第6話生きる覚悟

「バルディグまでの道のりは長い。その間に弱ってもらっては困るからな……食事は朝と晩、必ず与える。大人しく従っていれば、監視付きだが休憩の際にはここから出してやろう」


「……分かりました、大人しく従います」


 顔から血の気が引いていくのを感じながらも、いずみはキリルの視線から逃げずに臨む。


 もし睡眠薬や痺れ薬を使ったとしても、守り葉の毒に耐えられる術を持つ彼らには効かない。自分が逃げる隙なんて、まず作れない。

 けれど、せめて水月を逃がすための隙を作りたい。そのために今はできる限り従順にしなければ……。


 ガタン、と馬車が地面の石に大きくつまずき、飛び跳ねる。

 ようやくキリルはいずみから視線を外し、踵を返した。


「しばらくは山道を行く事になる。舌を噛みたくなかったら、大人しくしていろ」


 そう言い残し、キリルは音を立てずに荷台の外へと出ていく。

 彼の姿を見ているのに気配をまったく感じさせず、まるでスゥッと消える幽霊のようだった。


 しばらくいずみと水月は、キリルが消えた先を見つめ続ける。

 と、どちらともなく息をつき、二人して崩れるように座り込んだ。


「アイツ、本当に人間なのか? 目が怖ぇよ、目が」


 砕けた口調だが、水月の声は震えている。強がっているのは明らかだった。

 いずみは水月の隣へ座り直すと、優しく彼の手を握った。


「ごめんなさい、すぐに貴方をここから逃せなくて。でも――」


 話の途中で水月が小首を振り、唇の前で人差し指を立てる。


「いずみ、ちょっと手の平を出してくれ」


 言われるままにいずみが手の平を見せると、水月はその上に指で文字を書いた。


『どこでヤツらが話を聞いているか分からねぇ。だから、聞かれたらヤバいことは、これで伝えてくれ』


 ハッと息を呑み、いずみは小さく頷く。そして握っていた水月の手を胸元まで持ち上げ、手の平を開かせてから、話の続きを綴った。


『いつになるか分からないけれど、どうにか水月が逃げる隙を私が作るわ。その時が来たら、みんなの分まで生き延びて』


 水月を逃がすことができれば、後は自分の力を悪用されぬよう、命を絶つだけ。

 欲を言えば、彼が目の前からいなくなる時までに、ひと目みなもに会えれば良いけれど。


 もう己を捨てる覚悟は出来ている。

 いずみが心の奥へ重い決意を沈めていると、水月は静かに首を横に振った。


『いずみ……お前はオレの命の救ってくれた。そんな恩人を見捨てて、オレだけ逃げる訳にはいかねぇ』


『水月が逃げたとしても、私は殺されないわ。だから――』


 次の言葉を書こうとした時、字を綴っていたいずみの指を、水月がギュッと握った。

 恐れることに疲れ果てているのだろう、彼の顔がやつれている。

 しかし、その黒い瞳には光が戻り、揺るがない意思が宿っていた。


 水月はいずみの手を開かせると、己の覚悟を形にするべく、力強く、ゆっくりと字を描いた。


『オレが逃げたら、お前は死ぬつもりなんだろ? それだけは絶対に嫌だ。逃げるくらいなら、いずみと一緒に死んだ方がいい』


 思わず目を見開いてから、いずみはわずかに視線を逸らす。

 フッと水月の口から、小さな笑いがこぼれた。


『いずみが死ねと言ったら、オレは喜んで死んでやる。でも、今はまだ言わないでくれ。……オレもいずみも死なずに、ここから逃げ出す方法を考えたいんだ。それに、もしかしたらまだ生き残りがいて、助けに来てくれるかもしれないからな』


 いずみは瞼のまたたきを増やしながら水月を見た。

 今にも風で吹き飛ばされそうな、小さな砂粒ほどの希望。けれど可能性がない訳ではない。


 コクリと頷いてから、いずみは水月の手へ指の腹を滑らせた。


『彼らに見つからないよう、みなもを隠して里へ戻って来たの。だから、きっとあの子は生き延びているわ』


 一瞬、水月の目が点になる。が、すぐに口元を綻ばせながら瞳を潤ませた。


『あのちっこいヤツは無事なのか! 良かった。本当に良かった』


 いずみもつられて微笑を浮かべる。しかし、すぐに表情を曇らせた。


『ええ……でも、これからあの子は一人で生きていかなくちゃいけない。それを思うと――』


『苦しかろうが辛かろうが、生きていればどうにかなる。しかもアイツは守り葉だろ? しっかり自分の身を守れるハズだ』


 確かに水月の言う通りだと分かっていても、いずみの胸から不安は拭い切れない。

 生きていくにはお金が必要だ。身を守ることはできても、生きるための金銭を手に入れることは容易ではないし、人買いに騙されて売られてしまうかもしれない。


 未だ冴えない顔のいずみの肩を、水月が軽く叩いた。


『もう少しみなものことを信じてやれよ。アイツは頭も良いし度胸もあるから、必ず生き残っていける。むしろ、いずみよりもしっかりしていると思うぜ』


 水月に言われていずみの脳裏に、今まで妹と一緒に過ごした日々が流れる。


 里の子供たちの中でも群を抜いて物覚えは早かったし、男の子たちに混じり、度胸試しを何度となくしていたことも知っている。

 木の一番高い所へ登ってから、間髪入れずに湖へ飛び込んだ姿を見た時は、こっちの心臓が止まりかけたものだ。


(……きっと大丈夫よね。あの子は生き延びてくれる)


 心の中で自分にそう言い聞かせると、いずみは顔から力を抜き、大きく頷いた。


 それを見て水月は頷き返し、嬉しげに指を軽快に動かした。


『絶対にみなもと再会しようぜ。それまでは、オレたちも何が何でも生き延びよう』


 彼の言葉を受け取るごとに、あまりに小さかった希望の光が、胸の中でどんどんと大きくなっていく。


 一族の秘密と力を守りながら、みなもと会える日が来るまで生きたい。

 そのためなら、どんな苦労をしても構わない。


 いずみの弱々しくなっていた目に、精気が戻り始めていた。


『分かったわ、みなものために生き抜いてみせるわ』


『そうそう、その調子だ。そのために、バルディグに着くまで、オレたちが生き残る道を考えようぜ』


 水月の言葉が、いずみのに強固な芯を埋め込んでいく。

 この状況を乗り越えようとする気力が沸き上がってくる、


 彼がここにいてくれて良かったと、心の底から思えた。

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