第三節・第八話

 数駅電車で揺られ、下車駅の駅員の案内を頼りに向かったのは小規模の皮フ科・形成外科クリニックだ。

 当然俺はこんな遠方の病院まで訪れた経験なんてないため、新規で診察券を発行するところから始める。

 保険証を提示する際はわずかに緊張したが、特に怪しまれることもなく、無事初診手続きは完了した。


 しかし、問題は別にあった。

 待合室で診察を待つ間も、くぐいは手を離してくれなかったのだ。

 カップルだって自重するだろう。

 本当は鵠も恥ずかしいはずだ。

 今はやめておこう。

 そう説得しても、彼女は頑として譲らなかった。

 なにをそうかたくなになっているのか、まるで見えてこない。

「ね、せっかくだから」

「いや、分かんないよ。どの辺が『せっかく』なんだ」

 待合室のソファに座りながら小声で鍔迫つばぜり合いを繰り広げる様は、はたから見れば若いカップルの痴話喧嘩にしか見えないだろう。

 なにせ、その年齢で手を繋ぐなんて恋人関係以外想像できない。

 顔や耳が赤くなってないか心配だ。熱くて仕方ない。

 ううん。

 いや。

 ダメ。

 繰り返し首を振りながら、短く否定の言葉を呟く鵠は、結局聞き入れてくれなかった。

 思わぬ鉄壁ぶりに俺は降参し、手を繋いだまま待つ形になる。

 気恥ずかしくて顔も上げられない。ひたすら下を向いて、自分の番号が呼ばれるのを待つ。


 鵠はこんな人だったろうかと、真剣に悩む。

 振り返れば、ところどころで片鱗を見せていた。

 携帯電話を折ったり、窓を割ったり。

 だが、一日目・二日目はまだまだ大人しく、常識的な人物だった。彼女はもっと静かな印象を抱かせる女子ではなかっただろうか。

 いったい、あんたになにがあったんだ。

 いっそたずねてしまいたい。

 しかし煙に巻かれそうで、いまいち実行に移す気力が湧かない。

 たずねるにしても、廃校に戻って落ち着いてからでいいだろう、と納得させる。


 やがて診察の番が回ってくる。

 もしかして、診察の時も一緒にくるのだろうか。

 それとなく彼女の様子を見ると、意外にも素直に手を解いてくれた。

「待ってるね」

 なんだか肩すかしを食らった気分だが、彼女にはうなずきで応えた。

 診察と治療の結果、左手は数針縫うことになった。

「喧嘩でもした?」

 白髪交じりの中年男性医師にそう問われたが、一貫して「転びました」という一言で通した。

 さすがに無理があったが、彼は「そうかー、やんちゃはほどほどにね」と流してくれた。

 左手のいびつな造形についても訊かれたが、そっちは「生まれつきです」と主張しておいた。彼もそれ以上踏み込まなかった。

 痛み止めと軟膏なんこう、それから包帯が処方される。体感時間にしておよそ三十分で解放された。


 待合室に戻ると、同じ席に鵠が座っていた。

 ただ、彼女はうつむき、両手で顔を覆っている。

 静かに、微動だにせず、その姿勢を維持している。

 さも、周囲から自分を隠し、私はここにはいません、そう言ってるみたいだ。

 彼女の姿は、あまりに希薄だった。

 人の間で、目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐみ、さらに顔を覆って、一切の主張を表に出さない。

 また、離れて見て初めて、彼女はこんなに華奢きゃしゃな人だったのかと知る。

 腕も脚も、それから胴まで細く、せている。

 肩幅だって狭い。

 身長だってそれほど高いわけではない。

 そんな彼女が半ばうずくまるような格好をすれば、いやでも周囲の人影から埋まってしまう。

 鵠は、こんな風に人の隙間の中を生きてきたのだろうか、そんな想像をした。

「鵠」

 戻ったよ。

 自然と声はささやき声になる。

 ただの声でさえ彼女に対しては凶器と化す、そんな危惧きぐを抱いた。

 彼女は静かに、無言で顔から手をどける。瞳はうるみを帯びている。

「……おかえり」

 そう言って彼女は微笑のなり損ないのような表情をする。

「大丈夫か……」

 鵠は黙って、一度頷くだけだった。

 足元が揺れている錯覚におちいる。どうにも立っていられず、彼女の左隣に腰を下ろす。

 右手に、冷たい感触を覚える。

 見れば、再び鵠が手を添えてきていた。

 でも今度は、非力に指先を乗せる程度だ。力なく、細く冷たい指が遠慮がちに寄り添う。

 こんなのは卑怯だ。

 振りほどけるはずもなく、鵠の手を握る。

 彼女も、やわく握り返してきた。

 勘違いするな、間違いを起こすな。そう何度も自分に言い聞かせた。


 その後料金を支払い、処方箋しょほうせんを持ってすぐ隣の薬局へ向かい、薬や包帯を受け取る。その頃になると鵠も調子を取り戻し、「ご飯にしよ、ご飯」と溌剌はつらつとした声を上げた。

 いまだに鵠のこのテンションに違和感を抱かないでもないが、つい先刻のしおらしい姿よりはまだ安心できた。

 あの鵠を見てると、ふとした瞬間に枯れ、ついえてしまうのでないかと気が気でなかった。

 鵠が昼食に希望した店は、意外にもファストフード店だった。誰もが知っている、Mの字だ。

「こういうとこ、あんまり来たことないんだ」

 曰く、そういうことらしい。

 個人的にも、自業自得とはいえ左手に不自由を抱えている身の上であり、都合がよかった。

 店舗は駅前にあり、やや昼時を過ぎていても繁盛はんじょうしていた。

 さすがに平日なため学生は見受けられない。席に着いているのは子連れの主婦や、シャツ姿のサラリーマン、それから老人などが目立った。

 お互い、適当なメニューを注文する。用意でき次第スタッフが運んで行くというから、番号札を持って席で待つ。選んだのは二人席だ。

 待ってる間、彼女は「へぇ……こんな感じなんだ」と呟きながら、店内を見回していた。ちなみに、手はもう離している。

「思ったより、若い人って少ないんだね。お年寄りはこういうの苦手かと思ってた」

「時間帯によるんじゃないか」

「それもそうだね」

 言われて店内の爺さん婆さんを見やると、結構がっつりしたものを食べている。

 一般に語られるイメージよりも、日本の老人はたくましいのかもしれない。長生きは伊達ではないらしい。

「そうだ、前葉君の好物ってなに? 私は給食のメニュー全般だったよ」

「ああ、俺は」

 問われて思い返してみると、あまり食事に関して良い記憶は見当たらない。でも確かに、給食は割と楽しみにしていたかもしれない。

 幸い、給食中は理不尽を強いる人間もいなかった。

「そうだな、俺も給食かも……給食費、払ってなかったけど」

「あれ、じゃあうちと一緒だ。滞納仲間だね」

「格好つかないな、それ」

 少し意外な話だった。鵠の母親ならしっかり毎月納めてそうな印象があった。

 それを伝えると「そうなんだよ、だから先生の前だと後ろめたくてさ」なんてしょんぼりとこぼす。

 分単位、時に秒単位で鵠の表情録が更新されていく。

 こんなに感情表現豊かな人物だっただろうか。

 その念はぬぐいきれないものの、しかし彼女本人はかつて以上に活き活きとしており、水を差すのも野暮な気がした。

 それまでの鵠は、どこか陰のある雰囲気をまとっていた。

 それが彼女の持ち味や個性だと捉えていたが、しかし目の前でハンバーガーを待ちながら取りとめのない話をする彼女は、どう見ても一人の女子にしか見えない。

 ――明るく、元気で、普通の女の子。

 ――鵠も本当は、こういう人生を歩みたかったのかもしれない。

 廃校で寂しく暮らすより、ファストフード店で誰かと駄弁だべる方が、よっぽど上等な生き方だ。そう思える。

 適当な会話を交わしているうちに、注文の品が届く。

 俺はシンプルにチーズバーガーセットだが、鵠はメガバーガーセットだ。率直に言って、細身の彼女には釣り合っていない。

「どうせなら、チャレンジしようと」

 でもやっぱり普通のと比べるとおっきいねー。広告の写真ほどじゃないけれど。

 ハンバーガーを持ち上げながら、そんな感想を述べる。

「食べれるか?」

 鵠は力強く頷いて見せた。


 その後、彼女が完食したのは一時間も過ぎてからだった。

 食事の最中、「口に収まんない」としきりに泣き言を吐いていた。

 その様子が少し可笑しくて、笑いをこらえるのが大変だったのをよく憶えている。

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