2(ういちゃんとの出会い)

 ういちゃんは、久良守茴くらもりういという。

 久良守というのは、あののことだ。地元の人間では、知らない人はいない。

 そのことがういちゃん自身にどう影響しているのか、ということはわたしにはよく分からない。つまり、ういちゃんの性格とか、人格みたいなものに対して。でもあの一家を見るかぎりでは、そのことはやっぱり大きな部分を占めているような気がする。

 わたし自身の印象としては、ういちゃんは久良守家の一員というか、たぶんその血筋みたいのを受け継いでいるような気がする。ういちゃんはそのことを否定するし、わたしも特に重要視するわけじゃないけど、それでもやっぱり、ういちゃんは久良守茴でもある。

 強情さとか、我の強さとか、そういうものについて。それは久良守の伝統というか、血脈みたいなものなのかもしれない。

 ういちゃんは、でもういちゃんはそんなことには関係なく、やっぱりういちゃんだった。少なくともわたしにとって、ういちゃんは久良守茴である前に、ただのういちゃんだ。

 ういちゃんがどんなふうだったか、わたしは今でもはっきり思い出すことができる。

 よく晴れた夜空みたいに澄んだ瞳は、照準器みたいにまっすぐ対象に向けられている。口元はいつも不機嫌そうに固く結ばれていて、眉はしかめっ面寸前みたいにまっすぐだ。すごく美人なんだけど、大抵の人はライオンにでも遭ったみたいに彼女のことを避ける。進行方向に立っていると、蹴っ飛ばされてしまいそうだから。

 一言でいって、ういちゃんはみんなに親しみを与えたり、野に咲く花みたいに人を和やかにする、というタイプではなかった。

 でも、ういちゃんが笑うと、わたしは何だか体がむずむずする。いつもまっすぐな眉がちょっとした奇跡みたいにゆるんで、口元がにっこりすると、わたしは何故だか体が熱くなってしまう。

 ういちゃんがにっこり笑うと、春先の陽射しに冬の眠りから目覚めるみたいに、わたしは何だかむずむずしてしまう。


 ――いったん、物語の順序を元に戻して、わたしとういちゃんがはじめて出会ったときのことについて語ってみようと思う。

 梅雨が明けた頃、七月の初め。

 まだ夏の気配は遠くて、意外なくらい涼しい日が続いていた。肌寒いと、長袖が必要なくらいに。でも暑さの予感みたいなものは感じていた。

 言い忘れていたけれど、わたしとういちゃんは高校に通っている。県立の、地元ではそれなりに有名な進学校だ。この時、わたしは入学したばかりだった。

 一学期も終わりにさしかかった、つまり、みんなそれなりに安定した学校生活を送っている、そんな時のことだった。わたしとういちゃんが出会ったのは。

 その日、わたしはお昼休みに学校の中庭に向かっていた。

 中庭といっても、実のところそれはちょっとした森といっていいくらいのものだった。うちの高校は県の森林公園と境を接していて、その一部を敷地内に取り込んだような形になっている。だから中庭というか、外庭というか、よく分からないけれど、校庭に鬱蒼とした森の広がる空間がある。

 公園兼学校の中庭であるこの場所に、ほとんど人はやってこない。学校の生徒もいないし、一般人の姿も見かけたことがなかった。たぶん学校の中なのか外なのかよく分からなくて、それで誰もよりつかないのだろう。

 いつもの道を通って、森の少し奥まったところに向かった。木の下に入ると陽射しが遮られて、空気がひんやりとした。陽だまりから、土のにおいがする。

 森の中にはベンチが一つ、忘れられたみたいに置かれている。手すりの部分が植物風に作られた、古めかしいけれど立派なベンチだ。ナルニア国物語に出てくる、例の街灯に少し雰囲気が似ている。

 ベンチの上を軽く払ってから、そこに座った。木々の間から、光がまだら模様に注いでいる。時々風の音がして、あたりは温かな海の底みたいに静かだった。

 お弁当を開いて、それを食べはじめる。食事が終わると、本を開いた。ごく普通の文庫本。ページの上に光が穴ぼこみたいに映った。少し読みにくい。でもちょっと楽しい。

「――その本、面白い?」

 声をかけられたのは、その時だった。

 誰もいないはずの森の中で、降ってわいたみたいに声がしたっていうのに、わたしは不思議と驚かなかった。流れ星が直撃したくらい驚いていいはずだったのに、まるで平気だった。

 顔を上げてみて、声の主を確認する。セーラー服の襟に入った赤いラインで、その人が二年生なのだと分かる。寒がりなのか、長袖を着ていた。

 とはいえ、わたしがその時に見ていたのは、本当は一つのことだった。わたしはその人の髪を見ていた。

 白金とか、銀髪とか、白に近い髪というのはある。でもその髪の色は、そんなふうじゃなくて、軽く薄紅を融かしたみたいな、そんな色だった。桜色、というしかない。それがその人の髪の色だった。

 わたしはけれど、驚く機会を逸してしまっていたのだと思う。怪しんだり戸惑ったりする前に、こくんとうなずいてしまっていた。

「面白い、です」

 その人は立ったまま、わたしの手元をのぞきこんだ。路傍に咲いている花をのぞきこむとか、そんな仕草に似ていた。

「『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』か。へえ、好きなの?」

「たぶん……」

「悪くないわね。うん、悪くない」

 その人はしきりにうなずいてみせた。何が悪くないのかは分からない。

「あなたは、あれかな。いわゆる文学少女ってやつ?」

 わたしは本を閉じて、何となくその表紙を眺めてから言った。

「たぶん、違うと思います」

 よく分からないけれど、わたしは本が好きなのではなくて、たまたま好きな本が存在していた、というだけにすぎないような気がする。それは結局、同じことなのかもしれないけれど。

「ああ、何となく分かる気がするな、あなたの言いたいこと。つまりあなたは本じゃなくて、純粋にその中の情報が重要だと思っているんでしょ。何もかもそぎ落としていって、それでも最後にそれが残る。情報だけが劣化しない」

「……?」

 よく分からないまま、とにかくうなずいてしまっていた。

 それから次の瞬間、「ちょっと失礼」と言って、その人はすぐそばに顔を近づけてきた。わたしはどきっとして、自分では分からないけれど顔が真っ赤になってしまっていたような気がする。息をすればかかりそうなくらい、ちょっと顔を動かせば、唇が触れてしまいそうなくらい、近いのだ。

 その人はまっすぐ、わたしの目をのぞきこんでいた。耳鳴りがするくらいに心臓が鼓動していたけど、何故だか目をそらせずにいた。まるで磁石にでも吸いよせられたみたいに。その瞳の透明さは手にはっきりと触れられそうなくらいで、星空を写し撮ろうとでもするみたいに瞬き一つしなかった。

 どれくらいたったのか分からない。実際には、十秒もしなかったはずなのだけど。

「……大体、分かったかな」

「え?」

「ところで、ここってとてもいい場所ね」

 その人ははぐらかすというわけではないのだけど、体を離しながら言った。

「また来てもいいかな、同じくらいの時間に?」

「いいと、思う」

 わたしが言うと、その人はにっこり笑った。世界の片隅で確かに何かが変わってしまったような、そんな笑顔で。

 手を振って、校舎のほうに戻ろうとする途中、その人は振り返って言った。「――そうそう、わたしの名前は、久良守茴」

 それが、わたしとういちゃんのはじめての出会いだった。


 それから何度も、わたしとういちゃんは同じ場所で会うことになる。同じ場所というのは、つまり森の中のベンチで。大抵は昼休みの時間だった。お昼をいっしょにとることもある。

 わたしがいつ頃から、ういちゃんのことを「ういちゃん」と呼ぶようになったのかは、よく覚えていない。気づいたときにはそんなふうに呼びはじめていて、そしてそれは、すごく自然なことのように思えた。

 ういちゃん、といっても、もちろんういちゃんはわたしより年上だ。だから「ちゃん」なんて呼びかたは本当は変なのかもしれないけど、わたしは気にしたことがない。親戚のお姉さんに話しかけるような気持ちだった。それに少なくともういちゃんは、そういう呼びかたをやめてほしいとは言わなかった。

 どうしてわたしとういちゃんがそんなふうに親しくなったのかは、考えてみるとちょっと不思議なことだった。ういちゃんとわたしには共通点と呼べるほどのものはなかったし、学年だって違う。性格や容姿、雰囲気だって全然似ていない。

 わたしとういちゃんが友達になるような理由はどこにもなかった。

 にもかかわらず、わたしは今でも、ういちゃんと友達になれなかったことのほうが想像できずにいる。ハレー彗星が何年も何十年もかかって、それでもやっぱり地球とランデブーするみたいに。

 だからこそ、それは短いあいだのことにしかすぎなかったのかもしれないけれど――


 久良守について、わたしがあの「久良守」なんだと知ったのは、だいぶあとのことだった。それはういちゃんから直接聞いたんじゃなくて、たまたま耳に挟んだものだった。そうでなかったら、わたしはきっとういちゃんの家を訪ねるときまで、そのことを知らずにいただろうと思う。

 それは何でもない、ある休み時間のことだった。

「ねえ、あれ、あの人知ってる?」

 と廊下のほうから、一人の声が聞こえた。

「……うわ、何あれ、髪まっしろじゃん。どうなってるの?」

 もう一人が訊き返す。

「あの人さ、有名人らしいんだよ。久良守誠治せいじの娘だって」

「それってあのテレビとかによく出てる、政治家の?」

「そうそう、あの

「うそー、それって超セレブってこと? いいなあ、何かあの人、すごいお金持ってるんでしょ。資産家ってやつ?」

「らしいけど、でもいろいろあるらしいよ」

「何が」

「特別待遇ってやつ? 学校での扱いが優遇されるんだって。先生とか遠慮して媚売ってるって話だし」

「何それ、依怙贔屓じゃん。何か卑怯くさくない?」

 それから、二人は別の話(どこかのアイドルの恋愛話)に移ってしまって、その話はそこまでだった。

 久良守誠治の名前は、もちろん聞いたことがあった。地元出身の衆議院議員で、党の代表役を務めたこともある有名な人だ。政治だけじゃなくて、芸能人顔負けの甘いマスクとか、鋭い弁舌とかで、よくテレビにも顔を出している。

 でもわたしはそのこととういちゃんを、うまく結びつけられなかった。月の裏側に兎が住んでいることよりも、それは想像しにくいことだった。権力とか地位とか、そういうものほどういちゃんにそぐわないものはない。実際にういちゃんが依怙贔屓されているのかどうかも、わたしは知らない。

 少なくともその時、わたしはそのことをたいして重要だと思ったりはしなかった。そんなことを気にする理由なんて、やっぱり少しもありはしなかったから。

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