第52話不意打ちの裏切り

 元来た道を戻ろうと、レオニードと浪司が行く先に顔を向ける。と、


 ――シュッ。

 何かを引き抜く音がした。

 その直後、レオニードの左腕に焼きつくような鋭い痛みが走った。


「くっ……!」


 咄嗟にレオニードはチラリと腕を見る。

 きれいに切り裂かれた袖から、赤い一筋の線が覗く。

 つうっ――服の下で熱いものが腕を伝っていく気配が分かる。


 視界の横で、浪司が唸りながらよろめき、片腕を抑える姿を捕らえた。


(一体何が起きたんだ? ……みなもは無事なのか!)


 慌ててみなもへ振り向くと――。


 ――完全に表情が消えた彼女の手には、抜き身の短剣が握られていた。

 鈍色の切っ先は、赤い血に濡れていた。


「みなも、なぜ――」


 レオニードがみなもへ腕を伸ばそうとすると、彼女は軽く跳躍して後ろへ下がる。


 突如、四方から剣を手にした男たちが現れ、庭園を取り囲む。

 そして柱の影から、カツ……、カツ……と、もったいぶったような足音が聞こえてきた。


 みなもの隣に現れたのは、こちらへ嘲りの表情を浮かべたナウムだった。


「よく来たなあ。あんまり上手に変装しやがるから、昼間は誰だか分からなかったぞ」


 どうして気づかれたんだ?

 睨みつけて牽制するレオニードを見て、ナウムが人の悪い笑いを喉で奏でた。


「どうしてお前たちがここへ来るのが分かったか、知りたいか? ……答えは単純だ、みなもが教えてくれたんだよ。お前らにまとわりつかれるのが、もう嫌になったんだと」


「嘘を言うな! お前のことだ、みなもを脅して俺たちを襲わせたんだろ」


 思わずレオニードが言い返すと、ナウムは「いいや」と首をゆっくり横に振った。


「コイツはオレのものになったんだ。その証拠にオレの言うことを何でも聞いてくれる。なあ、みなも?」


 とろん、とした目でみなもはナウムを見ると、抑揚のない声で「はい、ナウム様」と答える。

 視線を合わすとナウムはみなもの肩を抱き寄せ、耳元で囁きかけた。


「お前がどれだけオレを愛しているのか、昔の男に見せてやれよ」 


 鈍い動きでみなもは頷くと、ナウムの首に腕を回し、自分から口付ける。

 薄目を開けて、うっとりした表情を見せる彼女から、嫌悪の色はまったくなかった。


 ナウムは横目でレオニードを見ながら、みなもの腰に手を置き、ぐっと己の方へと引き寄せる。

 そこからゆっくり背中を伝い、みなもの首筋に指を這わしていくと、次第に頬は紅潮していく。

 一度顔を話して吐息を漏らした後、彼女からさらに深く口付ける。


 耐えられず、レオニードは二人から視線を逸らす。

 見ているだけで動悸が強まり、痛みで吐き気すらした。


 これが現実なのか、夢なのか、分からなくなってくる。

 半ばレオニードが放心状態になっていると……ぽんっ、と大きな手が肩を叩いてきた。


「あれはみなもの本心じゃない。あの言動に虚ろな目……恐らくナウムの言うことを聞くように、暗示をかけられている」


 浪司の声に気づき、ナウムが顔を上げた。


「獣みたいなツラして、意外と物知りなんだな。まあ、どっちにしても変わらねぇけどな……今のみなもは、オレに従うことが全てだ。どんなことでもしてくれるぜ? オレが望むままに交わることも、オレのために手を汚すことも厭わない」


 熱くなっていたレオニードの体が、急に冷えていく。

 そして漆黒の泥のような、暗く粘り気のある――恐ろしく冷たい怒りが、激しくうねりながら広がっていく。


 許せない。

 みなもから意思を奪って、屈辱を与え続けるこの男が。

 彼女に意識があれば、どれだけ傷つくことだろうか。


 未だかつて、ここまで人に殺意を覚えたことはなかった。


 レオニードは鞘から剣を抜き、ナウムを睨みつけた。


「浪司、あの男を殺せばみなもの暗示は解けるのか?」


 話の途中で浪司から剣を抜き、構えを取る気配がした。


「それだけじゃあ解けはせんが、新しい指示が出されなくなるから意味はあるな」


 彼には珍しく、冷ややかで抑揚のない声。

 素早く隣を見やると、獲物を確実に仕留める野獣のような目をナウムに向けていた。


 しかし、こちらの怒気や殺気を受けても、ナウムの顔から笑みは消えなかった。


「オレを殺す、かあ……気が合うな。オレもお前らを殺したくて仕方がなかったんだよ」


 そっとナウムがみなもに顔を近づけ、わざとらしい猫なで声で囁いた。


「アイツらを始末しろ、みなも。特にあの若い男は、確実に息の根を止めてしまえ」


「分かりました、ナウム様」


 淡々とした声で返事をすると、みなもの目が据わる。


 次の瞬間。

 地を力強く蹴って駆け出すと、一直線にレオニードへ向かい、懐へ入り込んだ。


 咄嗟にレオニードは後ろへ下がり、距離を取ってから剣を交える。

 ギィンッ、という高い音が辺りに響く。


 剣の向こう側から見える彼女の目は、虚ろでありながら憎悪の色を漂わせていた。


 こちらが守りに入って刃を弾き返す度、即座にみなもは剣を振るってくる。

 力こそ弱いものの、予想以上に素早い身のこなし。

 しかも彼女には毒もある。周りには他の敵もいる。手加減しながら相手をすることはできなかった。


(みなも、すまない……!)


 レオニードは全力でみなもの刃を弾き、彼女の体を後ろへ吹き飛ばす。

 みなもから小さく唸る声が聞こえ、激しく胸が痛んだ。


 後方からは、浪司が数人を相手に剣を交える音がする。

 彼を援護しなければと心は焦る。

 しかし、みなもから離れても他の敵から剣を振るわれてしまい、己の身を守ることで精いっぱいだった。


 そんな状況を、ナウムは勝ち誇った笑みを浮かべながら傍観していた。


 あの男を斬りつけなければ気が済まない。

 だが、ここで自分たちが殺されてしまえば、二度とみなもを救えなくなってしまう。


 生きて果たすことに意味がある。

 初めて会話した時、みなもに言われたことが脳裏によぎった。


(不本意だが、ここは一旦退いたほうがいい。逃げ道は――)


 レオニードが瞳だけを動かし、辺りを見渡そうとした刹那。

 体当たりするような勢いで、みなもが突進してくる。

 剣の切っ先は真っ直ぐにこちらの腹部へ向けられ、確実に突き立てようという狙いが垣間見えた。


 反射的に身を翻し、レオニードはみなもを避ける。

 勢い余って彼女は前のめりになり、隙のある背中をあらわにした。


 誤ってみなもを斬ってしまう前に、このまま気絶させてしまおう。

 レオニードは彼女の首めがけて手刀を振り下ろす。


 気配を察したみなもが、振り向かずにその場へ身を縮ませる。

 そして、こちらの手刀が空振りしたのを見計らい、再び剣を向けてきた。

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