4(本を届けに)
ある日、わたしはベンチのところにういちゃんの忘れ物があることに気づいた。
ハードカバーの本で、ぱらぱらページをめくってみるとローマ字がぎっしりつまっている。でも英語じゃない。時々、文字の上に「‥」の記号が振ってあった。もちろん、読めるはずはない。化学式みたいなものもたくさん書かれていた。
それがういちゃんの忘れ物であることだけは確かだったけれど、わたしはとりあえず拾っておくだけで教室まで届けるようなことはしなかった。明日になれば、たぶんういちゃんとは会えるだろうから。
でもどういうわけか次の日、森のベンチにういちゃんは現れなかった。
図書室の学生名簿でういちゃんの家の住所を調べるのは難しくなかった。それをメモして、大きめの住宅地図でその場所を確認する。
放課後、わたしはいつもの電車に乗って、自宅近くの駅から二つ先で降車した。そこから地図と標識を頼りにういちゃんの家を目指す。
結論から言うと、ういちゃんの家はすぐに見つけることができた。あんな家、簡単に見落とせるはずがない。
にもかかわらず、わたしは何度もそれがういちゃんの家であることを確認した。メモした住所と見比べ、地図をひっくり返してみたりした。でも間違いない。
それは、家屋という言葉ではとても間に合わないような、大きなお屋敷だった。邸宅というか、豪邸というか、とにかく巨大だ。敷地は鉄柵で囲まれて、ゴルフ場みたいに広い中庭がついていた。
門柱(移動柵で閉じられた門は、学校よりも明らかに大きかった)に掲げられた表札には、きちんと「久良守」と書かれていた。その下にはインターフォンがつけられている。
わたしは緊張するよりもむしろ無力感に打たれながら、そのスイッチを押した。天国の門の前で待たされるような、所在ない感じがした。どこからか機械の駆動音みたいなものが聞こえる。
〝――どちらさま?〟
不意に、スピーカーから声が聞こえた。雑音のない、クリアな音質だった。きっと高級品なのだろう。
わたしは聞こえないように小さく咳払いすると、インターフォンに向かって言った。
「えと、こちらに久良守茴さんはいらっしゃいますでしょうか?」
何だか自分でも怪しげな敬語だった。
〝……おたくはどちらさん?〟
やけにぞんざいな口調だったけど、その時のわたしに気にするような余裕はない。
「あの、わたしうい――久良守さんの友達で、ユズノっていいます」
〝で、そのユズノさんが何の用なわけ?〟
「久良守さんの、忘れ物を届けに来て」
〝忘れ物?〟
「あの、本です。たぶん外国で書かれた」
〝……ちょっとそれ見せてみて〟
また機械の駆動音が聞こえた。音のしたほうを見ると、ポールの上にカメラらしいものが設置されている。二台も。
カバンから本を取り出して、カメラの一つに向かってそれを示した。注意深く観察すると、レンズのところが人の瞳孔みたいに大きくなるのが分かる。
〝オーケー、どうやら本当みたいね〟
声がすると同時に、カシャンと音がして移動柵が開きはじめた。
〝道をまっすぐたどれば家まで着けるから。オズの魔法使いみたいに、ね。ただしそこを外れたら迷子にならない保証はないから、せいぜい気をつけて。ここには北の善き魔女はいないから、そこのところを良く注意して〟
柵が完全に開ききると、わたしは本をカバンに戻して歩きはじめた。門のところを踏みこえるとき、本当にここから帰ってこられるのか心許なくはあったけれど。
通されたのは、たぶん客間の一つだった。見上げるような高い天井に、高級そうな調度品が置かれている。カーテンの開かれた大きな窓からは、それも装飾品の一つみたいに明るい光が差しこんでいた。壁面には落ち着いた感じの絵が飾られて、本物の暖炉がしつらえられている。
ここに来るまでに、わたしは一キロメートルはあろうかという中庭の道をとぼとぼ歩いていた。西遊記の玄奘を偲ばせるような長い道のりだった。そうして邸宅部分にたどりつくと、今度は女中さんに案内されて、自力で帰れる気のしない迷路みたいな廊下をひたすら歩き続けた。このまま永遠に歩き続けるのかな、と思ったあたりでようやく一つの扉の前に来て、わたしは中に通された。
だからその言語に絶したような部屋を見ても、わたしは驚いたりしなかった。ただちょっと、ため息をついただけである。ヒマラヤやギアナ高地を見るよりも、もっと世界の広さを実感したような気がした。
「いらっしゃい、ようこそ久良守家へ」
イスに座ったその人は、そう言ってわたしをソファのほうに手招きした。声の感じから、その人がインターフォンでやりとりをした相手だと分かる。ちょっと人を馬鹿にしたような雰囲気。部屋の中には他に誰もいなかった。
言われたとおりに、アンティーク品らしいソファの上に座る。どちらかといえばそれは小さめのベッドみたいなもので、ふかふかのクッションにもかかわらずわたしは居心地が悪かった。
「ユズノさん、だっけ」
「はい?」
思わず、上擦った声を出してしまった。
「あたしは茴の姉で、久良守
(お姉さん?)
ういちゃんのお姉さんだというその人を、わたしはあらためて観察してみた。
とりあえず、ういちゃんとはあまり似ていないような気がする。銃弾でもはじきかえしそうな硬質な印象で、ういちゃんみたいに儚げなところはない。眼鏡をかけて、前髪をまっすぐにカットして、後ろ髪が軽くカールしていた。浅黄色のセーターにジーンズというラフな格好。たぶん、大学生くらいだろう。似ているのは、薊さんもやっぱり美人さんだということくらい。その顔にはアリスに出てくるチェシャ猫みたいな、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
「紅茶でよかったわよね?」
「あ、はい」
慌てて返事をすると、薊さんは典雅な手つきでポットを傾けた。
「お砂糖は二個くらいでいい?」
「たぶんいいと思います」
何だかよく分からないまま、わたしはうなずいた。
ことりと、音さえ品よく置かれた紅茶は、香りがよくて、おいしかった。あるいはそれは、いくらするのか見当もつかないようなカップとソーサーのせいかもしれなかったけれど。
「お菓子もどうぞ」
そのクッキーだかガレットだかよく分からないものも、やっぱりおいしかった。こんなものを毎日食べていたら、世界の見えかたが変わってしまいそうな気がする。
「それで、キョウに会いに来たんだったわよね」
(……キョウ?)
わたしが訊き返す前に、薊さんは続けていた。この辺のある種一方的な話しぶりは、ういちゃんと似てなくもないような気がする。
「残念だけど、今日は会えないって。軽い風邪みたいなものを引いてね、あなたに移すのも悪いからってさ。せっかく来てもらったのにね」
「そうですか」
ひどくがっかりしたけれど、それを言っても仕方がない。
「あの子の忘れ物だっていう本はあたしが渡しとくから。ちょっと見せてもらってもいい?」
カバンの中をごそごそひっくり返して、わたしはういちゃんの本を取り出した。渡すと、薊さんはぱらぱらとそのページをめくっていく。
「どうやらドイツ語みたいね」
独り言をつぶやくみたいに言った。
「ドイツ語?」
「これは大変だわ」
「何がですか?」
わたしはびっくりした。
「この本にはね、こう書かれているのよ。これを読んだ人間は、同じものを十人の人間に配らないと呪われる。本は十冊で定価一割引の九万円ぽっきりだって」
「……冗談ですよね?」
「本気に見えるかしら?」
わたしは面食らうよりまずうんざりしてしまった。この人はわたしのことをからかっているのだ。
「ところで、あなたはキョウの友達なんだって?」
また、キョウだった。でも話しぶりからしてそれがういちゃんのことだというのは分かる。
「そうです」
「珍しいわね、あの子に友達なんて」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ、どうもこうもないわね。あんなおかしな子に友達ができるなんて、世界の終わりまではないと思ってたけど」
すました顔でカップに口をつける薊さんを見て、わたしは思わずむっとしてしまった。
「おかしいのは、みんなのほうかもしれません」
「もしかしてそれ、キョウの受け売り? やっぱりあの子、まだそんなことを言ってるんだ」
「お姉さんは、そう思わないんですか?」
「思わないわね。思うわけないでしょ」
「でも、家族だし」
「家族だからって、あたしはキョウじゃない。キョウだって、あたしじゃない。……ところで最初から思ってたんだけど、あなたってびっくりするくらいちっちゃいのね」
「余計なお世話です」
気づいたら、そんな口をきいていた。薊さんは笑った。わたしは赤くなった。
「どうして、久良守先輩のことをキョウって呼ぶんですか?」
わたしは自分の失態をとりつくろうみたいに質問した。
「ああそれはね、茴香だからよ」
「茴香って、植物のですか?」
「そ、セリ科の多年草。小さな黄色の花だけど香りがよくてね、南欧では古くから栽培されてたらしいわ」
「その茴香からとって、茴?」
そこまで言ってから、わたしはふと気づいた。茴香、薊……
「もしかして気づいたかしら? そう、あたしもキョウも、植物から名前をつけられてるのよ。ちなみに現在の久良守家は四人兄弟。上から男が二人で、下が女二人」
「じゃあお兄さんもやっぱり……?」
「一人はね。
わたしは首を振った。
「まあ当然よね、あれじゃあ。あの人の歌を聴くたび、あたし音楽の神様の腹の太さに感心するもの。ファンが何人かいるっていうけど、きっと
ひどい言われようだった。
「でもね、植物の名前がつけられたのはそこまで。あとの一番上は
首を振った。分かるわけがない。
「それが久良守家の伝統だからよ。代々政治家になるのは長男だけ。いわゆる三バンを継ぐのは一人で十分なわけ。他はついでなのよ。つまりね、観賞用というわけ。だから植物の名前がつけられてる。棗、薊、茴、まったくありがたくって涙が出ないかしら? わたしたちはただのおまけみたいなものにすぎないってわけ。それが久良守家。明治だか大正だかから続く、由緒正しき家柄ってわけ」
「…………」
わたしはとっさに言葉も出なかった。茴香、おまけ、観賞用――
「ついでに言っておくと」
と、薊さんはたいして興味もなさそうに続けた。
「長男の脩一は現在、父親の秘書をやってるわ。まあ当然といえば当然だけど。来期あたり、立候補するとかいう話だけど、どうだかね。少なくともあたしはあの人に票を入れる気にはなんないな」
薊さんはわざとなのか無意識なのか、カップを持ったままイスの上に体育座りをした。行儀の悪い格好である。
「次男の棗は、さっきも言ったとおりJ-POP歌手、いや、本当はただの詐欺みたいなものなのかもね。そういう意味では政治家と大差ないといえるかもしれないわね。で、上から三番目のあたしが何をしてるかというと、インチキ広告作家」
「インチキ広告?」
わたしはきょとんとしてしまった。
「よくあるでしょ、〝南米原産の幻のパワーストーン。これを身につければあなたの人生も明日からバラ色に〟とか。折りこみチラシなんかに入ってる、いかがわしいやつ。いつも気持ちの悪い笑顔を浮かべた売れない俳優の写真が載ってる。あれの広告文やら構成を考えるのがあたしの仕事」
「……冗談ですよね?」
「冗談に見えるかしら?」
残念ながら、冗談には見えなかった。
「つまりね、あたしたちの一家っていうのは、とことんインチキってわけ。代々、骨の髄までインチキ商売をしてきたのよ。でもまあ、あたしはそのことに文句はないわね。だってそれが人生ってもんなんだから。インチキ? おおいに結構じゃない。少なくとも救われない真実よりはずっとましよ」
「…………」
わたしには言い返す言葉なんてなかった。紅茶は冷めて、いつの間にか水みたいになっていた。それは前みたいな魔法の味も、香りもしない。
「ところで一つ聞きたいんだけど、あなたはキョウのことをなんて呼んでるの?」
不意にそんなことを聞かれて、わたしは戸惑った。この人にそんなことをしゃべっていいのかどうか、分からない。しゃべったら最後、メフィストフェレスみたいに魂をかっさらわれてしまいそうだった。とはいえ、ここまで来て話さないわけにもいかない。
「ういちゃん、です」
「もう一度言ってくれる」
「わたしは久良守先輩のことを、ういちゃんて呼んでます」
薊さんはいったんカップをテーブルの上に戻した。それから小さく、まるで小人の足音みたいに小さく、笑いはじめた。含み笑いは次第に、ボリュームのつまみを目いっぱい回すみたいに大きくなって、薊さんは哄笑した。
笑いが静まると、薊さんはまた例の体育座りに戻って、指先を顔の前でからめた。
「なるほどなるほどなるほど」
薊さんは三回もなるほどと言った。
「ある意味、それはキョウにぴったりね。ういちゃん、か。なるほど、なるほど」
「何がおかしいんですか?」
わたしはさすがに、いささかむかっとして言った。
「いや、失礼。でもね、あたしとしては本当に愉快だったのよ。ういちゃん、か。いいね、ういちゃん、ういちゃん」
言いながら、薊さんはまだおかしそうだった。
「キョウなんて呼びかたよりはいいと思います」
「そうだね、そうには違いないな」
薊さんはようやく落ち着いてきたみたいに、わたしのことを見た。何だか、からかうような目だった。わたしを、というより別の何かを。
「あれでしょ? キョウはまだ例のキルケゴール風の説教をやめてないんでしょ。みんな想像力が欠如してるとか、何とか」
言いかたが気になったけど、それは確かにそうだったので、わたしはうなずいた。
「昔からそうなのよ、あの子は。いつもまじめで深刻そうな顔をしてね。それが一種の病気にすぎないんだって、いつまでたっても気づかない。でもね、あたしに言わせれば想像力が欠如してるのはキョウのほうなのよ。間違ってるのはあの子のほう」
わたしは黙ったまま薊さんの話を聞いた。
「あの子はね、勘違いしてるのよ、きっと。この世界が本当は美しいとか何とか、そんなことを。こんな言葉を知ってるかな? 〝矢を放つ前に的に当てることを考えるな〟。キョウがやってるのはまさにそれなのよ。矢を放つどころか弓を構える前から、もう的に当てたつもりで考えてる。あの子にとっては、答えが先なのよ。でもね、本当に重要なのは問いのほう……そうは思わないかしら? 的に矢を当てるんじゃなくて、矢の当たったところが的なわけ。あたしの言うインチキってのは、まさにそれなのよ。でもそれで十分だと思わない? 的なんて本当はどこにも存在しないんだからさ」
「…………」
「あの子はね、あたしたちが呪われてるってことを受け入れられてないのよ。この久良守家の血筋と、それから実人生ってやつをね」
気づいたときには、わたしは立ち上がっていた。たぶん、ちょっと怒った顔をしながら。
「だからって、ういちゃんはういちゃんです」
自分でも何だかよく分からずに、わたしはそう言っていた。
「わたし、もう帰ります」
「そう――」
薊さんは平気そうに言った。
「帰りは車で駅まで遅らせるから、安心して。もう一度あの長い庭を歩けなんて言わないからさ」
「…………」
やっぱり、この人はひどい人だ。最初からそうしてくれればよかったのに。
「それから最後に」
と、薊さんは言った。
「あたしは予言するけどさ、あの子はいつか死ぬわよ」
「人は誰だっていつか必ず死にます」
ようやくそれだけを言い返すと、薊さんはくっくっ、とまたおかしそうに笑った。
――彼女の予言は、見事に的中することになるのだけれど。
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