7(桜色の理由)
その日、ういちゃんから手紙が届いた。ワープロの文字で、こんなふうに書かれていた。
〝ユズノへ
突然、こんな手紙が送られてきて、あなたはさぞ迷惑していることだろうと思います。でも大切なことなので、あなたにだけは伝えておこうと思いました。
これから起こることは、すべてわたし自身の意志によって行われたことです。誰かに強制されたわけでも、誰かに唆されたわけでもありません。わたしは自分の存在を他のものに頼ったりはしたくないのです。それはもう言いましたね?
あなたのことには感謝しています。あなたのような友達がいてくれたおかげで、わたしは少し救われていた気がするからです。
――久良守茴〟
わたしは何度もその手紙を読み返した。手紙はごく普通の封筒に入れられ、B5のコピー用紙に印字されていた。封筒の表にはわたしの家の住所が印刷されている。
その手紙を受けとったときから、わたしは何が起こったのかを理解していた。とり乱したり、血の気が引いたりなんてことはなかった。ただ、ある朝突然、世界が雪で真っ白になってしまったみたいに、悲しくないのに涙が流れただけだった。
わたしはそれから、薊さんに電話をした。何となく、薊さんならわたしの言うことを聞いてくれる気がしたから。電話に出た女中さんらしい人に、取り次ぎを頼んだ。予想通り、薊さんは電話に出てわたしのお願いを聞いてくれた。
そしてわたしは電車に乗り、ういちゃんの家の前まで歩き、(今度は)例のリムジンで玄関先まで送ってもらっている。薊さん本人の案内で、ういちゃんの部屋に向かった。
ういちゃんの部屋には、ほとんど何もなかった。勉強用の机、ベッド、どうやって運んだのか見当もつかないようなずっしりした本棚、衣装箪笥、それだけだった。他には何もない。
まるで留置所の中みたいだけど、でも殺風景という感じじゃない。それはガラスが波に洗われて丸くなったみたいな、簡素で、いらないものが少しずつ削り取られていったという感じだった。森の中みたいに自然で、落ち着ける。見覚えのあるどこかに似ていた。
部屋の窓は開けられていて、中庭からは風が吹きこんでいる。静かで、光の粒子のはじける音が聞こえてきそうだった。
ういちゃんはそんな中で、ベッドの上に横たわっていた。
体には布団がかけられている。手を胸の上で組んで、まるで眠っているみたいだった。制服を着ているようだったけど、顔色は普通で、生きているようにしか見えない。死に顔は穏やかで、まぶたは空を閉じこめるみたいに優しく閉じられていた。
何だか森の中の白雪姫みたいだったけど、毒林檎をのどにつまらせたわけじゃないので、生き返ることはない。ういちゃんの胸が不恰好に上下することはなかった。
――そして、ういちゃんの髪は黒色だった。
少年みたいに短く切られた髪は、どう見ても桜色ではなかったし、長くもなかった。その黒髪はずっとそうだったみたいに、自然なふうにそこにあった。桜色の髪じゃないういちゃんはひどく無防備な感じで、手の平でぎゅっと握ったらそのまま壊れてしまいそうだった。
「あんまり、死んでるようには見えないでしょ」
わたしはイスに座ったまま、こくんとうなずいた。
「死因については、よく分かってないのよね。なかなか起きてこないんで、女中さんがドアを開けてみたわけ。そしたらベッドの上で死んでてね。慌てて救急車やら警察やら呼んだけど、完全に手遅れ。きっと神様は仕事が早いんでしょうね。キョウの魂はさっさと天国に召されちゃったってわけ」
「いつ頃のことなんですか、その、ういちゃんが死んだのは?」
「詳しいことは分かんないけど、死体の状態と発見時間をあわせてみて、昨日の朝方のことだったろうって話。気のきいたことに、みんなが起きる時間に永遠の眠りにつこうっていうわけね」
「…………」
「ただ、さっきも言ったけど死因がよく分からなくてね。検視官は行政解剖に回すって言ってるわ。でもそんなの、うちの親が認めるわけないでしょ。いや娘の体を切り刻むなんてできない、って話じゃなくて、醜聞になる可能性があるからね。そこでまあ、見えざる神の手によって解剖は取りやめというわけ」
「ういちゃんは殺されたわけじゃないんですよね」
「人に殺されるような性格じゃないわね」
薊さんはおかしそうに笑ってから、
「状況から見て、それはないでしょ。侵入痕なし、争った形跡なし、検視から見て外傷なし、死因不明。薬物か自然死だろうって話だけれど、解剖しないかぎり判明しないでしょうね。つまり、永遠に分からないってこと。状況的に見れば可能性は一つしかないけど」
「薊さんは、ういちゃんがやっぱり自分の意志で死んだと思ってるんですか?」
「思ってるっていうか、知ってるのよ」
薊さんは退屈な講義をする先生みたいに続けた。
「あなたが持ってきた本、覚えてる? キョウが忘れたとかいう。あれを見たから、あたしは知ってるのよ。内容までは分からなかったけど、ある薬物についての説明だとは分かった。その薬を使って、キョウはジュリエットよろしく眠りについたってわけ。もっとも、こっちは二度と目覚めないから、死んだロミオを見て短剣を使う必要もないけど」
わたしはもう一度ういちゃんのことを見た。それがどんな薬だったのかは知らないけれど、ういちゃんはやっぱり死んでいるようには見えなかった。ただ世界の終わりまで夢を見ているような、それだけみたいに。
「ところで、薊さん――」
「なに?」
「こんな手紙を受けとったんですけど」
わたしはそう言って、封筒ごと薊さんに渡した。薊さんは中の手紙を取りだすと、すばやく目を走らせた。
「キョウの書いた手紙みたいね。今度のことが自殺だってほのめかしてるみたいだけど」
「でも薊さん」と、わたしは言った。「これ書いたの、薊さんですよね?」
「……どうしてそう思うのかしら」
「何となく、そう思ったんです」
「何となくだけで?」
わたしは慎重に言葉を選びながら説明した。
「まず、ういちゃんがこんなふうに手紙を書くことはないだろうって思いました。それに、ういちゃんはわたしのことを〝友達〟なんて呼んだりはしなかった。どういうふうにも、呼んだりはしなかったんです。だからそのことでも、何となくこの手紙は変だなと思いました」
「…………」
「あとは、ワープロと消印です。普通、こういう手紙をワープロで書くっていうのも変ですよね? おまけに、この部屋にはパソコンさえありません。それにさっきの話からすると、ういちゃんがこの手紙を投函したのは死ぬ前日じゃないとおかしいです。でも消印を見るかぎりでは、この手紙はういちゃんの死んだ日に出されたものです。もちろん理由はいろいろ考えられるけど、やっぱりそれは変です」
「でも、それだったらあたしじゃなくてもいいじゃないかしら? 他にもこの手紙を書けた人はいるわよ」
「だってういちゃんが自殺したって知ってるのは、薊さんだけじゃないですか」
薊さんは口を閉ざした。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。こういうのが、やっぱりこの家の人間なんだろうな、とわたしは思う。
「でもわたしにはよく分からないんです。どうして薊さんが、こんな手紙を出したのか」
薊さんは軽くため息をついた。そして手紙を封筒に戻して、ポケットに突っこんでしまう。
「たぶん、うちの親はキョウの死を不慮の事故とか、そんなふうに片づけてしまうでしょうね。検視のほうがもみ消されるのは分かっていた。かといって、キョウは遺書を残していない。自殺だとしても、何か証拠が必要だった」
「それで、わたしを巻き込んで?」
「まあそういうことね。単純に遺書を偽造したんでは、信憑性に欠ける。だから一手間かけて、手紙ということにした。あなたさえそれを信じてれば、その手紙は本物として機能するはずだったんだけど」
「わたしはそこまでお人好しじゃありません」
「みたいね。これを使ってこのふざけた家を困らせてやりたかったんだけど」
「ういちゃんはたぶん、そんなこと望んでませんよ」
「知ってるわよ、そんなこと」
薊さんは面白くもなさそうに言った。
「キョウはあたしの妹なんだから」
廊下に出て、薊さんの案内で玄関に向かった。相変わらずいりくんだ道筋で、迷わずに一人で帰れる気がしない。
その途中、階段のすぐ横の角で人とぶつかりそうになった。でもその人は驚いたりはしない。例え乗り込んだ電車が反対方向に向かうものだと気づいたとしても、この人はきっと眉一つ動かさないだろう。
「ああ、薊か」
と、その人は道ばたの雑草でも見るように言った。そうしてわたしのほうを見て、
「その小さいのは?」
と訊く。初対面でいきなりのセリフだったけど、わたしは腹も立たなかった。ある意味では、それは予想通りでもあったから。
その人はあからさまに仕立てのいい、アルマーニとか、グッチとか、よく分からないけれどそんなブランドスーツをきちっと着込んでいた。眼鏡の奥の目は死んだ惑星みたいに無表情で、濃い闇がたまっている。身なりが良くて、顔立ちも整っているのに、全然親しさというものがない。
「茴の友達で、ユズノさんていう人です、脩一兄さん」
薊さんが、むしろ皮肉っぽさを一段階上げるように言った。
「ふうん」
その人はわたしのことを物でも見るような目で眺めた。つまりスペックとか、値段とか、そういう数値を測るみたいに。
「茴のやつも勝手な死にかたをしてくれたよ」
と、その人は肩をすくめて言った。
「もう少し家のこととか、僕のことだって考えてくれりゃ良かったんだけどな。死ぬにしたって、あんな死にかたをすることはない。あれじゃまるで嫌がらせじゃないか」
「…………」
わたしは黙っていた。薊さんも黙っていた。その人だけがまだ気がすまないみたいに、二言、三言しゃべってから廊下の向こうに行ってしまった。確かに、この人には投票したくないな、とわたしはふと思う。
脩一さんがいなくなってから、わたしは訊いた。
「あの、棗さんてどこにいますか?」
「棗? どうして」
「ちょっと会いたいんです。向こうは会いたくないかもしれませんけど」
薊さんはちょっと考えてから、廊下を別の方向に歩きはじめた。廊下のつきあたりみたいな場所に来ると、その扉を開く。そこは書庫だった。分厚くて高価で、人を撲殺できそうなくらい頑丈な本が壁いっぱいに並んでいる。
「あれ?」
と、中にいた人がイスに座ったまま意外そうに言った。いたずらっぽい表情に、リスみたいに無害な瞳。清潔そうな立ち居振る舞いと甘いマスクは、いかにもJ-POP歌手っぽかった。
「お久しぶりです、棗さん。それとも、脩一さんと呼んだほうがいいですか?」
わたしは笑ってしまいそうになりながら訊いた。
「ばれちゃったか」
棗さんは肩をすくめて笑ってみせた。大抵のことは許してしまえそうな、例の笑顔で。
「にしても、よくここが分かったね」
「あんたの隠れてるとこくらい、簡単に想像できるわよ」薊さんが馬鹿にするように言った。「昔っからワンパターンなんだから」
「それはお気の毒さまだったな」
棗さんは他人事みたいに言う。
「で、いったい何の用なわけ? 王子と乞食に戻っちゃったわけだけど」
「用はないんです。ただ、訊きたいことがあっただけで」
わたしは手短に言った。
「ほほう、いったい何を?」
「とりあえず、どうして脩一さんのふりをしたんですか?」
棗さんはちょっと考えこんだ。
「いや、俺なりの広報活動ってやつかな。ちょっとでも親しんで、未来の有権者に票を入れてもらえるように。……というより、ただのいたずら、かな。君に会うついでに兄貴のふりをしてみたわけ。何しろあの人、絶対俺のCDを人に配ったりなんてしないからな」
「もう一つ、こっちは聞いておきたいことがあります」
わたしは車の中で棗さんに訊かれたことを思い出す。
「あの時、ういちゃんのカバンのことについて聞きましたよね。あれってなんだったんですか?」
「…………」
棗さんは一瞬、言葉を切った。どうやら薊さんと目配せをしているみたいだ。了解がついたのか、棗さんは軽くうなずいて話しはじめた。
「茴の左腕を見たことあるかな?」
わたしは首を振った。
「あいつ、いつも長袖してるでしょ? あれは傷を隠すためなんだ。あいつの左腕はずたずたなんだ、リストカットでね。で、カバンの中に何が入ってるかっていうと、紙袋。パニック障害なんだよ、茴は。電車とかに乗ってると、時々呼吸ができなくなる。あるいは呼吸が早くなりすぎて過換気を起す。そういう時、紙袋がいる。学校のほうには知らせてあったから、先生たちにその辺の考慮はしてもらえてたけどね」
「…………」
「茴にとって、この世界はあまり居心地のいいところじゃなかった――だからさ、俺はこう思うんだよ」
棗さんはこの人のほうがよほど政治家に向いている、にこっとした笑顔で言った。
「君がいてくれてよかった。君が茴の友達でいてくれて、よかったって」
わたしは薊さんといっしょに家の外へ出た。天気が良くて、夏の陽射しがまぶしかった。玄関の庇の下は、濃い影が覆っている。その影は皮膚の下にまでしみ込んでしまいそうだった。
玄関前にはすでにリムジンが停まって、わたしを駅まで送る手はずになっていた。たぶんこんな車に乗るのは、これが最後になるだろう。全然悲しいとは思わないけど。
わたしは薊さんに向かって、訊いてみた。
「薊さんは、どうしてういちゃんが死んだんだと思いますか?」
しばらくしてから、薊さんは答えた。
「見当もつかないな。ただ――」
「ただ?」
「人間は誰だっていつか必ず死ぬわ」
「…………」
「そうでしょ?」
薊さんはにやっと笑った。わたしも、少し笑う。確かに、そうに違いない。
世界には、夏の陽射しが音を立てて注いでいた。
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