第22話黒い軍服の男
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。いずみは朝食を終えてから、日課となっている薬草たちを手入れするため、温室へと向かった。
外の花壇にあるのは寒さに丈夫な物や、滅多に枯れない生命力の強い薬草が植えられている。
こちらはたまに雑草を取るぐらいで充分だが、温室で育てている物は、とても繊細で手のかかる薬草ばかり。自然と温室にいる時間は長くなっていた。
剪定バサミを手にしながら、いずみはしゃがんで低木に顔を近づけると、細い枝を見つけては切り落としていく。
だが、不意に昨日の疑問を思い出してしまい、動かしていた手を止める。
(考えても仕方のないことなのに、どうして気になるのかしら?)
はっきり何がと断言することはできないが、違和感を覚えてしまうのだ。
もしかすると、見過ごせない何かがあるのかもしれない。
父に薬師の知識を叩き込まれていた時、言われたことがある。
人を癒すということは、人の命を扱うということ。
ちょっとした変化を気のせいだと済ませてしまったせいで、命を落とすこともあるのだ。
命が消えれば取り返しがつかなくなる。どれだけ慎重になっても、やり過ぎることはないのだ、と。
もう会えない父の顔が頭に浮かび、いずみの目に涙が滲んだ。
(父さん、母さん、みなも――)
感情が走り出してしまい、冷静に考えられなくなる。
どうにか気持ちを落ち着けようと、硬く目を閉じながら息を深く吸った。
その刹那、キィッと素早く扉が開く音がした。
この時間に温室へ来たことがあるのは、今のところ水月ぐらいだ。
ハッとなっていずみは指で涙を拭い、慌てて笑顔を作って振り向く。
入って来たのは、黒い軍服をまとった青年だった
首筋まで伸びた波打つ赤金の髪、鋭い目付きに不敵さが宿る群青の瞳。大きく力強そうな鷲鼻が、彼の印象を猛々しくしていた。
彼も人がいて驚いているのか、目を見開き、こちらを凝視していた。
何か言わなければと思うのに、漂ってくる威圧感に気圧され、いずみは固まったまま青年を見続ける。
と、青年はバツが悪そうに顔をしかめ、頭を掻いた。
「悪いな、急に入って来て。別に取って食べる気はないから、そんなに怯えないでくれ」
返事をしようとしたが口は開こうとせず、いずみは大きく頷いてみせる。
青年は薄っすらと苦笑を浮かべてから、扉を閉めてこちらへ歩いて来た。
「見ない顔だが、お前は何者だ? 一体何をしている?」
「は、はい、私は薬師トトの孫娘エレーナ……祖父の手伝いで、こちらに生えている薬草の手入れをしております」
やっと出した声は裏返っており、いずみの顔が恥ずかしさで熱くなる。
青年は「ほう」と声を漏らすと、まじまじとこちらを見つめてきた。
「トトの孫娘か、初耳だな。つい最近ここへ来たばかりか?」
いずみが「そうです」と答えると、心なしか青年の顔に悪戯めいた笑みが浮かんだ。
「その様子からすると、俺が誰か分からないようだな」
「はい……あの、失礼ですがお名前を教えて頂けませんか?」
「俺の名はイヴァン……顔は分からずとも、名前ぐらいは知っているだろ?」
イヴァン。確かに聞き覚えのある名前だ。
けれど、それ以上は思い出せず、いずみはつい小首を傾げる。
唐突にイヴァンは声を上げて笑った。
「ハハ……この国で俺を知らない人間がいるとはな。まあいい、それも一興だ」
立派な身なりをしているのだから、きっと立場がある人なのだろう。
そんなことを漠然と考えた後、いずみはハッとなった。
「も、申し訳ありませんイヴァン様。私――」
慌てて跪こうとしていずみを、イヴァンは首を横に振って静止した。
「堅苦しいのは苦手なんだ、そんなに畏まらないでくれ」
否定しないところを見ると、立場があるのは間違いないようだ。しかし、それを誇示しない人柄に、いずみは強ばっていた肩から力が抜けた。
「分かりました、イヴァン様。ありがとうございます」
トトやイヴァンのように優しさを感じられる人に出会えると、心から嬉しく思える。
自然と顔の力みが取れて、いつの間にかいずみは微笑んでいた。
イヴァンは「それで良い」と言わんばかりに頷くと、辺りを見渡しながら尋ねてきた。
「実は母を見舞いたくてな、花を持って行きたいと思ってここへ寄ったんだ。俺は花のことはよく分からんから、エレーナが見繕ってくれると助かる」
ここの花を勝手に取っても良いのだろうかと疑問に思ったが、ここへ来るのは自分や水月ばかりで、昼間の短い時間だけ庭師が植物たちの世話に立ち寄る以外、訪問する人は見たことがない。
ずっと誰にも見てもらえないよりも、喜んでくれる人のために摘んだほうが草花も喜ぶような気がした。
「はい、イヴァン様。今から花を摘んで束ねますから、少しお待ちになって下さい」
いずみは奥の植物たちに歩み寄ると、蕾が開きかけた花を何本か摘み、花を引き立たせる濃い緑の葉も採取する。
そして丸い葉が可愛いツタを切って草花の茎をしっかりと束ねると、余った部分を花に絡めて、より見栄えの良い花束を作り上げた。
いずみが「どうぞ」と差し出すと、イヴァンは感心したように唸った。
「ほう、随分と器用だな……ありがたい。これなら母も喜んでくれる」
そう言いながらイヴァンは花束を受け取る。黒い服に彩り豊かな花束がよく映えていた。
手元の花々を見つめてから、彼はいずみへ視線を移した。
「すぐに礼をしたいところだが、あいにく今は何もなくてな。後日改めて礼を――」
ギィ、と扉が開く音がして、イヴァンは言葉を止める。
二人が扉へ振り向くと、武官らしき青年が颯爽とした足取りでこちらへ近づいて来た。
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