて。……ナウム、お帰りなさい」
心配し続けていたせいか、いずみの目にうっすらと涙が滲んでいる。
気持ちを引き締めた直後なのに、水月の心が大きくぐらつく。
思わず抱きしめたい衝動に駆られて、手が動こうとする。
しかしピクリと上がりかけたが、強く拳を握って動きを抑える。
不自然な力みを誤魔化そうとして、水月は己の胸元を掴んで小さく唸った。
「今日は一段とキツかったぜ。キリルのヤツ、まったく手加減する気がねぇ」
こちらの痛みが伝わったかのように、いずみは眉間に皺を寄せ、苦しげな表情を浮かべた。
「そこに座って待ってて。今すぐ治療するから」
言われるままに水月は近くの椅子に腰かける。
それを合図にいずみは作業台の下に置いてあった薬箱を持ち出し、いくつか小瓶を出して並べた。
緑地の小さく丸っこい瓶を手にすると、それを水月に差し出した。
「先にこの痛み止めの薬を飲んで。即効性を強めたから、前の薬よりも痛みが早く引くわ」
小瓶を受け取ると、水月は口の中へ流し込む。
濃厚な甘さが通り過ぎた後、苦味が舌の中央から広がっていく。
今の生活になってからほぼ毎日口にしている薬だが、どれだけ飲んでも慣れるものではなかった。
空いた小瓶を作業台に置く頃には、いずみは軟膏の蓋を開けて準備を終えていた。
「さあ、薬を塗るから服を脱いで」
促されて水月は服を脱いで足元へ置く。
打ち身やすり傷だらけの肌が露わになった途端、いずみが心苦しそうに目を細めた。
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