5(久良守家の人々)

 いつものベンチでういちゃんと会ったのは、それから何日かが過ぎたときのことだった。顔色がいつもと少し違うようだったけど、風邪はすっかり治って元気だという話だった。

 わたしとういちゃんはベンチに少し離れて座っている。

「本のこと、ありがとね」

 ういちゃんは苦笑するように言った。忘れ物をした自分のうかつさ加減に呆れている、という感じで。

「ううん、わたしこそ急に押しかけたりしてごめん。あの本、大事なものだった?」

「それなりに、ね」

 ういちゃんははぐらかすような言いかたをした。

「薊さんが言うには、ドイツ語の本だってことだったけど」

 もっとも、あの人の言うことだからどこまで信じていいかは分からない。

「そう、ドイツ語の本よ。〝Das ist ein Buch von Deutsch.〟。でもやっぱり、あの人中身を見てたのね」

 ういちゃんは爪をかむような口調で言った。

「薊さんは呪いの本で、十人に配らないと祟られるって言ってたけど」

「あの人らしいわね。でもあれは呪いの本じゃなくて、化学に関する学術書。少なくとも呪いの本じゃない」

「でもういちゃん、ドイツ語が読めるんだね」

 英語のテストにも苦労してるわたしとしては、驚嘆せざるをえない。

「読める、というほどじゃないけどね。でもドイツ語は英語よりよっぽど規則的な言語なのよ。英語がいい加減すぎるんだけど。それに昔、習わされてたから」

「家庭教師?」

「そう、分かってるとは思うけど、あれはそういう家だから」

「おっきいよね」

 わたしはでも、それ以外の形容詞を思いつけなかった。何だかあのお屋敷を訪ねたのは、百年も前の出来事みたいに思える。

「無駄なだけよ、あんなの。あれがどれだけ馬鹿みたいな場所かってことが、みんな分かってないのよ」

 ういちゃんはうんざりしたように言った。

「…………」

 薊さんもそうなんだろうか、とわたしはふと思ってみた。自分たちのことを呪われているといった、シニカリスト。

「でもユズノが会ったのがあの人くらいでよかったわよ」

「どうして?」

 わたしは我に返って、慎重に訊き返した。

「ろくな家族じゃないから。少なくともユズノに会わせたいと思うほどにはね」

「…………」

 わたしは曖昧な表情を作って、それに答えたりはしなかった。

 ――何しろわたしは、ういちゃんのお兄さんだという人に会ったことがあるのだから。


 あれは、ういちゃんの家に行った翌日くらいのことだった。

 帰りの道を駅まで歩いていると、すぐ隣に大きな黒い車が停まった。ダックスフンドみたいに胴が長くて、ついさっき出来あがったばかりみたいなぴかぴかの車体をしている。いわゆる、リムジンという車だった。

 でもわたしはたいして気にせずに、そのまま歩いていった。人通りの少ない住宅地のことだったけれど、とにかくそんな車に用のあるはずがない。

 そうしていると、不意に後ろから声をかけられた。

「君、もしかしたらユズノさんじゃないかな?」

 振り向くと、開いた窓から男の人がのぞいている。人懐っこそうな笑顔。わたしはきょとんとした。見覚えのない人だ。

「あの、わたしのことですか?」

「そう、君のこと。ユズノさん、だよね?」

 よく分からないけれど、わたしはうなずいた。その大きな車は水の上をすべるみたいに音もなく近づいてきた。

「僕の名前は久良守脩一。聞いてるかもしれないけど、茴の兄貴です」

 わたしは何度か瞬きして、その人のことを見た。政治家の秘書という話だったけれど、とてもそんなふうには見えない。ざっくばらんで、平気で人の名前を間違えるタイプに見えた。にこにこして、人を傷つけない嘘をいくつでもつける感じ。

「今、偶然君の姿を見かけたんだけど、せっかくだから声をかけておこうと思ってね。茴がいつもお世話になってるみたいだし」

「えと、こちらこそ」

 わたしはぎこちなく頭を下げた。

「いや間違ってなくてよかったよ。ちらっと見かけただけだったからね。ところでどうかな、ちょっと話でもしないかな? 駅まで送ってあげるから」

「でもそんなの悪いですし」

「気にすることはないよ。どうせついでなんだ。それに僕は君と話をしてみたいんだ」

 わたしは困ってしまった。でもうまく断る方法なんて思いつかない。

 車の中をのぞいてみると、誰もいない。誘拐にしては手が込みすぎているし、それに私のことなんて誘拐したって何の特にもならないだろう。

 その時、かちゃりと錠前を開くような音がして、ドアが開いた。わたしはため息をついて車に乗り込んだ。なるようになれ。

 後部座席は対面シートになっていて、運転席とはパーティションでしきられている。ドアが閉まると、世界そのものが消えてなくなったみたいにふっつりと音がやんだ。

 揺りかごをゆするような柔らかな加速を感じたあとは、もう車が走っているのかどうかも分からなかった。

「何か飲み物はいるかな? ピニャ・コラーダなんかはどう? 僕はなかなかうまいカクテルを作るよ」

「遠慮しておきます」

 この人の言葉はどこまで本気なのかよく分からなかった。

「あの、それで話って……」

「いやたいしたことじゃないんだ」

 脩一さんは笑った。大抵の失敗は許されてしまいそうな、そんな笑顔だった。

「ただ茴がいつもお世話になってる、そのお礼がしたくてね」

「わたしはういちゃんと会いたいから会ってるだけです」

「そう、それが重要なんだ」

 信号なのか、車がかすかに停まる気配がした。まるで外宇宙の出来事みたいにはっきりとはしないけれど。

「ところでユズノさんは、茴のカバンの中身を見たことはあるかな?」

「カバンの中?」

 不意にそんなことを訊かれて、わたしは首を傾げた。そんなの、見たことがあるはずはない。

 脩一さんはわたしの表情でそれが分かったみたいだった。やっぱり政治家っていうのは、人の思考を読むのが得意なんだろうか。

「なるほど、見たことはないんだね?」

「何かあるんですか、ういちゃんのカバンの中に」

「いやいや、たいしたことじゃない。知らないならそれでいいんだ。ちょっと気になっただけだから」

 ひっかかったけれど、この人はそれを絶対に答えてくれないんだろうな、という気がした。はらわたが煮えくり返っていても、心が永久凍土みたいに冷えきっていても、この人は礼儀正しく笑顔を浮かべ続けるんだろうと思う。

「それにしても、君は茴と少し似ている気がするな」

 と、不意に脩一さんが言って、わたしは慌てて否定した。

「全然似てないです。わたしはういちゃんみたいに立派じゃないし」

「いや――」

 と、脩一さんはいたずらっぽく笑って、

「とてもキュートだよ、君は。どこかのきれいな箱の中に大切にしまっておきたくなるくらいにね。絵本のページのあいだとか、南の明るい海の底とか、そういうところにあるような可愛らしさだ。それに君は絶対に人を傷つけたりしないタイプだよ。茴と同じでね」

 そんなふうに人に言われたことはなくて、わたしは赤面した。薊さんはああ言っていたけど、わたしはこの人になら投票してもいいような気がする。

「どうやら駅まで着いたみたいだ」

 そう言われて、わたしははじめてそのことに気づいた。いつの間にか、車は駅前のロータリーに停まっている。たぶん向こうからは見えないのだろう、道行く人がじろじろと車の窓を眺めていた。

「すみませんでした。わざわざ送ってもらって」

 わたしはカバンをつかむと、慌てて車を降りようとした。こんなところを学校の同級生に見られたら、すごくまずいことになってしまう。

「いや、こっちこそわがままに付きあってもらって悪かったね。君に会えて本当に良かったよ」

 また錠前の開くようなかちゃりという音がして、ドアが開いた。

 途端に、手品師が帽子から取りだしたみたいに世界はそこにあった。車を降りてみても、すぐにはそれが本物の世界だという気はしない。まるで月から帰ってきたみたいな気分だった。

「それから、こいつをどうぞ」

 と言って、脩一さんはそれを差しだした。

 見ると、CDアルバムだった。ジャケットには黄色い魚の絵が描かれている。どれもぶくぶくに太った魚だった。よく見ると、〝シニカルケミカル〟とロゴが入っている。

「薊のやつがどう言ったかは知らないけれど、それほど悪くない歌だとは思うよ。もっとも、僕は普段あまりこういうのは聞かないんだけどね」

 弟のための、ささやかな宣伝活動というところだろうか。ういちゃんのことといい、ずいぶんまめな人みたいだった。

 ドアが閉まって、窓のところから脩一さんが手を振る。わたしは誰かに見られているかもしれないと思いながらも、手を振った。リムジンはロータリーをぐるりと回って、来た道を戻って行く。分かっていたけれど、本当は駅前に用事なんてなかったのだろう。


 ういちゃんは家族のことをいったいどう思っているんだろう、とわたしはふと考えてみる。久良守家というのはずいぶんな特殊な家で、平々凡々の家庭で育った私には想像もつかないようなところがあった。

「……あのね、薊さんに会ったとき、〝あたしたちは観賞用だ〟って言ってた。だからこんな名前なんだって」

「なるほどね」

 ういちゃんは特にショックを受けた様子もなく言った。

「観賞用、か。言いえて妙かもしれない。さすがインチキ広告作ってるだけはあるわね」

 あれはやっぱり本当だったのか……

「あの人たちにとって、久良守っていうのは、政治家以外の何者でもないのよ。つまりそれが、自己同一性というわけ。それ以外のことは瑣事にすぎない。タコの足みたいなものよ。ほっといても勝手に生えてくる。大切なのは本体のほうで、あとはどうなったって構いはしない」

「そんなの普通じゃないよ」

「そうね、普通じゃない」

 ほとんど間をあけずに、ういちゃんは言った。冷えきった鉄の塊みたいな声で。

「昔、こんなことがあったわ」

 ういちゃんは部屋を掃除していたらひょっこり出てきた思い出の品を眺める、という感じで言った。風化はしているけど形そのものはきちんと残っている、という思い出の品を。それはロックハンマーでも壊すことはできない。

「あれは小学校四年生の時のことね。当時、わたしはまだ久良守っていうのが分かってなかった。それがわたしにとってどういうものなのか、ということが。問題は、図画工作の時間に起きた。その時の授業で、わたしたちは絵を描いてた。わたしは絵を描くのが好きだったから、一生懸命に描いた」

 ういちゃんは座ったままついと、指を動かしてみせた。その時の絵を描こうとするみたいに。

「自慢じゃないけど、その絵は地元の児童画コンクールで最優秀をとった。わたしはずいぶん喜んだ。何しろ自分でもよくできたと思ってたから。でもわたしはその絵を焼いてしまう」

「焼く?」

 急な話の展開で、どう反応していいのか分からなかった。

「そう、焼いた」

「どうして?」

「わたしの存在がどうにかなってしまいそうだったから。その絵は本当は賞なんてとってなかった。偽物だった。それはみんな嘘のことだった」

「最優秀が?」

 ういちゃんはうなずいた。たぶん自分に向けられた、残酷な自嘲を浮かべて。

「親の差し金だったのよ、それは。コンクールで選ばれるように事業団体に圧力をかけたわけ。いわゆる出来レース、というやつ。わたしはそれを、父親から教えられた。賞は久良守家の宣伝活動の一環で、わたしのことなんてどうでもよかったんだって。だからみっともなくはしゃぎまわるのはやめろって、そう言われた」

「…………」

「その時、わたしはようやく分かったの」

 ういちゃんは指を降ろした。たぶん、子供の時のういちゃんがそうしたのと同じように。

「この人たちは、わたしのことを平気で壊せるんだって。それがわたしにとってどんなに大切なものでも、この人たちには関係がない。わたしには大した理由や意味があるとは思えないことで、この人たちはわたしのことを自由にする。そして地球が太陽のまわりをぐるぐる回っているみたいに、わたしはそれをどうすることもできない」

 つまるところ、とういちゃんは言った。

「――あの人たちには、想像力ってものが欠けてるのよ」


 わたしはあの日脩一さんからもらった、棗さんのCDのことを思い出す。それはたくさんの双子が作ったみたいにありふれた音楽で、どの曲も見分けがつきにくかった。ふと、薊さんの言ったことが偲ばれる。ヴォーカルと作詞を棗さんが担当しているみたいで、そのうちの一つはこんなはじまりかたをしていた。


〝昨日 ボクは神様とケンカしたんだ

 みんながボクに いじわるをするから

 ボクは ゴミだめから拾ってきたみたいな 汚れた言葉を吐く

 でも 本当は ボクはみんなに優しくしたいんだ

 心のこもったハグを あげたいんだ

 きっと誰も そんなこと思いもしないだろうけど〟


 歌詞カードを片手に見ながら、わたしはヘッドフォンから聞こえてくる音楽に耳を澄ました。音の粒を一つ一つ、丁寧により分けるみたいに。

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